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本当の自分を表現できずにいる『純粋なあなた』へ。

おはこんばんちは。ネコぐらしです。

鳥山明先生のDr.スランプでの挨拶、使ってみました。
便利な言葉ですよね。おはこんばんちは。

今、私がこの記事を書いているのは、夜。
だけど、読む人にとっては朝かもしれないし、昼かもしれない。

時間を超えて作品を届ける漫画家さんの視点は、やはりいつでもどこでも『読者』目線なのカモ。

・・・

さて、本日は
『純粋な人』ってテーマを話していきたい。

私は周りから見ると、どうやら純粋な人に見えるらしい。
「純粋さ」について、いろいろまとめていければな。と。




『純粋な人』って、どんな人?


みなさんの周りに、こんな人は思い当たりませんか?

  • 天真爛漫

  • ネアカ(根が明るい)

  • 屈託ない人

そういった「純粋な人」はいつでも明るく、そしてハキハキしている人、





今まではそう思いこんでいました。

様々な経験を通していく内に、まったくの逆だと気付いたのです。

その一つのキッカケが、自らその命を断った知人のOさんとのエピソード。


介護福祉士のOさんは、とても純粋な人だった。
乾いたスポンジみたいに、良いコトも悪いコトも一身に受け止めてしまう。

ホンキで、関わる人みんなを幸せにしようと考え行動していた。
結果的に、狂気的なまでの奉仕の精神を宿したOさん。
しかし、身が保たなかった。

・・・

Oさんとのエピソードを通して分かったことですが、純粋な人ほど、社会での生活はひどくやりづらいと感じるものです。


私達がイメージしがちな天真爛漫な純粋さとは、何も考えていなさそう。悩みがなさそう。ひたすらに自由に行動する。

しかし、社会においてその立ち振舞いをしては、怪訝な目で見られる。
特定の場所でしか生きられない。


実際に、介護の現場でそういった人々を散々見届けてきました。

私の場合、介護対象は高齢者のみならず、身体障害や精神障害も含め関っていました。
真の意味で純粋な彼ら彼女らに、選択肢は限りなく少ない。

普通、彼らと日常生活で関わることはありません。
家族や身内によって、ほとんど俗世から隔離されているからです。

・・・・

この場合、私がお話したいのは、Oさん。

社会にある程度適応をされているけど、根が純粋な方。

社会の成り立ちについて分かる。理解できている。
資本社会の仕組みを受け入れ、働いて、稼いで、生活の為に払う。

純粋さが強く特性として備わる人にとって、社会はしんどいコトだらけ。

嫌なことや辛いこと。これも生活のタメと、飲み込まなければならない。
そうして蓄積されていくことで、やがては人間不審に陥る。
それでも生活は止まらない。支援を受けて、地域社会に戻らされる日々。

