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かんたんたんたんたんたかたん。隔週投稿でも、なんだか久しぶりに思えちゃう不思議。


辞めるのはカンタン。
続けるのはムズカシイ。


習慣づけの難しさは、誰しも身に染みて経験していると思います。

例えば、ダイエットを決意してから、数か月。

横ばいの身体記録表に、ほこりをかぶったタニタの体重計。ふと視線を落とせばゴミ箱の中にはポテトチップスの袋。しかも無残にも引き裂かれて、内側のギンギラギンの包装紙がてらてら光を反射していたり!

食事制限では私の肥える身体を止められない!

ならばランニングを始めよう。

まずはカタチから、と、わざわざ買いそろえた薄手のスキニーとアームガード。それから新品のスポーツシューズ。不屈の精神でセットしたはずの10連続スヌーズの記憶を、過去の私と、寝床の目覚まし時計が覚えてる。

そいでも春眠暁を覚えず。いつのまにやら、スマホのカンタンアラーム機能だけを使って久しい毎日。すっかり普段履きになったスポーツシューズは見る影もなくクタクタ。カカトなんてぺっちゃんこ。

ってな具合で、人間の習慣づけは困難の連続。確かに、途中で折れちゃったほうがよっぽど楽、なんて思考がよぎるのは想像にかたくない。

でもでも、それなりに継続してきたことって、案外カラダやココロが覚えていてくれたりする。

こうして久しぶりに文章を投稿する私自身が、まさにその実践をカタチにしてる。

ということで、今日は
「毎日投稿を辞めた自分はイマ、何を書き出せるだろう?」
のコーナーです。

結構気楽にね、猫暮、やっちゃいます。
カンタンに、淡々に、タンタカタンを飲みながら。

…実際に鍛高譚たんたかたんは飲んでないけど、語感がよかったので勝手に付け足しちゃったぜ。タンタカタン。


オエノングループより「北海道からしそな香り」でお馴染み鍛高譚!
猫暮シソ好き。梅干しは嫌いだけど。




最近、「わたしが文章を書く理由ってなんだろう」とよく考えている。

考えるばかりでアウトプットをしていなかったから、結構頭の中がドロドロとしてきている。

煮詰まっている、って表現がぴったりかもしれない。あーだこーだ考え続けて、見識や視野はウンと広がってはきたけれど、逆にフロシキが広がりすぎて収集不可能な感じ。

どっかで閉じないと、コスモが炸裂して脳内ビックバンまったなしの状態である。たいへん、何とかしないと私の頭が宇宙になってしまう。ってことで早速書き出す。


大きく分けて、書く理由は二つある。

ひとつ、普段自分が思っていることを整理するため、書く。
ふたつ、読者にとって有益な情報を伝えるため、書く。


前者は、プライベートな私自身のために、私が好きで書いている。
単純にストレス発散がてら書きづつっている事も多い。

書くことは根本的に楽しい、と猫暮自身は思っているし、信じている。
変な話、かきあげた文章には興味がなくて「書いている時間そのもの」が楽しい。読まれることも、話題になることも、そんなに大事じゃなかったりする。


後者はライターとしての私が、物事を読者に正確に伝えるためにと書いている。ここでいうライターとは、職業的な意味と、使命だとか命題だとか形而上的な意味、どちらも含んでいる。

このモードの時の私は、成長だったり、前進だったりって意味合いが強い。良い記事を書くため、ウンウンと頭からアイデアを絞りだして、自分自身を負荷に晒している。苦難の道。修行みたいなニュアンス。


実際、かけた時間に比例して記事のクオリティはあがる。

少なくとも、今日みたいにテキトーお気楽にかきつづった日記よりは、深みがあって、味があって、自身で読み返してみても興味深いと感じるし、私の記事なのに「誰だお前」ってなる。ソンナコトカイタッケ…?

限界のちょっと上、いわゆる「背伸びをした文章」になっていることが多い。

やっぱり、そんな文章には憧れるし、心も動く。きっとこんな修練を積み重ねていけば、もっともっと「上」を目指せるのだろう、とか考えに至る。


でも、「上」ってのは一体どこなのだろう?と純粋な疑問も思い浮かぶ。

正直なところ、私は仕事に興味がない。
キャリアを積み上げていくことに、関心も興味もほとんどない。

一応、文章を書くことで身銭を稼いでいる状況ではあるけれど、それが無くても生活は特に変わらない。極端な話、筆をおいたとして、私の生活費の内訳は何一つ変わらない。

収入を増やしてフィレンツェやらドバイやらに旅行を!なんて行動力もない。そもそも猫暮、旅行ってのにあんまり惹かれない。旅先の絶景にも、おいしい食事にも、琴線がピタッと止まったまま。


昔の日記でも何回か触れたけれど、食に関してのこだわりが薄い。

おいしいものをおいしい!と感じる味覚は持っているけど、たとえ二度目がなくても構わないと思っている。

もしも、おいしい料理がごくごく近所にあって、お値段もリーズナブルなら何度でも通う。けど、苦労に見合わないなって一瞬でも感じちゃったら、一生思い出の中に閉じ込めておいちゃうタイプの人間なのだ。

