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書くことと読むこと

最近また少し、読むことがしんどくなっている。
調子を崩した当初は、本を読むことは愚か、映像作品を見たり、ラジオを聴いたり、歌声や音の多い音楽を聴いたりすることも辛くて、
かといって生身のままでも、町中や日常の中に満ちる騒音の一々が心に刺さってきて、
だから、ノイズキャンセリング・イヤホンでずーっと同じミニマムミュージックやホワイトノイズを聞いていたりした。

あの頃、ほとんど何を受け取ることもしんどくて、
だけど心の中からこぼれてくるものの受け皿は必要で、
だからわたしは、書き始めたのだと思う。
読みながら本と共有していた世界を、どこか別の場所に逃してやるために、
書くことが必要だったのだと思う。

そうしていま、また読むことがしんどくなって。
仕方がないので、書いている。

自覚からは遠いけれど、冷静になってみれば年始から三週間足らずの間に、
随分と色んな決断や変化、新しいリズムと接触して、
もしかしたらわたしは、自分で思っている以上に疲れているのかもしれない。

どうやらわたしは、どこかにひずみが生じたとき、書くことよりも先に、読むことができなくなるらしい。
呼吸に似ている。
深く息を吸うためには、まず深く吐き出さねばならないから。
いや、ひょっとしたら、そういうこととはちょっと違うのかもしれないけれど。
まぁとりあえず、しばらくは、意識的に休息を心がけて過ごそうと思う。


そういえば実は、去年は小説を書いたりもしていた。
200枚くらいのを2本と、50枚くらいのを1本。
誰に読ませようとか、ネットに上げようとかそういうためではなく、
ただ、小説を読めなくなった代わりに、仕方ないので書いていた。
そしてそれは思いがけず、自分にとってのセラピーにもなった。
物語に癒されることがあるのは、何も読み手だけではないのだと、
そのことを深く実感した。

過去形のように書いているけれど、実は今も、書いている。
たぶん150枚前後になると思うけど、先のことはわからんからなぁ、
と思いながら、紙数はいつの間にやら110枚を数えた。
物語のどこにもわたしの影はないけれど、見ようによっては、
誰もがわたしのようかもしれない。
そんな、自分のための物語だ。
だが、自分が納得いく結末にたどり着けるか、そのへんはリアルに腕が問われてくるので、意外と真剣に取り組まざるを得ない。
我ながら何をやっているのやら……と思わなくもない。


この国には、苦労をやたらとありがたがる風土があるけれども、
個人的には、せずに済む苦労はしなくても良いと思っている。

だから、小説といわず日記といわず、書かずとも平穏に生きていかれるなら、
それはとても幸福なことだなぁ、と思う。

けれど、書かずにおれなくても、書くことで生きていけるのならば、
それもまた僥倖には違いない。

少なくともいま、わたしはこの生に、十分に満足している。
それだけでまぁ、上々だ。

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