百人一首についての思い その82

 第八十一番歌
「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」 
 後徳大寺左大臣
 ホトトギスが鳴いた方向を眺めると、ただ有り明けの月が空に残っているばかりでした。
 
 I look out to where
 The little cuckoo called,
 but all that is left to see
 is the pale moon
 in the sky of dawn.
 
 支那には「杜鵑の吐血」という故事がある。
 三国志に登場する蜀頼も古い時代の蜀の王、杜宇はその死後、ホトトギスとなって蜀の国を飛び回った。やがて蜀は秦に滅ぼされる。そのため、杜宇は「不如帰来(ほうほけきょう)」と鳴きながら血を吐いたという。
 
「初夏の夜明けに、ホトトギスが鳴いたような気がして、振り向いた。(二度と返らない過去の栄華を思い出していた。)そこには鳥(過去の栄華)はなく、ただ月だけがあった。」
 
 ホトトギスは支那の故事から、「帰ることができない過去(=不如帰去)を意味する。貴族達にとっては、「不如帰去」とは平和な時代のことを指す。「大化の改新」があってから500年以上続いた平和な時代のことである。月が沈めば、太陽が昇る。それが世の中の道理である。
 
 しかし、ホトトギスは渡り鳥である。渡り鳥であるからには、季節と共に巡っていき、いつかは元の状態(シラス勢力が望む平和な状態)に鳴るのではないかと、希望を持ち続けることにしたのだろうか。
 それでも、今や貴族達にとっては月(ウシハク勢力の象徴としての)しか残っていないのである。太陽(シラス勢力の象徴としての)は昇ってこないのである。月は武家が幅を利かせる時代であり、太陽は貴族が政治の実権を握る時代であることの比喩であると捉えれば理解しやすい。
 

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