【短編ボツ小説】 Invalid Water

 彼は、後に語っている。
 公園の給水器にまるで砂漠で見つけたオアシスかのようにむしゃぶりついたその男を見て、初めて自分の持っていたその缶コーラが贅沢なのだと「感じた」と。


 真夏の快晴がその公園でゴミ拾いを行う人間たちを襲っていた。
初めてボランティアに参加する新入部員に指示をしていた彼――、宮下修(みやしたおさむ)は解けた靴紐を結ぶためにベンチへと腰をかける。
 そして、その光景を目撃した。

「……随分、美味しそうに飲むんですね」

 その男は、宮下が自分に話しかけている事に気付くと取っ手から手を離すと宮下の座るベンチへと顔を向ける。

「そうかい?」

 宮下はそれに肯定するよう大きく顔を上下させると、ゴミの詰まった袋を縛り、ポーチから缶コーラを取り出した。

「俺、公園の水をそんなに美味しそうに飲む人初めて見ました」

 そう言いながら宮下は缶のプルタブを開けて一気に飲み干す。そしてゆっくりと目を開けると、その男はいつの間にか宮下の座るベンチの隣に腰を下ろしていた。

「見た所、大学のボランティアサークルって所かい?」
「……すいません、俺てっきりサークルの先輩の連れの方だと」
「別に気にしないよそんなこと。むしろ活力溢れる学生と交流出来た事を幸運に思うよ」

 宮下は何にも言葉を返さず、コーラの缶を両手で押し潰した。そしてそれを持て余したのか一度縛った袋を緩め始める。

「君はボランティアが好きなのかい?」

 宮下は少し間を置いて、その男の質問に答えた。

「嫌いですよ。大学公認のボランティアサークルの部長なんて肩書きが貰えなければこの空き缶はもう既にその辺りに捨ててます」

 宮下の言葉にその男は苦笑いを見せる。

「ハッキリ言うなあ」
「でも、これって俺は素晴らしい事だと思います。俺は就職の面接で使えるカードが貰えて、地球は少し綺麗になる。善良な何もしない人間よりよっぽど社会に役に立ってる自信がありますよ」
「別に文句言っているわけじゃないさ。僕も君のその意見には賛成するしね」
「変わっているんですね」

 その男は宮下のその言葉にもう一度苦笑いを見せると、財布から一枚の名刺を取り出した。

「これも縁だし君にあげるよ。もしかしたら君の就職に有利な助言をしてあげられるかもしれないしね」

 その名刺が目に入った瞬間、宮下は危うく空き缶を地に落としかけた。

「NPO法人職員、天地明(あまちあきら)、さん……」
「最近までまともに水さえも飲めない国に居てね。君が思わず話しかけてしまったのはそのせいじゃないのかな」
「すいません、俺……」
「君が謝る必要なんてどこにもないさ」

 天地は宮下と同じように持参したジュースを口に入れる二十人ばかりの学生たちに目を向けた。

「見なよ、水を飲んでいる人間なんて極僅かだ。おかしな話だね、昔よりも水と食料が大量生産出来るような時代になったにも関わらず、あんなにも困窮している人が居るなんて」

 宮下は無言で空き缶を袋に入れた。

「ゴメンね、こんな話をして。少し感傷的になっているみたいだ。それでも君とこうやって話せた事はとても幸運だと思っているのは本当だよ」
「……いえ、俺はそんな」
「僕はそろそろお邪魔するよ。また、どこかで会えると良いね」

 天地は、宮下に向かって微笑むと去り際に一つだけ言葉を残す。

「君みたいな人間が居たら、世界はもっと美しい色をしていたかもしれないね」





「へえ、それじゃあ意外とその人と直ぐに会う事になるかもね」

 清掃ボランティアの終了から二時間後、宮下は柊由美子(ひいらぎゆみこ)と大学近場の駅で落ち合った。

「そうだな、就職も近いし」
「良いコネが出来たって事じゃん。もっと喜びなよ」

 宮下は柊のその言葉に頷くでもなく、否定するでもなく曖昧な笑顔を浮かべた。

「……何ていうか、充てられたんだよ。ほら、自分より圧倒的に意識が違う奴と一緒に居ると焦ったりするだろ」
「意外と修は未来のマハトマ・ガンディーだったりするかもね、あはは」