ギリギリまで我慢を続けた結果、狂気的な思念に囚われてしまうコトも。


「愛嬌が武器になる」というのも世間でよく謳われています。
しかし愛嬌と純粋さを両立する人はとても珍しい。天性の才能です。

パッと思いつくのはローラさんや、りゅうちぇるさん。
華々しい人生とも映る。しかし、同時に凄絶な人生とも呼べる。
純粋なだけでは決してやってはいけない。

愛嬌がある人は、どちらかといえば強かな心が特徴。
自分の愛嬌に応えてくれる社会に対して、むしろ期待をするでしょう。
純粋ゆえの生きづらさ、とは逆です。

・・・

純粋な人は『自己不一致』を起こす


様々な経験を経たことで、純粋な人と、そうでない人、少しばかり見分けがつくようになってきました。

もちろん、精神科医の体癖診断のように素早く本質を見抜いたり、根拠を提唱しながら解説できるわけではありません。

でも、何かが違う、何かが引っかかる。

特にnoteを読み始めてから、文章でもそういった引っかかりが起こることに気づきました。

あえて特徴をあげるなら
「書き手と文章の自己不一致」でしょうか。

自分の言葉でない、どこか苦手意識のある場所からわざわざチョイスしたような。そんな違和感があるのです。

noteという媒体は、「自己不一致」を「自己一致」させていくのにうってつけの場所。

心のままに書き綴る。
すると外殻にバリアのように貼られたトゲが抜かれていく。
真ん中のまんまるい部分。
その殻の隙間から純粋さが顔をのぞかせる。

だけど苦手な言葉を使う限り、殻の奥にたどり着くことはありません。
心の言葉、自分の言葉を選ばない限り、見たくてものぞけないのです。

・・・

おそらくですが
「文章を書くこと、を目的にしてはいけない」
と感じる方も、中にはいらっしゃるでしょう。

むしろ、これまで私がnoteを読んできた限り、この主張は非常に多い。
もちろん、私も至極真っ当な意見であると思ってます。

ただ書いてるだけではない。
マーケティングも、自分自身のブランディングもしっかりと進められている。
常に読者目線、お客様目線。私もすごく感心します。
そういった記事を読むたびに、改めて自分のヌルさを痛感する。


最初こそ私もただ「書くこと」が目的でした。
次第に「”ネコぐらしの勉強暮らし”という存在のブランディング」が目的に変わってきました。これはつい最近です。


私の参考にしているnoter様は「書く前」から入念に準備を整えている。
準備9割。書く1割。まさにその通りです。
マーケティングの基本はいつだってここでしょう。


実際、最近ネコぐらしが推してる『チョコレート・ドーナツ』記事も準備が9割、執筆1割
エッセイ形式だけど、実はめちゃくちゃリサーチと分析を頑張った記事。


大抵は、

・もともと売り込みたい軸(サービスや商品)が別にあるか、
・パッとはじめた趣味として続けているか、
・勉強や学習したことのアウトプットの為か。

目的はそこで固定される。
あとは継続するか否か、といったところ。


なので、私のような「書くうちにスタイルが変わった」タイプは結構珍しいんじゃないかと感じています。途中から準備し始めるケース。


最近、人に言われてやっと思い出しました。
そういえば、私は相当に純粋な性質だったのです。
しかし、書く内に突然、自己一致がはじまったのです。

・・・

『自己一致』させながら書く


ネコぐらしは最近、こんな事を考えながら書いています。

  • 今書いている記事は「自己一致」しているだろうか?

  • 書き手目線と読み手目線、ちょうどいいバランスだろうか?

  • 誰かを無意識に傷つけてはいないだろうか?

  • この記事を書くことで、この先どんな変化が想像できるだろうか?


どの項目一つとっても、まるまる10000文字くらいの記事に出来そう。
それほど深いテーマですし、考え続ける限り正解はない。
ベターはあっても、ベストはない。
目的によって適正配分、つまりバランスも変わっていく。

「自己一致」は特に重要。

やりたくない分野とか苦手な分野でレッドオーシャンを回遊したところで、あっというまに難破船の仲間入り。

まったく収入のない貧しい生活が予想されるとしても、まずはブルーオーシャンに漕ぎ出してみる。

つまりは、誰もみない「日記やエッセイ」から始める。

noteは本質的にはビジネスではありません。
クリエイターの支援であり、表現の場です。
気軽に始めることができるなら、まずは穏やかな海からはじめたい。

わたしは、あえて「読ませるため」ではなく「書くこと」から始めてほしいのです。

・・・

ひとつnoteをご紹介します。

「事業を興すならブルーオーシャンは危険」と解説した記事です。

しかし、「こんな画期的なアイデアは、どこを探してもない!」と思い込んで漕ぎ出すのは少々危険です。特に小さい会社ほど、ブルーオーシャンを狙ってはいけないのです。
 その理由は、競合がいない領域とは、裏を返せば、これまで需要がなく、儲かった人がいない領域だからです。仮にそのサービスを支持する人がいても、市場規模を拡大するためには、莫大な資金と時間がかかります。
 ブルーオーシャンを狙うということは、それだけリスクが伴うのです。

