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承認欲求と自己肯定感について

 もうビックバン以前から擦られてきた題材ですね、ああ待って帰らないでせめて話だけでも聞いていってくださいですはい。
定期的に深夜帯にお気持ちツイートをしてしまうのは何故なのか、不安や焦燥感に駆られるのは何故なのか。元気な時にその時のことを一歩引いたつもりで考えてみることに、そして文章としてアウトプットしていつでも見返せるようにしようかな、と言うのが本日のお話です。

"粋音ユウト"であるために

 では何をもってして"粋音ユウト"とするのか。私の中での定義は、他者に記憶される存在であること。誰かの記憶領域を占有させていただくこと。この2点だと解釈しています。
私という存在は「バーチャルケモショタYouTuber(自称)」とカテゴライズされていますが、それはあくまで他者に認知されている間のみであること。画面の向こうにいる皆様に知っていただくことで現実世界にも"私"という存在が固定されるのではないかと思うのです。他者に記憶されない事柄についてはこの世界に存在していないのと同義であると考えるのです。
私が私である理由、"粋音ユウト"でなくてはならない理由は、私が定義するべきものではなく、貴方に知ってもらうこと、記憶してもらうことによって成し遂げられるものではないのかな?といったところです。

クソデカ感情"承認欲求"

 続いてタイトルの一つ、私自身の欲について。先程も書いた通り私という存在は貴方に認知されて存在できるもの。皆様の記憶ひとつひとつに個として"粋音ユウト"が存在するのです。
では私が成し遂げたいことは?"粋音ユウト"がこの現実世界で何を求めているのか?簡単にまとめると「皆様に認知されること、あわよくば好きになってもらうこと」なのです。あれ、不思議ですね、ひとつ前の見出しで言ってることと何も変わっていませんね?そうなんです、私にとっての自己実現欲求は貴方に存在を認められること即ち生存を許容されること。これって承認欲求とあまり変わりがないですね?
簡単に調べたところ、マズローの法則によれば「低位の承認欲求」にあたるそうです。私が"私"として存在する証明、それを求めることが「低位」と定められているとのことです。失礼しちゃいますね。
自己実現欲求とは「自分にしかできないことを成す」だとか「自分らしく生きる」といったものらしいのですが、私はあまりその考えに共感が持てないのです。
自己完結した獣人生に価値があるか、もう少し掘り下げてみようと思います。

"自分らしさ"を誰が評価するのか

 私にとっての私らしさ、つまり"粋音ユウトらしさ"とは。
貴方を含め私を認知していただいてる方々は、私に対してどんなイメージを持っていますか?貴方の認識を誘導しかねないので私からは要素については例をあげませんが、今思い浮かんだ私のイメージこそが、粋音ユウトらしさであるべきだと思うのです。「バーチャルケモショタYouTuberの粋音ユウト」はあくまでキャッチコピーであって宣伝板、目を引いてもらえるようにするための電飾みたいなものであって私を形づけるものではないのです。ケモショタなのは皐月ウサギ先生に戴いた身体なので当然として。
私という存在が貴方に認知され、キャラクターとしてタグ付けをしていただく。そのひとつひとつの要素が"粋音ユウトらしさ"であって、それは私が強制するものでも、ましてや決め付けるものでもないのかなと。そう思うのです。

自己肯定感 #とは

自己肯定感とは、その言葉の通り「ありのままの自分を肯定する感覚」のことです。
他者と比較することなく、自分自身が「今の自分」を認め尊重することで生まれる感覚であり、物事を前に進めるための原動力となります。
グロービスキャリアノート https://mba.globis.ac.jp/careernote/1327.html

 うん、何言ってるのかちょっとよく分からないですね。
もちろんこの考え方を否定するつもりも、そう考える人自身を否定するつもりも全くありません。ただ、私の価値観では説明できない感情なんだなって思うわけなのです。
これは自論であって貴方を含め他者に強要するつもりはないという前提で話を進めていきます。
もう何度も言っている通り、自分の存在というのは他者の記憶により確立します。貴方が"粋音ユウト"を認識しているから今私はこうして生きることができているのです。他者から向けられた意識の集合体が私こと粋音ユウトなのです。では仮にその自分の存在意義、存在証明を自分の中だけで完結したとしたら?自分は今ここにいる、それ以上の存在証明など無いと言い張るとしたら?では少し質問を変えましょう。
「その完結した自己肯定、誰が保証しているのですか?」
私にはそこがわからないのです。自分1人で完結した獣人生があったとして、それを記憶したり記録したりしなければ存在そのものの肯定ができなくなってしまうのでないか?と。
この現実世界への影響力、つまり存在の証明=自己を肯定する理由付けは「自己表現力×他者からの認知」で決まると思うのです。自己表現を何一つしなければ当然世界から追い出されます。何もしない/できないというのは自己を証明するに足り得ないのはわかりやすいと思います。ではもう一つ、他者からの認識が0だったとしたら。考えたくもないですが考察として必要なのでどうなるのかシミュレーションしてみましょう。

誰からも認識されない自分

 もし仮に、貴方を含めた他者からも認識されていなかったとしたら。もしも"粋音ユウト"という存在が誰の記憶からもいなくなったとしたら。
そのとき私はこの世界に存在していると言えるのでしょうか?誰が存在を認めてくれるのでしょうか?誰が生存を許容してくれるのでしょうか?いいえ、意識されていない以上誰からも肯定を得ることができません。
この世界に存在していると言えないモノ、生存すら赦されないモノ。つまり意識的な死と同義なのです。誰からも見てもらえなくなった時、最後の1人が私を忘れた時。その瞬間に私はこの世から死んで消えていくのです。いえ、死ぬというのは変ですね、最初から"いなかったモノ"として存在自体が抹消されるのです。誰からも意識されないモノとして皆様の記憶から消えたと同時に存在を肯定出来なくなり「最初からそこには何もなかった」となるのです。
怖いですね?ここまで読んでいただいている貴方であれば何となく私を認知していただけて、時折ふわっと思い返していただけるとは思うのですが、私は皆様の意識により延命できて、皆様の意識の忘却により殺されるのです。
別に脅しなんかではないですよ?言葉の綾であって実際には「消えて最初からいなかっただけ」なんですから、貴方は何も悪くありません。貴方の記憶に生き続けることができなかった、私の、"粋音ユウト"の努力不足でしかないのです。

おわりに

 いかがでしかた?(クソまとめサイト風に)
これはあくまで私の考える価値観であって、皆様に共感していただけるのは嬉しいですが強制するものではないということだけは覚えていただけると幸いです。
誰からも認知されない「私」であれば存在しないのと同義、という話であって記憶から薄れていく過去の色んな方々を否定しているわけではないのです。
それでも私は、1秒でも長く貴方の中で生き続けていたいので。今後も様々な創作活動に励んでいきたいなと思っている次第です。幸運ですね、貴方は"粋音ユウト"というバーチャルケモショタYouTuberの獣人生の観測者になれるのです。だから、1秒たりとも目を離したらダメですからね?

粋音ユウト

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