 二人はショッピングモールに向かって歩みを始めた。
 往来には人通りが多く、交差点では赤信号の遠くまで車が詰まっている事が分かる。

「まあ、今日はせっかく二人とも休みが被ったんだし楽しく過ごそうよ」

 柊は宮下の右手を掴もうと。視線を下げる。
 その瞬間だった。
 宮下の視界には全く別の光景が広がっていた。
 青信号が赤信号に変わった直後、一台の車がもう一台くらいとでも言いたげに突っ込んで行き、そして一人の少女がよっぽど急いでいたのだろう、我先にと横断歩道へと飛び出すリアルな光景。
 宮下は飛び出していた。少女の小さな体躯を拾い上げ、押し出すように少女の身体を前へと投げ出す。
 宮下は最後に、表情に陰りを見せた柊の顔を視界に映した。





 六年の月日が経っていた。
 宮下が目覚めた時には病院のベッドの傍らには誰も居らず――、入院費という酷く現実味のある明細だけが残されていた。
 父親は事故で死んだ。
 母親は俺という重圧に敷かれ、死んだ父親の後を追うように衰弱死した。
 相続金を用いても六年間、国の最高峰の医療技術で治療された俺の入院費には全く届かない云云かんぬん。
 言い訳にも聞こえる主治医の長きにわたる言葉を要約すれば、宮下のいない六年間はそんな感じだったらしい。
 宮下は天地にも柊にも連絡のつかない事を悟ると他の患者にも憚らずに泣いた。宮下の助けた少女は一目散に逃げて行ったため、その場にいた誰もその少女の顔を覚えていなかった。

「宮下さん、お薬の時間です」
「……ハイ」

 宮下の服用を始めた薬は身体上の物ではなく、精神上の物だった。六年という月日は余りにも長い。決して少なくない事例にしても、宮下修という二十五歳の身体の中に居るのはたった十九歳の宮下修だった。
 飲み物は水ばかりになった。





 柊の消息が掴めたのは宮下が退院してから三か月後――、一年と半年が過ぎてからだった。退院してから何をするかも特に決めておらず、大学時代の人脈を手あたり次第に当たっている最中、柊が都内屈指の名医と名高い獣医と婚約を決めた事が分かったのだった。

「久しぶりね」

 宮下は自分が都内の病院に移されていた事を利用し、柊と小さな喫茶店で落ち合った。

「別に、気負わなくてもいいよ」
「別に気負ってないわよ」

 柊は宮下に視点を合わせよとはしなかった。
 柊はまるで自分を守るように中央のテーブルに座り、個人情報を守るかのようにブレンドコーヒーのみを注文する。
 宮下は何も頼まず、手渡された水に口を付ける。
 無言が二人の会話を包んでいた。

「私は、お金が必要だったの」
「ああ」

 宮下は無気力な目で柊を見つめている。

「最初の一年は毎日病院へ通ってた――、けれど私にはあなたの入院費を負担出来る力はなかった」
「ああ」

 柊はコーヒーを一気に喉元へと押し込む。

「二度と会わないでしょうね、サヨナラ」

 有無も言わせず去って行く柊の後姿を宮下はじっと見ていた。





 宮下は三日後、なけなしのお金を手に、電車に揺られて地方の海岸へと向かっていた。
 他に何も持ってはいなかった。
 薬も。
 食べ物も。
 水さえも。
 それどころか、三日間何も口に入れてはいなかった。
 水さえも口に入れずにいると人間は一週間も経てば死んでしまう。そのような情報が書き記されたメモ用紙が宮下のポケットの内側に入っている。
 宮下は死ぬつもりだったのだ。

 誰も来ないような古びれた海岸で、宮下は自分の身体が限界を迎えるその日を今か今かと待っていた。
 三日が過ぎた。
 宮下は最後の力を振り絞るかのように海へと近付いていく。

「もう、終わりだ」

 宮下は砂浜であるにも関わらず地面に背中を預けて、真っ赤に染まった空を見上げて一人そう呟く。
小さな波が宮下の髪を濡らす。
 潮の匂いに包まれて、宮下は目を閉じた。


 数分後、自分の身体にあたる異物に気が付いて半ば反射的に宮下は腰を上げる。

「水……」

 150ミリリットルのペットボトルが浜へと打ち上げられていた。触ったところ、どうやら奇跡的にもそれは新品であり賞味期限が今日までだった事に気が付く。

「これって」

 宮下はそのペットボトルを真剣に見つめる。

「まさか、な」

 宮下はペットボトルを脇へと追いやると、もう一度空を見上げた。

「まだ俺に生きろって言うのか?」





 ここから先は、ただの会話の記録だ。
 敢えて会話であるかのように表現しているが、宮下に私の言葉が聞こえているかは分からない。
 それでも、確かにそれは会話だった。


