【解釈小説】僕らまだアンダーグラウンド/Eve

僕らまだアンダーグラウンド - Eve MV(本家様)






 物ノ怪ノ街(もののけのまち)、その郊外。
 ただでさえ誰も近付かないこの区域でもひと際目立つこのボロアパートには羽虫一匹さえ寄り付かない。
 窓から見える雄大な自然が広がるダムの景色を独り占めにしながらボクはその方向から吹いて来る生臭い涼風を全身に浴びていた。

『僕だけでは貴方を満たせる事など無理かもしれないだけど』

 誰に宛てるでもないその言葉を適当に紙に記してはその続きを考える。

『君だけではどうにもこうにもできない事があるとするならば』

 君? 君って誰だ?
 誰かに宛てるわけでもない言葉ばかりを書き連ねていたはずなのに、気付かないうちにそれが誰かに向けての言葉になってしまっていたことに少し驚く。
ボクは一体誰に向けてこんな言葉を贈ろうとしているのだろう。

 決して答えの出ることのない堂々巡りに飽きたボクは、退屈しのぎに街へ繰り出すことにした。



『頑張れ』
『これは君のため』

 メッセージボックスにそんな当たり障りのない言葉ばかりが溜まっていく。

「……ああっ、もう、みんな似たような言葉ばっかり。あなたたち全員、同じことしか言えないの!?」

 スマートホンの画面を上部にスライドさせながら通り慣れた帰路を歩く。誰も居ない公園を通り抜け、見慣れたマンションを携帯の画面を見ながら歩いているのだが、こんな所をお母さんに見られたら大目玉だ。だけどマンション内で誰かに轢かれることなんてありえないのだから気にすることはない。

 それにしても、と朝子(あさこ)は思う。

「ちょっと成績が落ちたからってこの仕打ちはないんじゃない?」

 今期の成績が少しばかり落ち込み、クラスを一つ落とされる危機にある朝子の携帯電話には励ましやら叱咤のメッセージばかりが送信され続けていた。

「頑張れ、なんてよくも押しつけがましいことを揃いも揃って平然と言えたものね。あなたたち全員、わたしに嫌われたくないから言ってるだけじゃない。結局、自分のことしか考えていないのよ」

 そう文句を言っておきながらそんな思考回路に陥ってしまう自分に少し落ち込む。ここまで気分が落ち込んでいると競争相手が減ってラッキーだなんてストレートに言ってくれた方が逆に清々しいというものだ。

 しばらくの間メッセージボックスをスライドし続けていると、今日の朝方に見たことの無いアドレスから2通のメールが届いていたことに気が付いた。

「……何これ、両方とも文字化けしているじゃない」


『僕■■では貴■■■た■■事な■無■■■■■ない■■■』

『■だ■では■うにも■■にもできな■事があるとす■■■■』


 気味が悪いアイコンに気持ちが悪い文字の連なり。朝子は開いた瞬間に言いようの知れない嫌悪感を抱いてしまっていた。
 だけどどうしてか、朝子はこのメッセージをどうにも他のメッセージ同様に削除することができないでいた。



「よう鬼坊、今日もちいせぇ角を隠してお散歩かァ?」

 口煩いヤタガラスの戯言を聞き流しながらボクは黙々とガレキを持てるだけ腕の中へと抱え込む。
 落ちているものだけを食べて生活のできるヤタガラスとは違って一般的な水準の生活を好むボクはこうやって日々労働に励まなければならない。とはいえ、標準的なサイズの鬼子であるボクは他の奴ら同様の巨大なガレキを運ぶことは不可能だ。
 ボクの数十倍の大きさを誇る巨人族の抱えるガレキの大きさから目を背けながらボクは今日貰えるであろう報酬の勘定を行っていた。

「せめて、ほんの少しでいいから鬼の力があったらなぁ……」

 ちっぽけな巾着袋さえ埋まり切らない程度の小銭をポケットに入れて、ボクはコンビニエンスストアで適当な雑誌の立ち読みを繰り返す。
 いつまで経ってもレジへとやって来ないボクにいい加減店員も気が立っているだろう。そろそろ適当な惣菜でも持ってレジに向かおうと思っていると、店の表から何者かによって新鮮なタコが店内へと投げ込まれ、レジ前に立っていた店員ごと、店もろとも、もちろんボクも、そのタコの膨張で爆散してしまった!!

