2/1 市井の俳優論

今日は、演劇に関する授業のレポートの締め切りで、大学図書館の地下に籠っている。レポートの前にこれを書いている。
「芸術」と掲げられた棚の中でおよそ「演劇」に関する本が置かれたブロックは予想外に広く、適当に3冊選び、サッと目を通してからレポートのテーマを決めることにした。悪手であることは分かっている。しかしこちらにも事情がある。

笛田宇一郎『二十一世紀演劇原論』を掴み取った。その第二章「俳優論」冒頭。

ある人間を俳優たらしめるのは、舞台と現実の境界である。俳優という不在の本質はここにある。このことが不問に付されたままの俳優についての議論は、すべて不毛に帰す他ない。(p.74)
舞台という特殊な場所以外には、俳優など何処にも存在しない。すでに述べたように近代的ゲシュタルトによってもたらされる社会という現実という中で、人間は視えざる<原・制度>との関係において、自己実現=自己疎外を演じざるをえない。この自己実現に伴う必然性として、人間は「俳優」として生きていかなければならないことは、少しでも真面目に社会生活を送っている人間であれば、社会学の「問題」としてではなく、現実の生活の問題として、身に沁みて分かっていることである。
何かしらの役割を演じるから、人間は「俳優」なのではない。生きとし生けるものはすべて、なんらかの役割を生きている。人間において、役割を演じなければならないという意識が生じるのは、言葉を他社に語る=聞かれるという人間は、他者に視せる=視られるという演劇的な関係性を、不可避的に強いられるからである。当人にその自覚があろうとなかろうと、この関係性において人間は社会的に存在している。これが、三次元空間認識によって成立する社会生活において、人間が「俳優」として「演技」をし続けなければならない必然性である。

・普段、自分が意識的に何かを誤魔化したり印象づけたりするための行為に対して、演じていると気づくことはあるけど、無意識のうちにもっと大なり小なり演じていることはあるだろうし、分人という考え方もある。後ろめたく感じることはないと自信を持った。

・俳優に対して現実世界での清廉潔白ばかりを求めては、つまらない。テレビに特定の役者が映って不快になるなんてことは、虚構を楽しむ器量さえ失うほどに追い詰められている。


西加奈子『舞台』を読んでからと、東京ポッド許可局『緊急沢尻会』を聴いてからの2つのことをひとまとめにしたような言葉だ。

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