計算式に当てはめると

(価値)=(シンプルなおいしさ)-(移動時間)×(気力)×(コスト)

なんだこの式

って感じになる。

どんなにおいしい料理店があったとしても、移動に時間がかかったり、行列を並んだり、帰り道の混雑なんかに遭遇してしまったら「あ、もういいや」ってなっちゃう。究極の出不精なのだ。

こう書くと「じゃあファストフードだけが正義になっちゃうんじゃないか!」って思うかもしれないけど、実は料理を作ることも好きだったりする。

食材を買いそろえて自宅でコトコト煮込むのは、なぜか例外的に許容できちゃう。自宅って環境も好きだし、料理自体も好きだから、労力に入らないのだ。




私は家って空間に、特別な価値を見出している。
愛猫と二人、ゆったりと流れる時間が大層気に入っている。

確かに、ずっと家で過ごしていると世間との繋がりは希薄になる。
でも、「これはまずい、少し社会と接点を持たねば!」と慌てて飛び出していくと、むしろ心がドンドン疲弊してしまう。

おそらく、世間一般で使われる「上」の世界には、どうしようもなく私自身の心を削ってくる価値観が備わっている。

たとえば、こんな感じだろうか?

注目・関心社会の椅子取りゲームで主席を獲得したモノカキさん

マネーゲームと資本の中で勝ち上がっていったモノカキさん

十分な社会的ステータスによってあがめられるモノカキさん

たくさんの人に囲まれて和気あいあいと過ごすモノカキさん

小さなコミュニティで幸せに過ごすモノカキさん




この辺から「上」を見上げている私。

うーむ。
けっこうしんどい。

何がしんどいかって、興味のなさがすさまじい。
たぶんこの表に私の求める幸福なんてカケラもないし、なんなら嫌いよりも嫌いなのだ。無関心。好きの反対。


たぶんだけど、たぶんだけどね。

たくさんの書いてきた上のモノカキさんは、どうしようもない現実を目の当たりにして、一旦筆を置いたり、距離を置いたり、精神がずたずたになるまで壊れちゃったりしながらも、それでも前進してきた人たちなんだと思う。

「そんなことは誰だって通る道。道のどまんなかに立ちはだかってる壁を越えて、一皮むけて、劇的な復活劇を遂げるのが人間ってもんだよ!」

みたいな王道テンプレパターンを忠実にこなしてきたのだと思う。


たぶん、このパターンって百万回、言われてきてるし、書き古されてもいる。
へこんで、立ち上がって、へこんで、立ち上がって。

垂涎の文章を求め、書き続けている人たちが、今日も今日とて「こんな私でも書いていいんだ!」と主張を続けている。
誰かに文章を書く勇気を与えるために、書き続けている。


猫暮はそんな文章を、読み続けてきて、書き続けてきて、ちょっと思う。

「美談と熱量は、時として人の目を曇らせる」


なんというか、猫暮は文章を書くことがただただ「楽しい」から続けてきました。

たぶん、努力とか、そういう言葉とは無縁。感覚のままに書いて、書いて、書く。猫も杓子もかからない他愛ないことを考えるのがもともと好きだから、文章って媒体はぴったりだった。

そんな結果論の末に、モノカキになっている。いうなれば、「上」ではなく「内」へ向かっているモノカキ。

でも、別に「モノカキです!」って名乗りたいわけでもないし、お仕事が欲しいわけでもない。

いつか書いたエッセイ集なんかにSNSのアカウント載せたり、メールアドレス載せたりする真似なんかしたけど、なんとなく、やらないと損かな?なんて思って形式的に載せていただけ。

…実際に連絡なんかが来たら「うひぇ~~めんどくさッ!」ってゲンナリしちゃったかもしれない(あまりに失礼!)


猫暮は、書いていて誰かに怒られたような経験もほとんどない。いや、たぶん、ほっとかれてる感じに近いかもしれない…。でもこれって例えるなら、幼い子供が永遠とおままごとをしている感覚に近いです。自由で、邪魔するものもなく、のびのびと遊んでる。

たまたま、そんな子供心のままに過ごせる媒体の一つが「文章を書くこと」だった。

実のところ、絶対文章でなければならない理由、ってのもないのです。
数ある「楽しい」の中の一つが、文章を書くこと。無数にある選択肢の、たった1つ。

自分が納得するまで、書く。書いた直後は、見直したりはするけれど、たぶん一週間もしたら忘れます。(え、そんなこと書いたっけな?)って疑問符がよく浮かんだりしています。過去の記事にたまたま出会って、何回もびっくりしています。私って、結構いろんなこと書いてるんだなって。

でも書いていくほど、読んでいくほどに、その「うらっかわ」に隠されているものが何となく掴めてきます。

「エッセイストとして生きる」を執筆された松浦弥太郎さんは、この掴んだ「うらっかわ」に関して「秘密」と名付けていました。

こちらAmazonのアソシエイトとして収入を得ていま云々!