 しょうがないからボクはアパート近くの自動販売機で林檎ジュースを一本購入する。全く、この区域に唯一存在するコンビニだったというのに、一体明日からどうやって生きていけば良いんだろう。

「こんな世界、おかしくなってしまえば良い。例えばロボットに管理される世の中になるとか、種族が一つになった平等な世界になってしまうとか」

 ああでもないこうでもないと脳内議論を重ねているうちにいつの間にか日が暮れてしまっていた。観たい映画があったというのに、しょうがない。明日にでも観に行くとしよう。ボクは重い腰を上げてアパートへの帰路をゆっくりと戻って行く。そんなこんなでまた今日も無生産な夜を超えてしまうんだ。

 翌朝。ボクは昨日思い立った通り映画を観るために映画館に自転車で向かっていた。今日観る映画の題目は『イヴの総て』。ロングランを続ける『どうにもできない二、三の事柄。』も捨てがたかったのだが、映画館総出で推されているところを見るにこちらを優先して見ざるを得ないというものだ。あらすじをざっくり見た程度だから詳しい内容は知らないが、アダム以外に良い男が居ないからイヴは消去法でアダムを選んだ、そんな話とだけは聞いている。

「それにしても、もう少し稼ぎがあれば両方観ることだってできるのになぁ」

 鬼子には他の物ノ怪のように異能な力は存在しない。イヴ同様に不公平な話だ。大人にならない限りは腕力も他の物ノ怪に比べれば非力なものである。鬼なんて強そうな名前を持っていながら実態は何にもできないろくでもないバケモノだなんて涙が出てきてしまう。
 何かが起きないものだろうか。超常的な力を持つ物ノ怪連中をギャフンと言わせるような何かが。
 そのついでに少しでも生活水準が上がれば万々歳だ。……駄目だ。こんなことを考えていたらまた今日も無生産な夜を越えてしまう。やれやれ、映画館までにはまだもう少し距離があるというのに。

 そんな終わりのない無限ループに陥りかけた時だった。

『契約が承認されました。仮契約を行います』

 そんなメッセージが脳内へと受信される。
 何のことだよ、と舌打ちを行いかけた瞬間に水たまりが突如口裂け女みたいにあんぐりと大きな穴を開けてボクを丸呑みにしてしまった。



『自分を見失わないために』

 朝子は占いが嫌いではなく、むしろ好きな部類に入る。だけどこういった自己啓発のような類の適性診断だけはどうしても好きになれないでいた。
 まるで自分が誰かの手のひらの上で踊らされているような、巨大な何かに操られている感覚に陥ってしまう。

 進路を考える参考になるだろうと朝子たちの担任に教えられたウェブサイトなのだが、先ほど覗いたメールの中身も相まって朝子は何だか気味が悪くなってしまっていた。

「あーあ、いっそのことこんな世界おかしくなってしまえば良いのよ。バイオハザードでも起きてこの世界がゾンビに埋め尽くされたりしないかしら、妖怪大戦争みたいな世界も楽しそうね」

 あまり他人に自慢できる趣味ではないが、朝子は『ZONBIE』みたいなパニックホラー映画を好んで観ている。部屋に貼ってあるポスターだってお母さんに見つかったら何て言われるか分かったものではないが、好きな物は好きなのだからしょうがない。
 空想した通りの世界になったって自分が生き延びることができる保証なんてどこにもない。朝子は予想以上に自分が重症だったことに少し憂鬱になって、とりあえず汗を流そうと先ほど湯を沸かしたばかりの湯舟に顔を近づけた。

「……湯舟に波紋が浮かんでる。おかしいわね、気付いてないだけで揺れのない地震でも起きてるのかな」

 小さな波紋が浮かび続ける湯舟を見て、朝子は何だか妙な高揚感に包まれ始めていた。何だか湯舟の底からここじゃない別のどこかに行けるような、そんな気がした。

『契約が承認されました。仮契約を行います』

 そんな言葉が聞こえてきたような、そんな気がした。何とも言えない浮遊感を感じた途端、朝子の身体は湯舟に吸い込まれてしまっていた。



『そんなんで突っ立ってないで、ワン・ツーの合図を待って』

『眠れない夜を踊るのさ』

 ボクの頭がおかしくなってしまったわけでもなく、これはボクの書いた詞の続きである。むしろ、今のボクの状態でこれだけ頭を動かすことができたのだから万々歳であると思ってもらっていい。

