においたつ文章。
「文章がにおいたつ」って表現に「おおっ」と感じるものがあった。
この表現は斬新。
キレイすぎる文章にも自分に酔いしれている文章にも、共通して抱くような違和感を的確に言語化してる。
ただ、もしも「おまえの文章、においたつな」って感じで自分に使われたら、あまり気持ちのいいものではない。
だって「においたつ」だ。
娘さんから直接「お父さんにおう!」とダイレクトに父親の心を刈り取るようなエッジはないが、こう、徐々に不安感がこみ上げてくるニュアンスがある。言われたら多分、化粧室とかでしきりにセルフチェックする羽目になるだろう。
でも「におい」にも2種類ある。
「匂う」
「臭う」
だ。
こう単語だけ抽出するとゲシュタルト崩壊が起こりそうな2種類ではあるけれど、前者はフローラルな感じで、後者はThis is 生ごみって感じだ。
もしかしたら、娘さんは父親から漂うアダルティな香りに思わず匂ってしまった可能性だってあるかもしれない。いや、ない。人間、ワルイことは脊髄で口にできるが、イイことを反射的に口にするには相応の訓練が必要だ。
じゃあ、文章って媒介に当てはめた時「においたつ」とはいったいなんのことだろう。
本心から思っていることなら、『匂』ってくる。
思ってもない仮初の文章なら、『臭』ってくる。
文章の行間から漂ってくる「におい」に敏感になると、その人が本心で書いていることかどうか、なんとなく分かる。
この分かるって感覚こそ「においたつ」なのだと思う。
エッセイって、そもそも自分を開くものだ。
文章を書くって恥ずかしいとか、文章を書くって難しいとか、そういった意見もよく耳にする。
きちんとした文章や小説を書くときに、自身の経験不足や知識不足、語彙力不足をかえりみて「恥ずかしい難しい」と思った経験は多々ある。
私なんかライターとして仕事を続けるうえで、この課題からは一生逃げられそうにないし、たぶん向き合い続けなきゃいけないものだとも感じている。
でも「エッセイとは何をかくものか」と原点に立ちかえってみれば、どことなく気づくはず。
ああ、エッセイって自分をつまびらかにするものだって。
とくにnoteでは皆してエッセイを書いてる。
だからフタをしようが消臭剤をお部屋にばらまこうが、発生源自体が独特のにおいを放っているものなら、どうやったって「においたって」しまう。
逆に言えば、それを「あえてかがせる」のがエッセイの本質だとも言える。
「エッセイは自分の秘密をひらくものだ」と松浦弥太郎さんは著作内で語った。
ジェーン・スーさんは「エッセイが書ける人ってのは露悪的な人なんだよ」と語った。
佐藤由美さんは「選ばれた人じゃなくても、エッセイは書ける」と語った。
「私は恥を知らないんで、もっと見てほしい」と伊藤亜和さんは語った。
世の著名なエッセイストさんたちから、少しづつ言葉を借りて、自分の中でのエッセイ論を組み立てていく。
でも変な話、エッセイを書く人は全部が全部を鵜呑みにしちゃいけないし、これこそが正解だって一つに定めてもいけない。
だってエッセイは自分を開くもの。
着飾ってもにおいたつ。
ウソをついてもにおいたつ。
自分を隠してもにおいたつ。
黙っていたってにおいたつ。
借りたものをそのまま着用したって、結局は発生源たる自分が書いてるんだから、においたつ。
たとえば「ライティング術」について考えることがある。
よく料理の例えになぞらえて「文章の調理法を身に着けることだ」と表現されるのを耳にする。煮る。焼く。切る。打つ(?)