自分だけが暴いた、自分だけのための「秘密」。

猫暮は、この感覚に近いところで生きている気がします。
書けば書くほど、途方もない秘密が解き明かされていく。

ずっと大事だと思ってたモノが、実は自分の価値観とは相反してたり。
逆にくだらないと思っていたモノが、何よりも勝る価値をもっていたり。

そんな秘密の発見がどうしようも楽しいから、今日も書いている。

書くと、これまで常識だと思っていたことがうらっかえります。面白いくらいにうらっかえる。だから楽しい。今日もペラっとめくっては、にんまりしてから、元の場所にスッと伏せている。




猫暮、まともに書き始めてから、まだ半年程度です。

これまで人生でマトモに書いたことなんてありません。小学校の卒業文集とか読み返してみましたけど、まるで文才の欠片もありませんでした。単なる主語と動詞の組み合わせだけ。サイかわいい、とか、猿の顔怖い、とか。(むしろ、私の隣に書かれていた文学少女ちゃんの迫真たる文章におののいたほどです)

中学校、高校、社会人、どの時系列の文章を見たって、まぁひどい。私自身が書いた文章に、私自身が何も感じるトコロがない。

それでも、文章を読み始めて「面白い」、書いて「面白い」と感じて、バカみたいに今日まで続けてきただけです。

キッカケを与えてくれたのは、間違いなくnoteですね。
数字には無頓着なので、今となってはお部屋のA4用紙でも満足しちゃう。実際に必要なのは、紙とペンだけだったのかもしれません。


書き続けるだけで私の考え方も、感じ方も、びっくりするほどに広がっています。元々、なかった感覚が、徐々に芽生えてくる感じ。

美談のキッカケで「こういう人になりたかった」みたいなエピソードをよく目にするけれど、猫暮にはソレがないんです。

最近、ない、と気づきました。

まわりや世間の声につられて「上」を向いたまま歩いていた私でしたけど、目当ての星とか空とかは「上」にありませんでした。
憧れる人はたくさんいるけれど、なりたい人は、どこにもいない。

最近、やっと「下」を見ることが叶った、って感じです。
そうです。やっと首が座ってきました。まるっきり、赤ちゃんでした。

そしたら、足元にこそ大事なものがゴロゴロ転がっている。
ガラクタに見えていたモノが輝いてみえる。
モノの歴史が見える。
モノの意味が分かる。

…あ、実はお一人、「こうなりたいな」って思った身近な人物がいるんですが、このあたりは別に記事にまとめているので、近々公開できたらいいな。


なので、なんだか今はまるっきり別世界に生きてる感じです。
高速道路から「1Q84」の世界に降り立った青豆の気分。

でも、別に苦節うんぬんかんぬん、というほどの歴史も私自身にはありません。好きなものや、興味があるものにきづいて、実践して、しゃぶりつくして、そして、飽きていく、を繰り返しているだけです。

人からすれば、これは「努力」なのかもしれませんが、私自身は努力だとは思っていません。「楽しい」や「好き」の果てであって、苦しみが伴うものじゃないのです。ほら、努力って、なんだか苦しそうじゃないですか。

仮に、私にとっての苦しみがあるとすれば、好奇心に素直になれず過ごしてきた、これまでの時間そのものかもしれません。「上」に気を取られるあまり、自分にとって大切なものをずっとずっと、ほったらかしにしてきちゃった、そんな過去です。

過去の私は特に苦しんでいないけど、今の私はちょっぴり苦しんでいる。不思議な歴史です。

でも、「上」にも「横」にも「下」にも道はたくさん続いていることに気づけました。これだけが正解、なんて決めてしまうのはもったいないです。

何者でもないまま、あっちやこっち。
「秘密」を求めてフラフラ歩いていくのも案外「楽しい」って、最近思ってます。



あれ・・・・?

ちょっと待ってよ。適当に書いてたらもう5000文字いってるじゃない!!
やめやめ!このままだとドンドンと書き続けちゃう。
ブレーキブレーキ。ああ、だめだ壊れてら。


…キリがなくなってしまうので、私自身にとって、実は大事だったことを下にまとめて終わりにしようと思います。

①誰のリアクションも気にしないこと
②自分自身を一番大切にすること
③努力をしないこと(努力だ、と自覚しちゃったら辞めること)

名付けて、「何事においても、ね」三か条


たぶん、大多数の人には受け入れられないと思う。特に③とかはね。
事実やら統計とは異なるかもしれないけれど、どれも私にとっては重要な「秘密」なのです。

人の数ほど、「秘密」があって、時にそれは間違っている場合も、多々ありけり。でもでも、だからこそ「秘密」たりえるんです。そんな秘密を、素直に受け入れる心が、私に必要なことだったんだなぁって。

たくさんの人が自分自身の「秘密」を大事にできるといいな。
そうシソヤカに願ってやまない今日この頃。タンタカタン!


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