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性的指向、あるいはアセクシュアルであることについて

この歳になって、ようやく自分の性的指向をはっきり自覚することができた。

私とつきあいがあるほとんどの人は、私のことを異性愛者として認識していたと思う。
何より私自身がそう思い、そう振る舞い、自分の存在をクローゼットに押し込んでいた。
自分のことを男好きな人間だと思っていたし、それはべつにヘテロノーマティヴィティに強制されたものではない、内的感覚によるものだと思っていた。
ただ、その自認に対して苦しまなかった、というのは嘘になる。


《女性の頭部(フェルナンド)》パブロ・ピカソ,1909年,ブロンズ,シカゴ美術館

「恋愛」というものを知ってから、だれと付き合っても「よくて数か月」しか恋人としての付き合いが続かず、すぐに別れてはまた新しい人と付き合うというかたちが、10年ほど続いていただろうか。
明白な不貞による破局は人生で一度しかなく、ほかはすべて喧嘩別れなどで終わっていたので、事は余計に不可解だった。
おたがい誠実に付き合っているのに、なぜうまくいかないのか?

個人的な感情として、恋愛はしたい。パートナーは欲しい。結婚が可能ならば、したい。そして未熟なりに、関係維持のために努力はしてきたと思う。
では……私には、「長期的なパートナーシップを築ける/結婚できる」ひとびととはちがって、致命的な人間としての問題があるのだろうか。

誰に相談できるわけでもない「問題」のありかをつかもうとして、性や愛や恋や結婚、あるいは家族についての本を読むようになったのはいつからだろうか。
ただ、結論として、2024年の今を紐解く本にも、古代の哲学書にも、納得のいく答えは書かれていなかった。

なぜ誰も問いに答えてくれないのか?

そんな中で、私はある一冊の本を読み終えた。

それは自分のためではなく、アセクシュアルであることをカミングアウトしてくれた身近な人を、より深く理解しようと思って手に取った一冊だった。
ただ、最初の私の感想を腑分けするとこうだ。

そもそも、この本で議論の焦点となっている『性的な惹かれ(sexual attraction)』とは、いったいなんなのだろう? それがそもそも『わからない』から、明晰な筆致で書かれている本の内容がなにもつかめない。なにもかも雲を掴むような話のように思える

思うところがあって、同じ本をもう一度読み返した。
読み終える頃にはっきりと、この本には「あなた」のことだけでなく「私のことも」書かれていて、それはつまり「私たちのための」本なのだということがはっきりわかった。

無いことに気づくことは、とても難しい。


《Human Nature/Life Death》ブルース・ナウマン,1983年,シカゴ美術館

私は男性に恋愛感情を抱くことはあるが、人生で性的な惹かれを経験したことがなかった。
焦がれるほどに恋した相手ですらも、いざホテルに入って服を脱いで、性的なことをしてみると、その身体や性器というものが「おとうさん」或いは「男きょうだい」と何が違うのか、わからなかった。一度きりではなく、数えきれないセックスのすべてがそうだった。
そしてなにより、世の中の多くのひとは「そうではない」と気づきつつも、うまく言いあらわせず、誰にも相談できない違和感があることが、長い間苦しかった。

セックスが嫌なわけではない――形容するなら「どちらでもいい」(これは私のごく個人的な感触の話で、もちろんアセクシュアルぜんたいの話ではない)。
性欲はある。というか同年代のAllosexual(性的惹かれを経験する「ふつう」の人)よりも、性経験は多いはずだし、奔放と呼ばれてもおかしくはないと思う。
触れられるのは嫌ではない。究極的に「どちらでもいい」のだ。「他者にどれだけ性的にまなざされているか」とかも、暴力的な行為を強要されない限りあまり気にはならない。
マッチングアプリで会った相手と初対面でホテルに誘われたとしても、「ふーん」くらいで終わっていたし、応じることもあった。
極端に嫌というわけではないのだ。
よくわからない感情を向けられて少しずつ摩耗していくだけで。

こちらから「したい」かと言われると、わからない。
セックスに誘ったことはある。だが、それは相手に対する慈しみのような感情か、「愛情表現とされる行為をしたい」という動機からくる以上のものではない。
正直なところ、人間が経験するセックスというものが、ボノボの性行為やたがいの性器をこすりつけるいとなみ(ホカホカ)と何が違うのか、今もよくわからない。

