【日記】ほんとうの「民主主義への挑戦」

*この日記では政治について触れる。筆者に対しての意見や批判についてはコメント欄までお願いしたい。
*筆者はこの日記のなかで、元首相の思想に対して賛成も反対もしていない。
*筆者はこの日記のなかで、襲撃犯の思想に対して賛成も反対もしていない。
*いかなる場合においても、筆者は暴力を否定し、民主主義を肯定する。



今年7月、元首相が襲撃された。
現代日本において政治家暗殺事件が起きたことに対して世間はざわめき、様々な言説が知識人や有名人の口から飛び出した。

まず言いたいのは、古今東西の政治家襲撃事件を引き合いに出している言説は本質的な議論をしていない。それぞれの事件で時代背景も、事件の背景もちがうのだから何年前にもこんなことがあったとか言ったってほとんど意味がない。

次に、一見すると本質的に見える議論として「民主主義への挑戦」という言説がある。しかし中身を見てみると大部分が「何があっても暴力を許してはならない」というもので、これも本質に近いがまだ足りない。

今回の事件は政治と宗教(新興宗教)の問題が核としてあった。それは事件の背景における、本質の一つである。なぜなら襲撃犯の動機を簡単にいえば「元首相は家族に被害を与えた新興宗教とのつながりが深いと判断したから」だ。2カ月たってもマスメディアは政治と新興宗教のつながり、新興宗教とその被害について持ち切りだ。

今回は政治と新興宗教のつながりや、新興宗教とその被害については触れない。今回は「民主主義への挑戦」という言葉について考えたい。
事件後、さまざまな「民主主義への挑戦」という言説を見た。しかし私は漠然とした違和感をもっていた。

民主主義への挑戦?

そもそも「民主主義」って「みんなのことは、みんなで決めよう」
「言いたいことがあったら、暴力じゃなくて、言葉で伝えよう」
という思想だ。これには筆者も賛成し、肯定する。
民主主義は、とりあえずは最高の組織運営の方法であると思う。

でも今回話題になっている新興宗教は、数十年前に警察が摘発する予定だったが、国からの圧力でお咎めなしになったらしい。仮に今回の襲撃事件がなければ、国はどこまで見て見ぬふりを続けていたのか。

襲撃犯を擁護したり、同情したり、革命家扱いすることはしたくない。暴力はいかなる場合においても否定されるべきである。

しかし、襲撃事件後、政治と新興宗教のつながり、新興宗教の被害が、社会問題として大々的に取り扱われるようになったことは、どんな思想を持つ人であっても認めざるを得ない事実だ。

私は絶対に暴力を許さない。
みんなのことは、みんなで決めたい。
考えや主張は、暴力ではなく、言葉を使って伝えられるべきだ。

しかし、なんだ、このありさまは。

なぜ、こんなにも腹立たしいのか。

そして、私は、ほんとうの「民主主義への挑戦」に気がついた。

先述の通り、有識者のいう「民主主義への挑戦」は、そのほとんどが「暴力 VS.民主主義」で「テロを許すな」「主義主張は暴力ではなく、言葉を使うんだ」「民主主義を固持しなければならない」という言い回しである。

ごもっともである。
しかし、あまりにも無批判ではないか。暴力に対しても、民主主義に対しても。
これで満足している人は、ほんものの馬鹿だと思う。

「暴力はいけません」そんなこと百も承知だ。愚推だろうか、襲撃犯もそんなことは百も承知だったはずだ。

「民主主義を守っていきましょう」お前の眼はこの事件の何を見ていた。現代日本における民主主義の欠陥が表出化したのが今回の事件だろう。

ほんとうの「民主主義への挑戦」とは「暴力VS.民主主義」ではない。

「現代日本の民主主義 VS. 理想の民主主義」だ。

僕らは現代日本に生きている。しかし困ったときに圧力をかけられるような、そんな民主主義には協力したくない。

暴力をきっかけに社会問題化するようなことを、国が放置していた。

それがまかり通る民主主義は、理想の民主主義ではない。

あるいは「挑発」でもいい。

「現代日本の民主主義への挑発」

それが襲撃事件の本質で、私たちはもっと現状に批判的になって、理想を求めなければならない。

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