「まるでこの世界は、俺に由美子を殺させる事が目的であるかのように動いているように感じたんだ」
「そうかもしれない」
「この一年間、俺は馬鹿みたいにそんな事ばかりを考えていたんだ」
「私はてっきり、柊由美子への復讐を葛藤していたのだと思っていた」

 宮下は口元に笑みを浮かべる。

「由美子を殺すなんて選択肢は元よりなかったんだ。由美子は顔にこそ出さないようにしていたが、俺に罪を懺悔するように心の奥では泣いていた」
「私に人間の持つ感情とはよく分からない」
「最初の違和感は、六年前に公園で出会ったあの男だった。……俺は、あの人を見て初めて自分の持っていたコーラが贅沢だって感じたんだ」
「当たり前だ。彼があの場所へ導かれるように、彼の留まっていた国に隕石を落としたのだから」
「二つ目は、五年前に由美子の見せたその顔だった。後で調べて分かった事だが、多額の借金を背負わされた事だった」
「当たり前だ。由美子の父親の会社を破産に追い込んだのだ。絶望してもらわないと困る。
「三つ目は……、このペットボトルだ」

 宮下は水の詰まったペットボトルをゆっくりと撫でる。

「二か月間前、この海岸付近で飛行機の事故が発生した。幸い死者は出なかったものの、機体を軽くするためにこの海に様々な物が投げ込まれた。……こじつけかもしれないけどな」
「合っている。それは正しい」

 宮下は、それ以降何も喋らなくなった。

「そこまで分かっていながら、どうして彼女を殺さない?」

 宮下は、眉一つ動かす事はなかった。

 私を、ある一つの概念で表すならばそれは「地球」だ。
 地球では様々な生命が生まれ、そして滅んで行く。
 稀に私の事を「生命の源」と呼び、私の限りのある資源を大切に使おうとする人間もいるが、やはり資源は失われていく。
 私は、別にその事を咎めている訳ではない。
私の生み出した生命の、それは一つの終着点なのだ。どこにそれを咎める必要があるのだろう。
 しかし、私には一つだけ、小さな目標があった。

 それは、この「地球」の寿命を全うする事。
 五十五億年後、地球は太陽に呑み込まれて寿命を迎える。
 しかしそれは太陽という加害者に私という「地球」が殺されてしまう一つの事件であって、私の生命が誰かによって喪わされるという事を意味していた。
 何としてもそれは防がなければならない――、それを回避出来るただ一つの可能性を持つものが人類だった。
しかし、人類は火星の寿命を待たずにポールシフトと呼ばれる磁場の反転による全滅――、それよりも先にスーパーウイルスによって死滅する。
 それを回避出来る可能性を持つのが柊由美子が婚約を交わした獣医、武内敏(たけうちさとし)だった。
一見何の関連性もないように見えるその二つの要素は、目には見えない所で密接している。人類の言葉で言うと「風が吹けば桶屋が儲かる」のそれに近いものだろう。この言葉は、一見何の関係も持っていないように見える二つの事柄がどこかで結びついているかもしれない事を示している。
 私は、それを予期する力があった。
 そのために彼が地球上で最も愛する可能性を持つ柊由美子を宮下修と強制的に別れさせた。天地明を使って宮下修の正義感を増大させ、そのタイミングに合わせて事故を起こす。簡単な話だった。
 そして六年の月日で全てを失った宮下修は復讐の刃を持って彼女を殺す。そして自殺。悲しみに暮れ、更に何処にも矛先を向ける事の出来ない武内敏は研究に打ち込み、やがてそれは人類存続の道へと繋がっていく。

 それなのに、宮下修は何故か自らの死だけを望んでいた。

 どうして生きない。
 水がある。それを飲めば生きる事が出来る。
 目の前にあるのに、どうして彼はそれをしない。
 ……人類の考えている事は良く分からなかった。
 彼が彼女を殺すように仕向けた私自身も、一度この世界で起きた一つのシナリオを辿らせるように彼らのシナリオに手を加えた。

「それが、俺から全てを奪ったこの世界への、復讐だからだ」

 意味が、分からなかった。


 世界は壊

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