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15歳の君へ

ラッシュアワーの銀座線、車内に押し寄せる人の波に足元をすくわれた瞬間、昔付き合っていた人のにおいが強く鼻先をかすめた。最後に会ったのはもう10年近く前なのに。7年前に亡くなったのに。
嗅覚の訴えは一番鋭敏だ、と考えながら、そういえば昨日は彼の誕生日だったのだと思い出した。

昨日はとても好きだった人の通夜だった。
三百人近くが駆けつけたためか、人の流れが滞らないようにするのが精一杯といった風で、故人を最期に一目見ることはとうとうかなわなかった。住職の妻という特殊な立場もあったのだろう。

大学一年生の頃から境内には何度も訪れていたのだけれど、本堂を見たのは皮肉にも昨日が初めて。かおりの少ない空色や白の花があふれんばかりに飾られていて、そうか、彼女がいつも青い服をまとっていたのは、このさわやかな色が好きだからなのかもしれない、と気付いた。
ちがう、好き「だった」からなのだろうと、過去形に変換するのには、まばたき一回分だけの時間と躊躇が必要だった。

お寺の目の前に立てられた、「葬儀式会場」という看板に記された彼女の名前を見て、本当に亡くなってしまったのだと唖然とした。つつましく微笑んだ遺影に黒い帯がゆるくかけられた様子をみとめたとき、彼女の訃報を受けてから初めて涙が流れた。
喪主の言葉を聞きながら泣きじゃくってしまって、息が止まりそうなくらいで、いつも高らかな声で私を呼んでくれた彼女のことをずっと思い出していた。強いひとだった。出会った時は既にがんを患った後だったのだと、私は昨日初めて知った。どんなときでも歌うように話す人だった。

「◯◯さんが亡くなったの本当につら」、帰宅してから軽い口調でぼやいた私を、弟は軽くいなしてきた。人の死をそんな語り口であしらってはいけない、と。弟の言うことはもっともだ。でもそれだけじゃないのだ。人が実際に受けている痛みと、その人が表現している痛さはしばしば大きく異なるのだから。

いつ訪問してもオーガニックのお茶や上質な和菓子でもてなしてくれたけれど、最近は部屋で眠られていることが多いようだった。痩せがちな身体のためか、華やかな笑顔や声が決して華美にはうつらず、とてもじょうずな気の使い方をされる方だった。大好きだった。
様々な植物を育てられている方だった。広大な庭には、毎年桜も梅も、椿も枇杷も金木犀も咲き乱れた。夏になると赤紫蘇をつかい、やたらと毒々しい色のジュースを作ってくれた。東京の湿気と熱にやられやすい私の身体に、その赤紫の飲み物はおどろくくらいよく効いた。

帰宅しこっそり調べたら、赤紫蘇の花言葉は「力が蘇る」と、「善良な家風」だった。いつもぴかぴかしていて、全力でお家を守られていた彼女に、なんとぴったりな花言葉だろう。そして私は今後、毎年赤紫蘇を見かけるたびにこの花言葉と彼女を思い出すのだろう。

一夜明けて、今日。元恋人は生きていれば27歳になるはずだった。つい先週まで溌剌としていたあの人は、今日荼毘に付された。
泣きすぎたせいか疲れた身体に鞭打って、私は何事もなかったかのように出社して、新しく出会った何十という音楽たちを活力に、今日をまたがむしゃらに乗りこえた。
一月近くぐずついていた体調も、ようやく快方へと歩んでいる。「力が蘇る」とまではいかないけれど。

二十歳にならずして亡くなった元恋人のことを時たま思い出すだけになってしまっても、この世にかけがえのない人が一人亡くなってしまっても、私の世界は回り続ける。 今日が昨日の延長であるかのように、明日が今日みたいに来ることを疑わずに、私は私のいとなみを続けてゆく。

「誰か」の不在によって、この世界にはいくつもの穴ぼこができる。でもやがて風化され、チリがつもり、穴ぼこだらの道もいつかは均されてゆく。
愛する人の不在に何度もつまずきながら、それでも延々と続くように見える道を前に、私たちは歩き続けてゆくことができる。

そして、ずいぶん遠くまで来たな、と、振り返ったときに気がつく。穴があったはずの場所がどこだったのか分からない。転んだ時にできた傷にはすっかりかさぶたができている。一生忘れまい、忘れたくない、と感じていた痛みさえ、どのようなものだったかおぼろげになっている。

良い悪いで切り捨てられるものではないのだろう。慣れや不慣れ、ひいては向き不向きの問題なのだとおもう。単純に。

「妻は様々なジャンルの音楽が好きで、ジャズなんかも好きで。とりわけ好きなのが松任谷由実でした」。ところどころ言葉に詰まりながら、旦那さんは喪主のことばを述べていた。「妻と別れて帰宅してからは、ひこうき雲を流しました。何度も何度も流しました」、と。「妻はいなくなってしまったけれど、妻ののこしたひこうき雲は、わたしたちの心の空にのこり続けるでしょう」と締めくくっていた。

大好きだった人には娘さんがいた。
スマートフォンの着信履歴に、彼女の名前が今後残らないこと。彼女との写真がこれ以上増えることはないこと。彼女がつくる料理のにおい、湯を沸かす姿、甘い声で人懐こすぎる番犬たちに話しかける音が、やがて遠い日のものになってしまうこと。
15歳の彼女の心が、一旦粉々にくだけてしまうには充分すぎると思う。18年間連れ添ったという、大好きだった人の旦那さんにとってもまたしかりだろう。

でも、慣れてほしいと思う。大切すぎる人がいないことに。耐え難い心痛に。今生の別れを経験してしまって、そしてそれは覆すことができないという現実に。
慣れるということ、そして片時も忘れない、ということができなくなることは、罪悪感を抱くようなことではない。決して。

おろしたばかりの高校の制服が、すっかりくたびれる頃までに、というのは土台無理な話だろう。でもいつか、なるべく早く、すっかり覆った雲の割れ目からのぞく光に気づいてほしい、と思う。

私は今朝起きた時、大好きだった人たちの、永遠の不在を思い出して泣きたくなった。半日後、私は上司に軽口を叩いていた。後悔しない人生、について歌われた曲を聴いて、好きな人のことを想っていた。

じきに梅雨がはじまる。そうすれば暑すぎる夏が幕を開けるだろう。
でも、突き抜けるような青空に、ひこうき雲はうつくしく映えるはずだ。
まだいとけない15歳の君が、母親を亡くして初めて迎える夏空に、ひこうき雲をちゃんと見つけられるといいな、と私は心底願っている。

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