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~私達は、もう居ないのかもしれない~『オッペンハイマー』|映画感想文

クリストファー・ノーラン監督最新作『オッペンハイマー』

米国初公開から遅れること約8ヶ月。ついに日本での配給が決定した。
一介の映画スキーとしてノーラン作品は外せない。普段はAmazonプライムでぽちぽち過去作品を眺める『家専』のネコぐらしも、こればかりは!と劇場へ駆け込みました。

『原爆の父』として知られるオッペンハイマーの半生を描いた本作品。
長崎・広島被災の哀しみや怒りの矛先として絶好の的と捉えられるほどセンシティブなタイトルだ。

ノーマン監督らしい時間軸を取り扱った複雑な要素が詰め込められていて、相変わらず映画初心者に優しくない構造に思えた。加えて3時間に渡る長尺にもかかわらず、余白や遊びすらも極端に少ない。圧巻の高密度だった。

彼の過去作で唯一優しい作品を挙げるとすればヒース・レジャーの遺作にあたる『ダークナイト』。
しかしこれはこれで「トロッコ問題」で有名なマイケル・サンデル教授が講義のテーマに取り上げそうなくらい深いテーマ性を孕んでいるため、やはりノーラン作品を十分に楽しむためには映画慣れが必須だろう。



小さな講習会場で国旗を掲げた科学者達の前に登壇したオッペンハイマー。彼を熱狂的に称えるシーンや、簡素なラジオ放送のみで「原爆が落とされた」という事実だけを否応なく分からされる。

作内では直接的な被爆シーンが描かれることはない。
原爆に関して「はだしのゲン」のオドロオドロしい描写を見て育った私からすれば、あまりにもあっけない展開に面食らった。
並みの映画監督であれば、白黒のアーカイブを拾ってきて擦り切れたフィルムのキノコ雲をスクリーンに映し出したことだろうが、この作品ではそれをしない。

しかし、そのあっけなさが新鮮な視点を与えてくれたとさえ私は思っている。
人間の絶望や失望の原点は、無関心から始まることを一つのメッセージとして私達に提示してくれた。

原爆製作に携わった科学者たちの関心事は「戦争の終結」「原子世界の秘密の解明」「マンハッタン計画の率役者」に尽きる。
一般市民であれば、「戦地からの近親者の帰還」も大きい。
日本の被爆者及び犠牲者は、その大義を裏付けるための「データ」としてしか処理されない。
国外の被災者の様子も、その後の破壊された町並みも、関心の領域にないのだ。

そういえば、奇しくも5/24より「無関心」を扱った作品の上映が決まっている。

『関心領域 The Zone of Interest』はアウシュヴィッツ収容所の目と鼻の先で平和に暮らすナチス派閥の家庭を描く作品だ。

ちょうどスティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を外側から見た構図になる。神に選ばれた人間とそうでない人間が分かたれたと、本気で信じる残酷で非情で、かつありふれた光景を我々に突きつけられるだろう。

無関心は人から思考を奪い去るが、それ自体は罪になりえない。
なぜならその領域はあまりに膨大で未知ばかりだからだ。人の一生で関心を持てる領域には限界がある。

だが、オッペンハイマーをはじめとした稀代の天才たちは、本来は想像だに出来ないはずの領域にアクセスできたのかもしれない。それを示唆する描写が、印象深く私の中に残っている。

相対性理論の父とも呼べるアルベルト・アインシュタインは、罪の意識に苛まれるオッペンハイマーから「ある言葉」を聞く。瞬間、アインシュタインの表情は抜け落ちた。彼らは一体何を”見て”しまったのだろうか。
ぜひこの一言は劇場で直接聞いてみてほしい。

・・・

先程のオッペンハイマーの登壇シーンについて一度振り返る。
現実的に考えれば、英雄となった彼に贈られたのは割れんばかりの歓声だろう。
だが彼の視点からは、その歓声がまるで悲鳴のようにも聞こえたのだ。

感極まって涙を流しながら抱き合う一組の夫婦が、まるで想い人の亡骸を抱えうずくまる光景に映る。
喜びを猛り踏み鳴らす観衆の足踏みが、怒号と怨嗟をはらんだ死者の行進にも聞こえる。
講習会場の外で気持ちよく酔いつぶれた観衆が、皮膚が剥がれ、あるいは溶け、立つこともままならない被災者の姿と重なる。