 何故なら今、ボクの身体は水中にあるのだから。

 何かに吸い込まれた浮遊感を感じていたのも束の間、ボクの身体は三百六十度どこにも足が着くことのない水面へと叩き付けられてしまっていた。
反転し続ける視界の中で、どうにかして別の情報を得ようと必死で情報を捜し続ける。

「……アレは?」

 最初に見つけたのは『12』と書かれた電飾看板、次に見つけたのは『眠レナイ夜ヲ 踊ルノサ』とカラフルに書かれた看板だった。

「……いや、それはおかしいでしょ」

 口から泡が出て来るばかりだが気にせず言葉にならない言葉でそう呟く。
そこまでオリジナルの言葉というわけでもないのだが、この二つの言葉はボクが書いた詞に出て来る言葉なのだ。

 思えば、この世界はボクたちの棲む世界と似て非なるような世界であるような気がしていた。ボクは果ての見えない地上へと目を向ける。すると、そこにはボクたちの棲む物ノ怪世界を綺麗にそのままコピーしたパラレルワールドのような光景が広がっていた。

「……やけに状態が綺麗だな。物ノ怪世界の建造物のほとんどはもう瓦礫と化してしまっているというのに」

 そして、ボクは遠方でボクと似たような状況の中で気を失っている少女を発見する。

「――ああ、そうか。ここはボクとあの女の子が創った世界なんだ」

 ということは、あの子がボクの共犯者なのだろう。
 半ば直観に近いような理由で彼女を助けるためにボクは拙い泳ぎを披露する。溺死する様を見るのも気味が悪いし、それに何より彼女が本当にボクの共犯者であるとするならば、こんなところで死なせるわけにはいかないのである。

 契約のパスワードは何にしよう。言葉よりも動きの方が良い。それならボクでも忘れる心配はないだろう。だったら――。

「この世界のことを思い出しながら林檎を齧ること、それがこの世界に来るパスワードだ」

 ボクは名前も知らない彼女の身体を抱えると、地上に出るためにゆっくりと浮上を開始した。



 不思議な夢を見ていた。
 湯舟の底で溺れた私を見知らぬ一人の少年が助けてくれるというファンタジー映画さながらのハチャメチャな内容だった。

『この世界のことを思い出しながら林檎を齧ること、それがこの世界に来るパスワードだ』

 夢で出会った彼に言われた言葉を朝子はやけにはっきりと憶えていた。夢の内容なんて一度として覚えていたことのない朝子が、である。

「……まさか、ね。私もいつまで経っても子供ってわけじゃないんだからさ」

 林檎を齧るだけで別の世界に行ける? そんな非現実的な子供だましをこの年になって信じるとでも思ってるの? 特に私の通うような学校で冗談でもそのようなことを誰かに打ち明ければ明日から精神科の医者を連れた担任が毎日家庭訪問にやって来ることになるだろう。

 ……だけど。

「楽しかった、なぁ……」

 まるで喜劇的なショーを見ているようだった。『ナハト』と名乗る彼に連れられて私はまるで私の住む世界を丸々コピーしたような別世界を心行くまで冒険することになったのである。

「……ダメで元々、なんだし。たまには胸の高鳴る方へ歩いてみても罰は当たらないよね?」

 思い立ったが吉日なんて今の私にぴったりな言葉がある。私は冷蔵庫から瑞々しい林檎を一つポケットに入れて、マンションの階上へとひた走る。もしあの世界が私たちの住むこの世界のパラレルワールドであるとするならば、私の暮らすこの部屋があの世界での水中に位置するということになる。だったら、私はもっと高い位置からあの世界に行かなければならない。これもナハトに教えてもらったことだ。

 私は年甲斐もなく走り続け、マンションの屋上のフェンスを登り切り、ナハトに教えられた通り林檎を齧る。

「――やっぱり、朝子もまたここに来てくれたんだな」

 フェンス越しに後方からナハトの声が聞こえて来る。
 私は空中を魚が泳いでいたり、建造物に苔が生えていること以外は全く元の世界と変わらない階下の景色を見ながらやっぱりこの世界は私たちの住む世界のパラレルワールドなのだと確信していた。