ブルーオーシャンは理由あって「青い海」たりえている事が伺える記事です。

noteであれば課題は時間だけになります。
元手はかからないのですから。

日常の中で、ゆっくりと自己一致させてゆく機会はなかなかありません。
しかし。noteにはこんな利点がある。

・長文をありのままに書ける。
・外部に公開することができる。
・記事を振り返ることができる。

誰かからのリアクションを確かめる為に、自分自身のnoteを振り返る機会が多くなる。著者自身に対する反復性が強いのです。

これが例えば
「バーっと嫌なことを紙のノートに書き出して、そのまま閉じる」
みたいな方法で代用したとしましょう。

強靭な意志や明確な指示がないと、物理的な自省は難しい。
結局、そうして書き出したノートを開くのが1年後になったりします。

noteはもっとリアルタイムに訂正されていきます。
それこそ、たった1日。
寝て起きて。そして「自己一致」しているか。
常に向き合う事になる。すごい効果です。
ネコぐらしはもはや別人です、ってくらいは変わっています。

・・・

もうひとつ私の大好きな記事を紹介させてください。

藤原華さんの記事は読んでいて勇気がもらえる。
もう、ほんとにパトスがほとばしっているのだ。

人によっては、少し刺激が強いかも知れない。
しかし、しっかり読み解いてほしい。

藤原さんもまた「書きながら自己一致」を図っている。
「読まれなければ意味がない」と自己一致させるまで。
いくつも「書く」という工程を経て、この記事を書き上げている。

誰だって書く。書いて、自分と向き合う。
だから、本当にこのnoteには「書いた気配」が濃密に漂っている。
noterとしてバイブルにしたいくらい、ネコぐらしは大好きです。

・・・

自分は『どんな船』に乗りたいのか


ブルーオーシャンのような波風のない平和な海で暮らしていけるなら、それに越したことはありません。

でも実際問題、その海には、既に綿密なマーケティングやリサーチの手が入っているコトがしばしば。



青い海の中であっても、時に震え上がるような文才にでくわします。
それこそ、モーツァルトに嫉妬したアマデウスのような感情に取り憑かれる。

そうすると、人の選択は2つ。

・辞めるか
・いてもたってもいられなく居られなくなるか


だから私たち凡人は「船を作る」のです。

レッドオーシャンの荒波の中でも沈まない、強固で確かな船を。

船の外見、パーツ、そしてどんな船員を乗せるか決める「ブランディング」
目的の航路を地図に描き、風を測量し、水質を調査する「マーケティング」

有り体にいえば、「船を作る」というのはこの2つを指す。


「書くこと」というのは言ってしまえば
「なぜその船を作ろうと思ったのか」です。

つまり、船を作るに至った経緯。

レッドオーシャンに入ってしまえば、そんな自伝的なものに誰も興味を抱かない。

情報という装飾を着飾る豪華絢爛な船。タイタニック号
▶たとえば、圧倒的なコンテンツ量を誇る大手サイト。
 網羅的に情報同士が繋がり合い、必要な情報に不足がない。

トップスピードで業界を駆け抜ける船。ブラックパール号
▶スピード感が重視されるニュースサイトや速報サイト。
 最前線の情報をいち早く伝える、鮮度が命。

人の目を引くような奇異な格好をしている船。ゴーイング・メリー号
▶奇想天外なストーリー、日記やエッセイを綴った個人サイト。
 その人にしか作り出せないストーリーや文才で人を魅了する。