自分という素材や、外部にあるネタをキレイにさばいて盛り付ける。
素材の臭みを消し、見た目のグロテスクさを消し、食欲を刺激するためのライティング術。
整えられた文章をお客様の前に置いたらいざ実食!としてもらう。
この場合、ライティング術は包み隠すためのものになる。
もちろん、エッセイ以外であれば有効だし貴重なスキルだ。
でもこの場合、料理をしたシェフ自身の秘密は何も明かされない。
エッセイにおいて、こういったライティングの概念をそっくり適用させると逆に、においたってしまう危険性をはらんでいる。
エッセイにおいてのライティング術とは、とにかく、表現力を伸ばして伸ばして伸ばすことにある。そうやって数多ほど試行してきた表現力と自分自身のイメージを、入念に一致させていく。
自分を三枚おろし、ならぬ、百枚おろしくらいに細かくする。そこに一つ一つ言葉を乗せていく。
ってかもうミキサーにかけてもいい。フタをあけてモワっと香らせたっていい。
「自分が臭いだ? そんなもの上等!
自分の秘密をひけらかして嗅がせるために、あたしゃ天下の往来を歩いてるんだよ!」
って感じのメンタリティが必要なのだ。
じゃないと、面白くない。
出来た人間のよくできた話に、どうやって共感しろっていうんだろうか。
きれいなものだけが見たいのならエッセイなんて読むべきじゃない。
でも、世の中には魅力に満ち溢れたエッセイがごまんとある。
ジェーンさんがエッセイについて対談した時の名言で「『ほ~ら、これみて。生ごみだよ』って出来る人が強い」と書く才能を端的に説明してた。
心の生ごみを、生ごみのままに見せる。
それを惜しげもなく晒したものこそ、エッセイなのかもしれない。
すごく変な話をもう一つ。
たとえば。
こんな感じで。
行間を使って。
情緒を。
心情を。
表現しようとして。
そればかりになってしまう人からも。
においたってくるものがある。
もしも、この手法がその人自身の心と一致していて、そうするのが最も心的イメージに近いのなら、それで問題はないと思う。
でも、そこに「秘密」はない。
行間でキレイにフタをしているのか。いや、ちょっと違う。
多分、もともと匂うものがないから、すっかり漂白されちゃっているのかもしれない。
テクニックと素材に裏打ちされたメニューが永遠と配膳されるばかりで、エッセイとしての評価は難しい。
世界が絶賛する三ツ星レストランで食べたいんじゃない!
近所のよくわかんないロートルの食堂とかで出てくるおふくろの味みたいな定食を食べたいんだよ!!
キレイな人がキレイなエッセイを書いても、心にそこまで響かない。
いろんな糸がぐちゃぐちゃに絡み合っていて、どうしようもなく意地っ張りで、意地悪でひねくれもので、病的なまでに創作を愛している。
そんな人の書いたエッセイが、私は読みたい。
私自身もくっせぇ自分をつまびらかにするようなエッセイを書きたい。
かといって、過激な表現一辺倒になるのも、違う。
自分を明かすこと。
自分を飾らないこと
自分をそのまま見せること。
キレイな言葉じゃなくて、過激な言葉じゃなくて、これが自分だっていえる最適な表現をずっとずっと探し続ける。
苦しみながら悶えながら後悔しながら、私は誰?を問い続ける。
「そんなことしたって、金にならない。
もっと、身になることをしなよ。
現実をみなよ」
うるさい!!!
そういう言葉にFワードを吐きながら、自分の内面に潜り続けてるんだ!
でも、これって本当にむずかしいな…。
イイ人になるだけじゃあダメで。
悪い人のままでいるのもダメで。
イイ文章を書けてもダメで。
突飛な文章を書くってだけでもダメ。
ただただ自分の秘密を、そのままに書きだすことが、こんなにも難しい。
ええ、一体それってどういうことなの?って自問自答してしまいそうになるけど、今まさに痛感していることがある。
においたたせない文章を書くのは、すぐに出来ることじゃない。
中途半端に書こうとしたって見栄とかプライドが、次から次へと邪魔してくる。
そいつらをちぎっては投げちぎっては投げても、第二陣、第三陣と、厄介なファンみたいに列をなして突撃してくる。
たぶん、こういう心のブレーキみたいなやつを全部とっぱらった先にある「搾りカス」こそが、本当に面白いエッセイなんだろうなぁ。
だから、とにかく書き続けよう。
たどり着くには、「書く」あるのみ。
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