米国大統領に「自分の手が血塗られた」と赤裸々に明かしたオッペンハイマーは、現地の様子を見ずとも、一変してしまった世界を遥かなる座視から見つめていた。

1945年8月、原爆投下。その先に辿る運命をいち早く察した彼は、戦争のあり方がすっかり変わる世界へ遠く飛び立っていた。もしくは、そのずっと先の未来、灰になる世界の様子を憂いていたのだろうか。

・・・

マンハッタン計画は、ニューメキシコ州の一角にに原爆研究専用の街「ロスアラモス」を建設するところから始まる。本作のポスターの背景に映る鉄塔は、ロスアラモスに建設された「原爆起動用の施設」だ。鉄塔の上には原爆のプロトタイプと呼べるモノが格納されている。

原爆の威力計算において、科学者たちが懸念していた現象があった。
それが『引火』だ。

核分裂が連鎖的に反応を起こし、世界に現存する大気に引火する可能性を示した。仮に『引火』を起こした場合、世界は一瞬にして滅亡する。
科学者たちは綿密な計算の末にほぼありえないと結論をだしたものの「0%」ではなかった。作中では口を酸っぱくして「ほぼ0%」と何度も答えている。

当然、実験は成功したと歴史が証明しているし『引火』はおこらず「ほぼ0%」は「0%」であることも同時に証明された。

しかし、作中で彼の脳内には、たびたび轟音が鳴り響き、中空から降り注ぐミサイルの嵐、ストロボのように断続的に輝く白光りが、現実を塗りつぶすようにフラッシュバックされる。

思うのだが、この世界はもうとっくに「ない」のかもしれない。

少なくとも、オッペンハイマーの脳内では地球が灼熱とドス黒いキノコ雲に覆われる光景が、何度も何度も再生される。それはイメージにすぎないかもしれないが、実際に彼の脳内ではこの世界は終焉を繰り返しているのだ。

罪の意識、なんて表現じゃ生ぬるい。
1945年7月のロスアラモスの実験で、とっくに自分の体は消失したのではないか。
この空も、建物も、隣の友人も、愛する妻も、地面も、自分の体でさえ。ここに今自分がいることを証明できない。
せめて被害が広がらないようと、哲学ゾンビよろしく罪に駆り立てられた自分を夢の中で演じているだけなのではないか。

私たちの世界はあいも変わらず現存しているのだから、世界は滅びてはいない。
「世界を破壊する手段を与えた」ことに罪の意識をもった、と解釈するのが通常だろう。

だが、秘密を解き明かした稀代の天才たちが、そんな凡夫的な発想と同列程度で終わるのだろうか。
オッペンハイマー博士と、アインシュタイン博士の、魂すら抜けてしまったような表情は、たったそれだけで説明がつくことなのだろうか。

・・・

本編をこれから視聴する方には、事前の予習を強くオススメしたい。
もちろん、初見ならではの驚きや発見を楽しむのも乙だが、正直なところ、ノーラン監督からの抜き打ち検査をされている気分になる。私の浅学さでは到底、監督のお眼鏡に適うものではなかった。

個人的にはこちら、たてはま / CGBeginnerさんのまとめて予習シリーズを紹介したい。同監督作品の『TENET』『インターステラー』の解説でお世話になった人も多いのではないだろうか。

・・・

最後に、劇場の雰囲気についてちょこっとお話をしておきたい。

例に漏れず、構成だけでも複雑な映画だった。
スタッフロールが終わり、明かりが徐々に灯っていく最中、前の席の二人組はオーバーなほど首をかしげたまま顔を見合わせていた。館内から退場する時に耳にしたカップルの会話は、終始「よくわかんなかった」といった感想を仄めかすものだった。
私も前半、ちょっぴりまぶたが重くなってしまったシーンもあった(ひさしぶりの劇場ってとこもあったけど。ほどよい暗さなのよ…。)

なので、現状で「良い映画であったか」を評価することができない。
劇場の一回きりで、私が自信を持ってオススメできる要素といえば「迫力」くらいなものだった。

Amazonプライムやその他サブスク媒体で配信され、何度も何度も視聴し直して、初めて正当な意見や評価を述べられるものだと思っている。

そのたびに彼の苦労を何度でもリフレインして、それでも良い映画と胸を張って言える日がくるのであれば、それに越したことはない。

でも何度だって観たいと思えている。
まぎれもなく、ただの「映画」にはとどまらない作品に違いない。



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