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自分のために費やすもの

引越したよ。

前回の記事を書いたのは、引越しが確定した少し後だったけれど、その後、無事引っ越しを終えました。
新しいおうちは、前のところとそんなにお家賃は変わらないけれど、ずっと新しくて広くて綺麗なところ。

例えば、キッチンのコンロが二口で作業台も少し広くなったこととか。
お風呂がちゃんとしたセパレートで、給湯機能がついていることとか。
トイレの便座がひんやりしていないこととか。
居室が広々していることとか。
賑やかな隣人のドスドスした歩行音や突然の雄叫びが聞こえてこないこととか。

久しぶりに味わうわかりやすい快適さに、からだはあっという間に馴染んで、日々巣作りを進めながら、日に日に「ここがわたしの新しい居場所」という感覚を強めている。
近所のお店の雰囲気も、今のわたしには程よい活気とのんびりとした空気を帯びていて、うろつくとちょうど良く元気をチャージできる感じ。

でも、去年だったら多分、引越しできる元気なんてまだなかった。
だから、今回の引越しには、「ああ、本当に回復してきてるんだなぁ」という意味での嬉しさと元気ももらった。

そして、ほんの少しだけど家賃が上がったこと。
部屋が広くなったこの機会に、電子ピアノを買おうかと思っていること。
これは、わたしにとっては思った以上に意味深いことなのかもな、なんてことにも、遅ればせながら気づいた。

わたしは昔から、自分のために何かを買うことが苦手で。
それは、自分のためにお金や時間を費やすことが許されないこと、罪深いことだと、どこかで思っているから。
同じだけの時間やお金を費やすことのできない人から、できなかった人から、手酷く責められる、後ろめたいことだと感じているから。
自分自身のために何かを費やしたとき、心の中でわたしを責め立てる声は種々あるけれど、一番奥深くに根差していて、大きな声を放っているのは、間違いなく母のそれなのだと知っている。

でも今のわたしは少しだけ、その声と距離を置くことができている。

思い返せば、わたしの回復の道筋は、自分の中に内面化された母の声から、少しずつ自由になっていくことと共にあったと思う(いや、正確には現在進行形か)。
考えるたび、身動くたび、わたしを責める神経質に尖った声。
それはけれど、わたし自身の声でもなければ、わたし自身の思考でもないのだと、一つひとつ引き剥がして、見つめ直していく毎、わたしの中をひどく掻き乱すものではなくなっていった。

母の思うように生きなくてもいい。
意識の上では強く思っていたそのことを、無意識下でもきちんと信じて、自分の血肉としていくことには随分と時間がかかったし、いつかのわたしが今を振り返ったら、本当はまだまだわたしは変化の途上なのだと思う。
けれど。

自分を「快適な」環境に置くことに後ろめたさを感じていたわたしが、友達のすすめに従って「快適な」寝床をこしらえることに、それなりに楽しさと喜びを感じていること。
人から高価なものをもらうことがひどく苦手だったわたしが、決して安くはない引越し祝いを、素直に楽しみにしていること。

これらはとてもわかりやすい大きな変化で、だからこそわたし自身も、きっと大きく変化しているのだろう、と信じている。

それでもきっとまた忙しくなったら、すぐに楽な方へと逃げようとするわたしは、自分よりも人のために時間を費やすことに汲々とし始めるだろうから。
今のうちにうんと自分のために時間を費やして、自分を大切にすることに、もっともっと慣れていこうと思う。

そんな新しい日々の入り口。

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