手の届かないほど魅力的とされる芸能人などについてもそうで、私は本当に「イケメンのアイドル」とか「セクシーな俳優」とかにはぜんぜん興味がない。
「官能的な美しさ」という概念は理解できるし、そういった意味で好きな有名人はいたが、会いたいか、触れたいか、触れられたいかは全く別だ。

過去の恋人とセックスについてのすり合わせ(たとえば付き合う流れになって、セックスをするのかどうか、するとしたらいつか、きちんと話し合うとか)をしたのかと言われると、これもまたあまり経験がない。私が違和感を口にしなければ、関係は丸く収まるし、同時に「流れは関係なく、好意がある相手なら『したい』ものなのだろうな」と自分をごまかしていた(破綻を避けようとしてAlloに過剰に迎合してセックスする「ごまかし」がかえって性に積極的に見えてしまうというのも、わりとAceあるあるなのだということものちに知った)。


《キャンディダとその母セリアⅡ》ダウード・ベイ,1998年,シカゴ美術館


私は惹かれていない。
あの手この手で「惹かれていた」「セックスしたそうだった」「好きなのでは?」というレトリックを使われても、だれにも惹かれていない。
恋愛感情があっても、セックスをしたいとは言っていない。
「嘘だ」と指をさすなら、性愛の存在する世界を「わからせて」ほしい。


《The Night is Stirring(La nuit remue)》ザオ・ウーキー,1956,シカゴ博物館


私もAllosexualに迎合したくないわけではないのだ。好きでAceとして生まれてきたわけではないのだ。
セックスのあとに「私を人間として扱ってほしい」と泣いて、ベッドの上で恋人たちを困らせてきた(かれらは当然私を人間として大事にしてくれていたのだろうし)自分とは、できれば決別したかった。
好きな人とすれ違いたくなかったし、苦しめたくもなかった。
そして同時に、普通の人がなぜ苦しまずに暮らしているのか、心の底からわかりたかった。
なぜ幸せにセックスができているのか。あるいは、したいと思えているのか。
自分のアセクシュアリティと折り合いをつけた今となっても、その無邪気さを、心のどこかで知りたいと思っている。
 

なぜあなたがたは無邪気さの刃をもって、かくも残酷にふるまえるのだろうか。

《ノクターン:青と金 - サウサンプトンウォーター》ジェームズ・マクニール・ホイッスラー,1872年,シカゴ美術館

この記事を書く前に、信頼できる人としかつながっていないSNSでカミングアウトしたところ、「実は自分もAceで」という反応が思ったより多く、マイノリティではあっても別に孤独でもなんでもないということもわかって嬉しかったし、かなり救われた。
とくに、最初の方で述べた、私がAceについての本を手にするきっかけになった身近な人には、ほんとうに感謝している(この文章も事前に読んでもらっている)。
「自分が、あるいはだれかがAceであること」をいかに受け入れていくか。
そしてだれかのアセクシュアリティを否定しないかたちで、友情・愛情に基づくパートナーシップをいかに可能にしていくか。そうした議論に文字通り身を挺して向き合ってくれた(この手の話題はライフストーリーやプライベートな事柄も含めた総合的な価値観の開示をお互いに要求してしまうし、当然疲弊もさせてしまったと思う)人が寄り添っていてくれたことは間違いなく人生における財産だし、いままでほどに苦しむことはもうないだろう。

カミングアウトはしないつもりでいた。
埋没していたい願望もあったし、邪推されることにも、加害されることにも、奇異の目を向けられることにも、「悲恋」「断絶」「無理解」「拒絶」「かわいそう」という陳腐な表象をAro/Aceに紐づけられて消費されることにも疲れ切っていた。
この文章じたいも「Alloに嫌われないよう」公開するにはどうしたらいいだろう、という問いが常に頭にあって、普段よりずっと、執筆に時間がかかっている。それがAlloがAceを語るときには不要な労力であることにも憤っている。
「穏やかに穏やかに」と修正され、角を削られて丸くなっていった文章は、ぎこちない作り笑顔と何が違うのだろうか。

とはいえ、こうした葛藤は存在しつつも、現状Aceについて語られたまとまったかたちの文章は、(特に日本語では)ほんとうに少ない。
ゆえにもともと文筆の畑にいる人間として、自分の言葉で何かしら残しておきたい、という欲求が勝った。

少なくともこの文章を、ぎこちない作り笑顔にとどめておくつもりはない。
かつて苦しいときに自分の腕を強く引っ搔いたときのような、寅のような爪痕を、私は文字という形でこの空間に刻み付けておきたかった。


《虎図》歌川国貞(三代目豊国)1830年,シカゴ美術館

読んでいた本(の一部):