「よう鬼坊、何やら『ファーター』がお前を呼び出したって聞いたが、お前殺されちまうんじゃねェのか? お前が死んだら映画のパンフレットコレクションは俺が貰うが構わねえよな?」

 口うるさく上空を飛び回るヤタガラスの言葉を無視しながらボクは案内人に指示された方向を歩いていく。
『胸に響く言葉』という非常にシンプルであるがゆえに興味のそそられる映画のポスターを横目にボクは見慣れない区域に棲んでいるらしいファーターの棲処を目指して階段を降りていく。やがてガラス張りに閉ざされた巨大な地下アジトを視界に収めることとなった。

「三ツ目鬼、か……」

 見上げても見上げても顔が見えてこないが、その姿は明らかに鬼の一族のものだった。地下に家が存在するためそこまでぶっとんだサイズの物ノ怪ではないのだと少し高を括っていたのだが、どうやら家を深く掘りすぎていただけのようだった。おかげで酸素が薄くて死にそうなのだが、そんな文句を口にしたところで死ぬ倍率が上がるだけなので言うつもりはこれっぽっちもない。

「何か言葉を発したか、鬼子よ」
「いえ何も」

 ファーターとは僕たちの棲む物ノ怪世界のボスのような存在であり、物ノ怪たちが思い思いに暮らしているこの物ノ怪世界を案内人を通じて管理している。彼に逆らうことは物ノ怪世界に居られなくなること、すなわち死と同義なのである。

「……それで、一体ファーター様が私ごときにどのようなご用件があるというのでしょうか?」
「おおそうだ、鬼子よ。お主、『契約』を行ったそうだな」
「……バレていましたか。私が自主的に行ったことではないことはファーター様に申し上げておきたいところなのですが」

 朝子とパラレルワールドで会うようになってから丸三日。バレるにしても流石にもう少し猶予があってくれても良い気はするのだが、別にファーターに逆らってまであの世界に拘る気は毛頭ない。
 所詮ボクなんて救いようのないバケモノなのだ。自分より目上の物ノ怪に媚び諂うことでしか生きて――。

「ああ、把握している。仮契約であることがその証左だ。大した『契約』だったぞ、鬼子よ。『棲処』と『食糧』の二つをこの物ノ怪世界に捧げてくれたんだ。これからはお前を特別扱いしてやらなければならないな。あんな寂れた区域に棲むことなんて止めて――。ほう、予想に反して少しは骨のある顔をするじゃないか」

『食糧』なんてあの世界には存在しなかった。あるのは精々不味そうな魚くらいで、ファーターが指しているのは恐らく……。

「……冗談だ。あんな羽虫一匹捕まえたところで腹の足しにもならないだろう。それより、この物ノ怪世界ももう手狭でな。移住できる場所があるに越したことはないのだ」

 ファーターが何か重要そうなことを言っている気がするがボクはそんなことはこれっぽっちたりとも聞いてはおらず、そもそも理解する気も沸いてはこなかった。

「お前なんかを入れるわけがないだろうッ! お前を入場させているとファーター様に知られたらどんな仕打ちを受けさせられるか分からない!」

 物ノ怪世界は耳が早い。ボクがファーターに目を着けられたことは既に至るところで触れ回られているらしく、行きつけの映画館から追い出されたボクにはもう早い話、この世界に居場所などなくなっていた。

『少しだけ時間をやる。その間に決断をしろ。何しろお前たちの「契約」が必要不可欠なのだからな』

 ファーターに提示された相談という名の脅迫を思い出しながらボクは独り闇夜をフラフラと彷徨う。

 どうしてファーターに逆らってしまったのか、後悔ばかりが募って行く。

 誰に宛てるわけでもない歌詞、それが朝子に届いてボクたちは『仮契約』を行いあの世界を創造した。『本契約』に必要なプロセスは『共感』。あの世界で朝子と過ごした、その日々は紛れもなくボクの生きた証だった。
 確かにボクは救いようのないバケモノなのかもしれない。それでも、ボクと朝子の創造した世界は本物だった。ならば、ボクが今できることは……。

