百人一首についての思い その87
第八十六番歌
「嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな」 西行法師
嘆きなさいと言って月が私に物思いをさせているのでしょうか。いや、そうではなく、月のせいにして私の涙は流れているだけなのです。
It is not you, Dear Moon,
who bids me grieve
but when I look at your face
I am reminded of my love―
and tears begin to fall.
月を見て西行が涙をながしているわけではない。月にかこつけて別の理由で涙を流しているのだ。では、なぜ涙を流すというのか。月は、というよりも、この世の全てのものは満ち欠け、盛衰、変遷を繰り返す。西行はその変遷を「涙かな」としている。月にかこつけて、西行が何かに涙しているのだ。
貴族と武家が政治権力を奪い合う。あちらを立てればこちらが立たずと言うような混沌とした状況になっていることを涙しているのだ。西行は政治家でもなく、貴族あるいは武家の権力争いとはかけ離れたところにいる、僧侶という身分なのである。
月は人間の手が届かない遙かに遠いところにある。西行にとっては、貴族と武家の権力闘争などは、月のようなものであり、西行が何か寄与できるというものではない。しかし、雲の上の国政の出来事は、そのまま庶民の問題である。国政の乱れは世の乱れにつながり、庶民の平穏な生活が破壊され、やがては人々の殺し合いが始まる。血が流れるのだ。そのことを西行は嘆いているのである。
定家は、混迷する時代にあっても、また政争を嘆きながらも、自分の立場でできる最大の努力を惜しまなかった人として、西行を選んだのである。
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