百人一首についての思い その45

 第四十四番歌
「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」 
 中納言朝忠(あさただ)
 男女の関係など世の中からなくなってしまえば、相手のことも自分のことも恨まずに済むのに。
 
 If we had never met
 I would not so much resent
 your being cold to me
 or the way
 I love you so.
 
 男女関係などなければ相手のことや自分のことを恨まずに済むのに、というほどの意味である。反語的な言い回しである。反語的言い回しとしてすぐに思い出すのは次の歌である。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 在原業平
 業平は桜がないほうがいいといったわけではない。この歌も同じ構造だ。つまり、朝忠は「恋は素晴らしい」と言うことを反語的表現で表したのだ。
 
 さて、この歌は、第四十番歌と第四十一番歌で触れた天徳内裏歌合で詠まれた。番(つがい)になった相手は、藤原元真(もとさね)が詠んだ次の歌である。
「君こふとかつは消えつつふるものをかくてもいける身とや見るらん」 『後拾遺集』807
 
 結果は「ことば清げなり」ということで、朝忠が勝った。この歌合では朝忠は、霞、鶯、桜、藤、暮春、そして恋を二番、合計七番も出詠している。いかに才能があったかという証拠だろう。
 
 しかし、人であるからにはいかに才能があろうと身分が高かろうとやがては老いていくし、病に冒され、死んでいく。私のような才能も金もない、いわば「ないない尽くし」の人間も、朝忠のような才気溢れて高い身分の人間も、無常であるという一点では同じなのだ。
 
 無常に思いたる時、いつも私は「お座敷小唄」を思い出す。
「富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変わりはないじゃなし 溶けて流れりゃ みなおなじ」
 俗っぽいと笑うわけにはいかない。実に無常の真実を突いた歌詞である。川の流れの中に一滴の水が生まれて死んでいっても、川の水は次々に流れて来て絶えることはない。
 個は死に絶えても、新しい命が生まれ、またそれが集団の中に生き続ける。そのような死生観を藤原定家は、この歌を通して訴えたかったのかもしれない。

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