「――逃げよう」

 朝子と供に創造した世界へ閉じ籠もること。そしてとっととこんな街から逃げ出すことだった。



「ふぁぁ……」

 誰にも見つからないように朝子は駅のホームへ向かうためのエスカレーターに乗りながら欠伸を小さく右手で隠した。

 ナハトとパラレルワールドで出会ってから二日が過ぎていた。朝子はあの日から毎晩パラレルワールドでナハトと欠かさず会っていたため睡眠欲求が限界まで膨れ上がっていたのだろう。朝子は『優柔不断な僕ら 焦燥に溢れた声が聞こえる。』というドキュメンタリー映画の広告を横目に『ZONBIE』の次回作はまだ上映される予定はないのかな、なんてことを考えていた。

 楽しい日々は瞬く間に過ぎていくものだというが、朝子はこれ本当に事実だと断言できる。ずっとナハトとあの世界で遊んでいたい。そう思って現実逃避したのも束の間、行きたくもない学校へと通う毎日と再会である。

「……ダメだ、フラフラする」

 流石に楽しいからといって無茶をし過ぎたのだろう。ナハトには事情を説明して、あの世界へ行くのはせめて週末の一回か二回にしよう。だからお願い、お母さん。今日だけは学校を休ませて……。
 朝子は心の中で謝罪を繰り返しながら別のエスカレーターに乗って来た道を引き返していく。突然逆走を始めた朝子に好機の視線が集まる中、朝子は朧気な意識のまま何とか自宅へと帰り着いてそのまま眠ってしまった。

 異変に気付いたのは翌日の朝、陽の光を浴びて今日から遅れた勉強を取り戻すため頑張ろうとカーテンの幕を上げた時だった。
 聞き慣れないメールの受信音が鳴り響いて、少し躊躇いながらメッセージボックスを開く。するとそこには、お母さんからのメールが受信されていた。

「嘘、お母さんから……?」

 メールにはお母さんの住む住所が記載されているのみで、用件は何も書かれていなかった。朝子は戸惑いながらもその住所へと向かう前に担任に事情を説明する。担任にはお母さんに言われたのなら仕方ないと言われたのみで特に怒られることはなかったが、二日連続で学校をサボっているみたいで少し気が引ける。それに何より失った二日分の勉強を取り戻す必要があるためこの休日はナハトに会うことはできないだろうと少し気分が下がっていた。

「そうだわ、私お母さんのところへ行かなくちゃ……」

 お母さんに指定された住所はかなり遠く、電車を乗り継いでバスへ乗り換え、到着する頃には既に日は暮れかかっていた。
 朝子は研究所のような建物に足を踏み入れて、大きなスーパーコンピューターが立ち並ぶ研究室に向かって階段を一歩ずつ降りていく。

「初めまして、お母さん。お会いできて光栄です」
「よく来ましたね、朝子。我が子の顔を初めて見ることができて、お母さんは嬉しいわ」

 立ち並ぶスーパーコンピューターより一際大きな、マザーコンピューターであるお母さん、通称『マザー』は目の前に跪く朝子の姿を見て画面を一際輝かせて見えた。

「どうやら悪い男に掴まったみたいですね、朝子」
「いいえ、お母さん。ナハトはとても頼りになる男の子よ。それより、どうして私が別の世界で出会った彼のことを知っているの?」
「この機械ノ世界の全ては私に監視されていることはあなたも知っているでしょう。あなたは突然マンションの屋上から消えたのよ、朝子。それを見て心配のしないお母さんが一体どこに居ましょうか」
「……そっか、そうだね。何だか恥ずかしいな」

 朝子は自分が林檎を豪快に齧る姿を幾度も見られていたのかと思うと少し恥ずかしくて言葉尻が小さくなってしまう。

「それで、お母さん。一体どうしてナハトが悪い男の子だって決めつけるの? あの世界は一体何なの?」
「……良い? 朝子、よく聞きなさい。機械と物ノ怪が『契約』を行えば世界を『創造』する魔法が使えるようになるの。だけど、『創造』は極めて危険な行為なの」
「どうして?」
「創造で生み出した土地は新たな争いを生むからよ。だって昔、私と『ファーター』は……」
「……そっか。ナハトが言っていた通り、やっぱり私たちの住むこの機械ノ世界はナハトたちの棲む物ノ怪世界を真似して創造したものだったんだね」

