西行の足跡 その38

36「かかる世に影も変わらず澄む月を見るわが身さへ恨めしきかな」 
 山家集下・雑・1227
 崇徳院御謀反御出家という想像を絶する大事件が起こるこの世の中に、いつもと少しも変わらず月が美しく澄んでいる。そんな月を美しいと見てしまう私までが、我ながら恨めしい限りである。
 この歌には下の長い詞書きがある。
「世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪下ろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげんあざり)出あひたり、月明るくて詠みける」
 新院とは崇徳院のことだ。つまり、上の歌の意味はこうである。
 崇徳院が御謀反なされてその上に出家なされるとい大事件があった。そんな世の中に、いつもと少しも変わらずに美しい月が澄んでいる。そんな月を美しいと見てしまう私までもが、われながら恨めしい限りだ。
 
 保元元年(1156)7月11日、後白河天皇と崇徳上皇が、皇位継承を巡って武力衝突した。破れた崇徳院は讃岐に配流された。いわゆる、保元の乱である。保元の乱を一言で言い表すとすれば、後白河天皇と崇徳上皇の家督争いであり、天皇家の家督争いとしては初めて武士が動員されたということだ。つまり、武士に依存しなければ争いに勝てなくなったということでもある。その後に起きる平治の乱を見れば分かる。
 
「言の葉の情け絶えしに折節にあり逢ふ身こそ悲しかりけれ」 
 山家集下・雑・1228
 崇徳院の御遷幸らよって和歌が絶えてしまう。そんな世の中に生まれた自分の運命が悲しい限りだ。
 
「敷島や絶えぬる道に泣く泣くも君とのみこそ跡をしのばめ」 
 山家集下 雑・1229寂然
 日本文化の中枢の和歌が崇徳院ご遷幸で絶えてしまった以上は、泣きながらでも、あなたと二人で院の御事績を偲ぶことにしましょう。
 
 寂然も讃岐の地に崇徳院を訪ねている。
「帰るとも後にはまたと頼むべこの身うたて仇にもあるかな」 
 風雅集・巻九旅・寂然
 今都に帰っても、もう二度と来ることはないでしょう。情けないことに、この身はそれほど儚いものなのです。
 
「慰めに見つつもゆかむ君が住むそなたの山を雲なへだてそ」 
 風雅集・巻九旅・寂然
 崇徳院を置いたまま帰京するのが辛くて、心慰みに何度も降り返りながら帰ります。院の住んでいらっしゃる向こうの山を、雲を隔てないでおくれ。
 
 寂然にしても、西行にしても、なぜかくも崇徳院を尊崇するのだろうか。西行は、崇徳院が潜行していた仁和寺を訪れた。これは権力者の目から見れば、謀反人に会いに行くという危険な行為としか移らないだろう。
 
「いにしへはついゐし宿もあるものをなにをか今日のしるしにはせん」 
 山家集中・雑・799
 昔のものほんの仮住まいであっても残っているのに、経、周防内侍の形見を身に着たという、私自身の形見などどうすれば残せるというのか。私には歌しか思い浮かばない。
 
 この歌は周防内侍の家を見に行った時の歌だ。「昔のものはほんの仮住まい出会っても残っている。今日周防内侍の家を見に来た、私自身の形見をどうすれば残せるのか。私には歌しかない」
 この歌を読めば、西行が言いたかったことは、私には歌しかないのだということであり、和歌をいかに大切に思っていたのかという西行の思いがよく分かる。
 

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