そんな船たちがそこかしこで悠々と帆を張っている。
まず、みんなが憧れるのは「船そのもの」


しかし、わたしは「その船にどんな人が乗っているか」が気になる。

その人は「純粋に、何を思って、その船を作った」のだろうか。

そういった、心の精神性に触れられるのがnoteの良いところ。
資本の手前にある「面白さ」なんじゃないかと。

きっと、noteを利用しているみなさんにも心当たりがあるはず。

「この記事を書いたのは、どんな人だろう」って。

そしたら、プロフィールページに飛びますよね。
最初の興味は船でも、きっと「船長」が誰かを知りたくなっている。

・・・

誰かの想いを書く『noter』


読んでいて
「あ、このnoter様、”書くこと”から”読ませること”に変わっていったな」
と思わせる記事がたまにあります。

ああ、きっとこの人は目標を見定めた。
自分だけの船をいよいよ作り始めたのだな、とそう感じる。

ネコぐらしも実際そうです。

最初のほうに投稿した記事と比べたら、天と地の差。
たった1月半でも、月とスッポンなのだ。

どんどんと適応していっている自分が、ちょっと不思議。


もちろん、このnoteの世界には最初から読ませることに長けた人もいる。
しかし、それはもうとっくの昔に準備されているコトが多い。

・・・

もしも生きていたら、Oさんにもnoteを書いてほしかったなぁと思う。

きっと頑張り屋さんのOさんのことだ。

『これから介護業界に入る人が取っておきたい資格3選』とか
『人の気持ちに寄り添う、カール・ロジャーズの教え』とか

最初は、そういった記事を書こうとするだろう。

そうして書いていく内に、極端な自己不一致に陥る。

本当に書きたいことはこれなのだろうか?
私自身は何を望んでいたのだろうか?


完全な予想になってしまうけれど、
きっとOさんは

『「人の手が足りない」現役介護福祉士の一日を記録してみます。』
『解離性障害の私が、家族と上手に暮らすためにしたこと。』

とか、きっとそんなことを書きたかったはずなんだ。

本当の意味で、彼女に寄り添える場所があるなら。
それはnoteのようなプラットフォームにおいて他ならない気がする。

・・・

もちろん時間がなくて書けないということは往々にしてある。
それならば、誰かに代筆してもらうのもいいんじゃないかな、なんて思う。

noterは誰しもが「webライター」であって「クリエイター」。

書けない人をすくい上げ、その人の純粋さがキラリと光る文章を「代わりに書く」


「この人に書いてもらいたい」
そんな風に思われる人に、ネコぐらしはなってみたい。
『代筆屋:ネコぐらし』その肩書も悪くない。



実際そういったサービスもある。
でも、大体は「家族」とか「老後」向けで、気軽に手を出せるものではない。初期費用だけでもウン十万だ。


『ココナラ』でのライティング募集も、かなり近い性質をしている。
しかし、あくまでビジネス活用がメイン。
『個人的な自伝』となると、需要は未知数。

※いずれネコぐらしは、ここで武者修業をしたいと思っている。
webライター経験を積むにはうってつけ。だけどまずポートフォリオや実績は持っておきたいところ。

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純粋な人を『支援したい』と思う心


純粋さを持つ人々の心の中には、誠実で輝かしい何かがギュッと詰まっている。
緻密で綿密な感性であったり、美しいメロディや映像がながれていたり。


かつての知人に、映像がずっと心の中に流れていると話す人がいた。

それはもはや現実の出来事みたいに、すさまじい臨場感を持っている。
しかし、褒められた映像ではない。

自分のしてきた後悔をずっと上映されてる。最悪な気分になる。だから積極的に話さないし、信じられるとも思っていない。と。(この話を打ち明けてくれた時は嬉しかった。)


この知人の話もいつかは掘り下げてみたいが、今回は割愛する。


だが、こうした繊細で純粋な心を持った人は、往々にして社会からダメージを受けやすい。

人の悪意を疑わず、小さな裏切りで途方もないダメージを受ける。

結果的に孤立もしやすい。
それに「強靭なメンタルマインドを作れ」と周りから無理難題を押し付けられる。
理解なき人の「理解してるよ」に黙殺される。

・・・

純粋な人の誰しもがアーティスティックな一面を持っているわけではない。とても普遍的でありふれた存在なのです。

彼らに「おしつけたハリボテの船」で赤い海を漕がせるのでなく、彼ら自身をよく表した「らしい船」で青い海に揺れてもらう。

そのほうが、よっぽどいい。

イメージが抽象的かもしれませんが、私はそういう『代筆屋』的なサービスをnote上で行ってみたい、なんて思ってます。

もしくは、noteで表現をする、そのためのお手伝いができる記事を配信したり。

・お話を伺う。
・代筆の時間を頂く。
・記事にしたためる。
・もしくは、本人にプロットを書いてもらう。
・そこに心を装飾していく。

そんなサービスができたら素敵カモ。

できれば「居心地の良い船」に一度乗ってみて、その感覚を味わってみてほしい。

ナンバーワンではなく、オンリーワンの。

そんな「純粋なあなた」のために、書ける人になりたい。


いろんなnoter様の記事を、誠実に、魅力たっぷりに紹介できるよう。

そんな文章力をのびのびと磨いていきたい、今日このごろ。


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