 元々、この世界には物ノ怪世界しか存在してはいなかった。そこで『マザー』と『ファーター』が出会い、『契約』を交わして機械ノ世界を創造した。だけど、どういうわけか『ファーター』は物ノ怪世界を喰らい潰し、『マザー』は機械ノ世界を大きく発展させていった。その背景に何があったのかはマザーの口ぶりから幸福な結末を迎えなかったであろうことは想像に難くない。

「……少しだけ、時間をあげるわ。彼に会って、別れを告げなさい。それがあなたが今後この機械ノ世界で生きていくための正しい選択よ」

 翌日。朝子は乗り慣れないスケートボードに乗って、見晴らしの良い高台に向かって地面を蹴り続けていた。
 お母さんは少しだけ、と言った。あの世界へ行ったところでナハトに会えなかったら何の意味もない。だからなるべく高い所からもう一つの世界へ移動する必要がある。

 もちろん、すぐにナハトを見つけることができるように。



 日が完全に暮れた頃、ボクと朝子は機械ノ世界で朝子が暮らしているというマンションに瓜二つであるという建造物に向かってスプレーを吹きかけていた。
反抗の手立てがないボクたちの、誰にも届かない小さな復讐だった。

「ねえナハト。きっと私たち、離れ離れになってもまた会えるよね」
「……そうだな、きっと会える。だって今まで『契約』を行えたのは『ファーター』たちに続いて俺たちが二度目らしいからな。きっと何かの運命なんだ」

 何となくお互いに分かっていた。ボクと朝子がこうやって会うことができるのは今日が最後だということを。

 ここで離ればなれになったら、もう二度と会えなくなってしまうだろう。
 ボクが朝子と会えるのは今夜だけ。そう、今がその時だった。

 打開策はたった一つだけ。

 ボクと朝子が自らの世界を捨て、創造したこの世界で暮らし続けること。たった二人で、その生涯を閉じるまで。

 しかし、そんなことは無意味だ。

 朝子には将来がある。朝子は少数のエリートしか通えない頭の良い学校に通っているらしく、将来は間違いなく機械ノ世界を運営する幹部を任されるロボットなのだそうだ。その生涯をこんな狭い世界で終えていいわけがない。それもこんな、ろくでもないバケモノと二人きりで。

 だからボクたちは、この世界をキレイさっぱり消してしまうことにした。

 幸い、機械ノ世界はこの世界を奪う気はないらしく、朝子がこの世界を消したところで罪に問われることはないはずだ。だったら、ファーターにボクたちの世界を荒らされるくらいならボクたち自身で消してしまおうというのがボクと朝子が出した結論である。そうすれば、犠牲はボクだけで済む。

「……知ってるか、朝子。こんな話があるんだ。多元宇宙論って言って、この世界には複数の宇宙があるらしいんだよ。そして、その宇宙は泡のようにプクプクって層を創るように増えていくんだ。もしかしたら『契約』なんてものはこの世に存在しなくて、この世界も、機械ノ世界も、もしかしたら物ノ怪世界もそうやってプクプク増えていった世界の一つで、その中の一つを偶然ボクたちが見つけただけなのかもしれないんだ」
「男の子ってそういう話、好きだよね。でも、私たちがそんな泡の上にこうやって立っているんだと考えると少し面白いかも」
「そうかもしれないな。……そろそろ、夜明けがやって来る」

 ちょっと先の未来の話を、もっと君と話していたかった。
 辛くて笑ったあの日も、言えずに閉まった想いも。

「帰ろう、ボクたちが元居た世界に」

 この世界は映画のように再上映することはない。だからボクたちは行かなければならない。
 もうボクも自分の棲む世界から目を背けることもないだろうから。

 気が付けばボクは物ノ怪世界へ帰って来ていた。

「……まずは武器を探そう。それから世界を閉じて、その次がファーターとの対決だ」

 この先、ボクは彼女と再会しない限りずっと不完全なままだろう。
 だけど、もう思い出の中に帰ることもできない。そんな道を選んだ。

「……行こう、ファーターのところに。全てを終わらせるんだ」

 最高のショーにしようぜ。
 喜劇的な世界の幕が上がる、その時のボクはそう思っていた。



「何よ、これ……」

 世界の崩壊が始まっていた。いいや違う、これは侵攻だった。
 空には大きな穴が開いていて、次々とロボットたちが世界を覆う膜を破壊していく。それはさながらサイバーテロとでもいうべき様相だった。そして他のロボットたちが機械ノ世界と私とナハトが創造した世界を繋ぐエレベーターを建設している様子が視界に映っていた。

