百人一首についての思い第六十六番歌
「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」
前大僧正行尊(ぎょうそん)
私がおまえを愛おしく思うように、おまえも私を愛おしく思っておくれ、山桜よ。お前(花)よりほかに私の心を知る人はいないのだから。
Mountain cherry,
let us console each other,
Of all those I know
no one understand me
the way your blossoms do.
父は皇族に連なる参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家したが、そのときは12歳だった。1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。
延暦寺は天台宗の総本山だが、行尊がいたのは園城寺だ。園城寺は、天台宗の流れは汲んでいるが、延暦寺とは仲が良くなかった。行尊が67歳の時に、園城寺は比叡山の僧兵によって焼き討ちされる。焼け野原になった園城寺で行尊は大僧正になった。その後、行尊は園城寺を再建して81歳で亡くなった。行尊は、ご本尊の阿弥陀如来に正対し、念仏を唱えながら、目を開けて座したままの姿で亡くなったという。「まこと」に最初から最後まで向き合った尊い人柄だったのだ。
この歌は金葉集に入集している。金葉集の詞書きには「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」とある。行尊は三条院の曾孫なので皇族の出身である。修行を重ねて鳥羽天皇護持僧、熊野三山検校、天台座主、大僧正にまでなった。そういう行尊大僧正に西行は憧れていた。だから、「吉野の奥」に執着したということだ。そして、西行は行尊への思慕を詠むことをやめない。
「露もらぬ窟(いはや)も袖はぬれけりと聞かずはいかにあやしからまし」
山家集中 雑・917
「笙の窟は雨露が全く漏れないはずなのに、私の袖は法悦の涙の露で濡れてしまった」と詠んだ行尊の歌を、もしも知らずにこの地に立っていたら、私はこの私の袖を濡らす涙をどう説明したらよいか分からなかっただろう。
この歌も行尊が詠んだ次の歌に依っている。
「草の庵になに露けしと思ひけんもらぬ窟も袖はぬれけり」
金葉集 雑上・行尊
草庵ばかりをなぜ露っぽいと思い込んだのだろ。雨露が漏らないはずの窟でも、涙の露で充分に袖は濡れてしまうのに。
西行は吉野山に二度入っている。それもやはり行尊を大切に思っていたのだろうと推測できる。藤原定家は、この歌を通じて日本人は最初から最後まで行尊のように「まこと」に向き合って生きよと言いたかったのかも知れない。
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