西行の足跡9

13「吉野山桜が枝に雪散りて花遅げなる年にもあるかな」 
 新古今集・春上・79
 吉野山では桜の枝に雪が散っている。今年は花の遅い年になりそうだ。
 
 西澤教授によると、この歌は西行が詠んだ花、あるいは吉野の歌の仲では最高峰だそうだ。なぜこの歌が最高傑作と評価されるのかを見ていきたい。
「吉野の花」とは、遠山桜を詠むのが通例だったそうだ。そして、都からわざわざ出かけて見に行くものでもあった。ところが、西行は吉野に数年住んでいた。
「常磐なる花もあるやと吉野山奥なく入りてなほ尋ね見む」 聞書集・186
永遠に散らない花があるのではないか。そんな期待を胸に吉野山の山奥に、さらに奥にと分け入って探してみよう。
「吉野山奥をもわれぞ知りぬべき花ゆゑ深く入りならひつゝ」 
 聞書集・187
 吉野山の奥にある秘密を私は必ず知ることになるだろう。花を見たくて繰り返し繰り返し奥深く入山しているうちに。
 さて、吉野の桜は都からはるばると出かけて遠山桜を楽しむものだった。それなのに、西行は「桜の枝」、「桜が枝」という表現を好んだ。遠山桜はただ眺めて、桜の美しさを鑑賞するという感じが強いが、「桜の枝」というとは花がない枝を手に取るように近くで枝そのものを鑑賞するという感じがする。
 
「春になる桜の枝はなにとなく花なけれどもむつましきかな」 
 山家集中・雑・986
 桜の枝は春になるとただわけもなく、花がなくても親しみを感じる。
 同時代の人に俊恵という人がいた。
「珍しくまたも見よとて吉野山桜が枝に降れる初雪」 夫木・俊恵
 珍しいことにもう一度花見をしなさいとでもいうように、吉野山のまだ花のない桜の枝に、花のように初雪が降っている。
 西行と同じく「桜が枝」を詠んでいる。俊恵は、雪を桜の花に見立てて二度花が咲く、二度花見ができると洒落たが、西行は雪を花とは見立てることを拒絶し、「花遅げなる」と詠んだ。
 
 そして、西行は都を離れて、吉野に住む歌人になった。
「花を見し昔の心あらためて吉野の里に住まんぞと思ふ」 
 山家集下・雑・1070
 花を見て憧れた俗世時代の初心に立ち返って、吉野の里にしばらく住もうと思っています。
 吉野の奥千本という所には西行庵の伝承があるいう。
 松尾芭蕉は、「露とくとくこころみに浮き世すすがばや」(野ざらし紀行)と詠んだが、その「とくとくの清水」には、「とくとくと落ちる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住まいかな」という西行の和歌だという伝承が残っているそうだ。
 
14「さらに又そり橋渡す心地してをぶさかかれる葛城の峯」 
 残集32
 一言主神が役行者に命ぜられて途中まで架けたという岩橋の上に、もうひとつ反り橋を渡したような、大きな美しい虹が葛城山に懸かっている。
 
「をぶさ」(緒総)とは虹のことを譬えていったものであり、葛城は修験道の聖地である。「金の御嶽(金峰山)と「葛城の御嶽」(岩橋山)との間に端を架けろとは命じられた鬼神たちは、昼間は働かなかった。なぜなら、自分達の醜い姿を恥じたのだ。そのため、橋が完成しなかった。そのことに怒った役行者は一言主神を谷底に呪縛したという。
 
 さて、大和葛城山を北西方向に下ると、引川寺がある。引川寺は、西行終焉の地であった。
「葛城やまさきの色は秋に似てよその梢の緑なるかな」 
 山家集下・雑・1078
 葛城の名にゆかりのある「まさきのかづら」は、秋を先取りして見事に紅葉した。他の木は梢まですっかり緑なので、その色彩の対照がまた美しい。
 
 なお、「まさきのかづら」とはテイカカズラかツルマサキのことだとも言われているが、どちらも常緑なので紅葉しない。そこで、西澤教授は「サンカクヅル」のことではないかと言う。
 西澤教授によれば、「虹」は和歌にはあまり詠まれなかったという。万葉集には次の歌がある程度だとのこと。
「伊香保ろの八尺の堰塞(ゐで)に立つ虹の顕はろまではさ寝さ寝てば」    
 万葉集・巻14・東歌
 伊香保の高い堤防に立つ虹のように、どんなに人目につこうともお前と寝たい。
 
 ところで突然話を変えるが、徒然草の十段に西行の話が出てくる。
 引用ここから
 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心(みこころ)、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮(あやのこうじのみや)のおはします小坂殿(こさかどの)の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙(かえる)をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。
 引用ここまで
 
 現代文ではおよそ以下の通りになる。
 後徳大寺左大臣が、屋敷の正殿に鳶をおらせまいとして縄をお張りになったのを、西行が見て、「鳶がいるのが、どうして不都合があろうか。この殿の御心はこの程度か」といって、それ以後参上しなかったと聞いていましたので、綾小路宮(あやのこうじのみや)性恵法親王がお住まいの小坂殿の棟に、いつだったか縄をお引きになっていたので、西行の例を思い出してありましたら、まあ、なんということでしょう。
「烏が群をなして池の蛙を取るので、宮さまは御覧になって悲しまれたからなのです」と人が語ったのこそ、何と素晴らしいと思ったことでした。徳大寺のお屋敷に縄を張っていたのも、どんな理由があったのでしょうか。
 
 面白いのは、徒然草の作者はなぜか後徳大寺実定の事情を勘案してやろうとでも思っていたかのような書き方だが、後徳大寺の家来でもあった西行は、冷徹かつ正確に主人の器量を見定めた。そのような冷徹な目を持つ西行だからこそ、聖地の聖性を見定められたと思って良い。
 

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