 それはつまり、お母さんはどうやら私に時間を与える気など最初からさらさらなかったということである。

 朝子は急いで自らの家に戻ろうとするも、空から見慣れた街並みが雨のように降って来ており碌に進むことができないでいた。それでも何とか街全体を見渡せる高架橋の上へ登ると、お母さんがゆっくりと世界の淵へと消えていく様子が目に映った。

 朝子はマンションへ辿り着くと同時に冷蔵庫から大量に買い込んでいた林檎を入れた紙袋を取り出した。そして場所も厭わず林檎を齧るも、世界を移動することのできない自分の姿を見てもはや世界を遮断するものなどなくなってしまっている現状にはたと気付く。

「……だったら、私もお母さんの後を追いかけなきゃ」

 高架橋から見かけたエレベーターの位置へ移動するためにひた走る。もはや世界を繋げる開発工事は佳境を終えたところのようで、マンションを出てから数分も経たない内に瓦礫の雨は小雨となっていた。朝子は最低限頭部だけは守ろうと両手で頭を押さえ付けるとこれじゃあ本当に雨が降ってるみたいだなと思いながら全速力でエレベーターへと乗り込んだ。幸い全てのロボットたちは前線に出ているようで見守りをしているロボットなどは居らず、乱れた呼吸を整えながら朝子はエレベーター内で沈黙する。

 既に安全な場所なんてどこにもないのだろう。遠目には『ちょっと先の未来を、君と話したい』と書かれた看板広告が見えていた。意外にも機械ノ世界と私たちの世界はそれほど離れていなかったようで、ゆっくりと浮上していくエレベーターが数十分もした頃には私とナハトの創造した世界の夕景が隙間から差し込んでいた。
 エレベーターが到着したのだろう、ガシャンと荒々しい音が鳴ると朝子はゆっくりと一歩ずつ足を前に出す。

 そして朝子は手すりに両手を置くと私とナハトの創造した世界を見渡した。



『ダーリンダーリン愛しておくれ』

『夢に見た日々は僕らの証だった』

 魑魅魍魎たちによる百鬼夜行が行われていた。
 ファーターはボクたちが世界を消そうとしていることを見抜いていたのだろう。

 物ノ怪たちが上空から世界をこじ開けてボクたちの世界へ侵攻を始めていた。

 鬼たちが金棒を振るって世界を覆う膜を破壊していく。そのガレキをヤタガラスたちが邪魔にならない位置へ運んでいき、巨人族たちがボクたちの世界へ続く螺旋階段を建て続けていた。

「……クソッ、一体どうなってやがるんだ」

 ここまで事態が深刻なものになってしまってはもはやボクたちの世界を消してしまうことに意味はない。それに、どうせファーターは既にボクたちの世界の位置をある程度把握しているのだろう。

 ボクは覚悟を決めて螺旋階段を登り続ける。元々ファーターと戦うつもりだったのだ。そこに魑魅魍魎たちが加わったとして勝率などさして変わりはしない。おかげで可能性は更にゼロに近付いてしまってはいるのだが、そんなことで一々落胆している暇などボクにはないのだ。

 ボクは震える拳を握りしめながら、ついに螺旋階段の階上へと登り切った。

 そこは既に、ボクと朝子の創造した世界などではなくなってしまっていた。
 運悪く領土を広げようとした物ノ怪世界と機械ノ世界がかち合ってしまったのだろう。ボクと朝子の創造した世界は戦場と化してしまっていて、物ノ怪とロボットたちがまるで親の仇を討つとでも言いたげに殺し合いを始めていた。

 ボクと朝子の創造した世界の面影はとうになくなり、もはやボクたちの過ごした証なんて見るも無残な姿へと変えられてしまっていた。

 残された力で『創造』を行っても『12』と書かれた電飾看板、『眠レナイ夜ヲ 踊ルノサ』とカラフルに書かれた看板を修復できるくらいのもので、それを遥かに超える勢いで世界が焼き尽くされてしまっていく。

 もう、世界の崩壊を止める方法などありはしないのだろう。

 ボクたちの世界は、これで最終章を迎えてしまうのだろうか?

「――朝子、これからボクの取る行動に理解を示してくれ。きっと今がその時なんだ」

 ボクは路傍に転がっていた息絶え掛けているロボットから『マザーコンピューター』へと繋がる禁止コードを入力する。するとボクの影から見たこともない量の物ノ怪の力が暴走していくのが分かった。影は瞬く間にボクたちの世界に展開されていく。ボクはすぐにその鬼の力に耐えられなくなり、自らの影を切り離す。

「最高のショーにしようぜ、それはきっと、胸の高鳴る展開が起きる素晴らしいショーになるだろう」

 影は物ノ怪を喰い尽してどんどん肥大化していく。そしてボクは朝子を探すためにボクたちの世界を急いで駆け始めた。



 世界の終わりが近付いていた。無論私たちの世界が、である。
 物ノ怪たちがロボットたちを制圧したかと思えばロボットたちは戦闘機へと変形し、それらを引き連れたお母さんがマザーシップへと変形して金棒を振るう三ツ目鬼たちを蹂躙する。

 朝子はそれを横目に何とかしようと『あの日から僕らは共犯者だった。』と書かれた看板を修復するももはや焼石に水である。

「……ああっ、もう、あなたたち全員、土足で私たちの世界を荒らすんじゃないわよ!!」

 戦闘機による空爆がよほど効いたのか、三ツ目鬼を含めた物ノ怪たちは撤退を開始していた。

 そんな中、突如現れた異質な鬼が一匹。

 その鬼には斑点のように至る所に目玉が存在し、他の物ノ怪たちを吸収してどんどん大きくなっていく。戦闘機たちもそれに対抗しようと爆撃を開始するが全く効いている様子はない。

 私もあの鬼に呑み込まれてしまうのかな――。

 朝子がそんなことを考えながらぼうっとその様子を眺めていると、後方から聞き慣れた声が届く。

「……朝子ッ! 逃げるぞ!」

 ナハトはそう言いながら朝子の手を取ると、どこかを目指すわけでもなくあの鬼から離れるためだけに駆けていく。朝子は言われるがままナハトに引っ張られながら必死になって走り続けた。



 一面、焼け野原である。
 そこにはもうボクたちの世界の面影などは跡形もなく、砂漠となってしまった地面に半壊した建物が埋まっているのみであった。

 もちろん、奇跡なんて無い。

 そもそもの話、僕は鬼子なんかではなく機械ノ世界で暮らす落ちこぼれのロボットだったのだ。このところ極秘裏に物ノ怪世界へと行くことのできるコードが機械ノ世界の一部で極秘裏に取り引きされていて、大した仕事も任されていないロボットたちは物ノ怪世界で自由気ままに暮らすことがちょっとしたブームになっていたのである。
 落ちこぼれのロボットであった僕もご多分に漏れずそのコードを手に入れて鬼子に扮した僕は「花斗」の名前を捨てて「ナハト」として物ノ怪世界で気ままな日々を過ごしていた。

 一般的なコードでは物ノ怪の持つオカルトの力まで再現することは不可能である。しかしその抜け道として禁止コードを使うことでオカルトな力を用いることが可能となる。しかしそれは、現実世界、つまり機械ノ世界での僕の「命」を削ることと同義だった。
 しかし僕たちの世界で朝子と幸せに暮らすためには厭うものなど有りはしなかったのである。

 だけど、その僕たちの世界もいまや見る影をなくしてしまっていた。

 不安だ。

 これから僕は、僕たちは、一体どうなっていくのだろう。

「手放したってもいいんだよ。また一緒に最低な夜を越えて行こうよ」

 隣で一緒になって更地を見つめる朝子がそっと僕の手を掴む。

「私たちならきっと、まだ見ていない世界を潜っていけるはずだよ」

 僕には、多元宇宙論の他にも考えていることがあった。
 僕たちの住んでいる機械ノ世界の上にボクたちの世界があって、ボクたちが棲んでいた物ノ怪世界の上にもボクたちの世界があった。
 それなら、世界は三つだけなんて誰が決めた。

「……そうだな。僕たちならもっと高い世界へ行けるはずだ」

 僕は朝子と並んで座りながら荒れ地に大きな根を張った大きな林檎の木を見てそう呟く。

 僕らがこれから暮らしていく場所もまた、まだまだアンダーグラウンドなのだから。

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