西行の足跡28
終焉の条
51「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」
新古今集・羈旅987
年老いてもう一度越える日が来るだろうなどと思っただろうか。まさしく「命」だったのである。この小夜の中山を越えさせたのは。
西行は二度平泉に旅をした。旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にある小夜の中山峠は、急峻な坂の続く街道の難所であった。だから、西行は旧東海道を二度往来したのだろう。
「命なりけり」というのは、古今集の次の歌を引いている。
「春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり」
古今集・春下
春の来るたびに花は盛りを迎えるのだろうが、その花に逢えたまさしく私の命次第だったのだ。
さらに、有名な次の漢詩も意識しているようだ。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」
和漢朗詠集・無常・宋之門
一期一会のありがたさ、「命」としか言いようがないものによって、花の盛りに逢うという、運命的なものを見た、ということであろうか。
和漢朗詠集では宋之問(そうしもん)の作となっているが、一般的には劉希夷(りゅうきい)作の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)という漢詩だとされたいる。「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」の句を、舅の宋之問が気に入り是非譲って欲しいと言った。劉季夷は、一度は承知したが、その後、惜しくなり断った、宋之問は怒り下男に命じて劉季夷を(土のう)で圧死させたと言われている。
いずれにしても、この漢詩は花や人間のみならず全ての生物の命の儚さをよく表している。まさに、無常の思いである。
それにしても、なぜ西行は小夜の中山を特に取り上げたのだろうか。
「甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり伏せる小夜の中山」
古今集・甲斐歌
甲斐国の山々、あの美しい白根山などをはっきりと見たい、と思っていた。それなのに心なくも横たわって眺望を妨げている小夜の中山よ。
「東路の小夜の中山なかなかに何しか人を思ひ初めけむ」
古今集・恋二・紀友則
東海道の小夜の中山のちょうど道程半ばにあるように、なまじ中途半端に、どうしてあの人のことを思い始めてしまったのだろうか。
52「風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて行方も知らぬ我が思ひかな」
新古今集・雑中・1615
風に吹かれて富士の噴煙が空に消えて行方も分からない。そのように、私の思いもこれから先どこに辿り着くのか自分でも分からない。
「富士の煙」は伝統的に恋歌の歌枕だったというのが西澤教授の解説だ。そして、この歌では「思ひ」の「ひ」が「煙」(火からの連想か)の縁語として用いられている。そして、「行方も知らぬ」も「我が思ひ」も恋歌に多用される。
「人知れぬ思ひをつねに駿河がなる富士の山こそ我が身なりけれ」
古今集・恋1
私はいつもあの人に届かない思いで、身を焦がすほど恋い焦がれている。駿河の国の富士山こそ私自身なのだ。
この歌では、「思ひ」に「ひ」が掛かる。「ひ」は「火」である。
「由良の門を渡る舟人楫を絶え行方も知らぬ恋の道かも」
新古今集・恋1・曾禰好忠
由良の門を漕ぎ渡る舟人が楫を失ってどうしたらよいのか分からないように、行く先も分からない恋の道に、私は迷い込んでしまった。
『西行上人集』では、「風になびく」の歌は恋の部に入っている。それは西行自身の他の歌でも次のように歌われている。
「けぶり立つ富士に思ひを争ひてよだけき恋をするがへぞ行く」
山家集中・恋・691
噴煙を上げる富士を見ると、張り合うように私の恋の思いも火の手を挙げてしまう。駿河に行くとあなたを恋しがる心が人目についてこまるほどです。
しかし、西行は「風になびく」の歌は恋の歌として詠まれたわけではない。西行の「思ひ」 は恋ではなく、出離厭世の思いである。そのことは、次の歌を参考にすれば理解しやすい。
「世の中を心高くも厭うかな富士の煙を身の思ひにて」
新古今集・雑中・慈円
私は不遜にも気位高くこの世を厭離する。この上なく高く立昇る富士の噴煙に渡し自信の思いを託して。
慈円には、「楚忽(そこつ)第一百首」と呼ばれる百首詠がある。「我が第一の自歌歌」であると自讃したのだから、相当の自信があったに違いない。慈円も西行も老境に入っており、「行方も知らぬ我が思ひ」ととう共通点があり、海と水、水と火、見下ろす視野と見上げる視野という対照も鮮明だ。
西行伝承歌の次の一首を見ても、富士が西行に与えた影響は強い。
「思ひきや富士の高嶺に一夜寝て雲の上なる月を見んとは」 源平盛衰記
高嶺の花と思い諦めていたあなたと一夜を共にできるなんて、思っても見ませんでした。この思い出だけで十分です。
西行が出家する機会になったある後期きわまりない女性との恋愛に関する歌だが、「行方も知らぬ我が思ひ」から連想された「かなわぬ思い」の形象化なのだろうか。
ところで、日本全国には「おらが富士」というお国自慢の座が340座もあるそうだが、そこにも西行伝承歌というのが数多く残されているという。
「富士見ずは富士とやいはん陸奥の岩木の岳をそれと眺めん」
和漢三才絵図
駿河の富士を見なければ、これが富士だ。陸奥の岩木山を富士と思って眺めよう。
西行伝承が全国に遍在しているということは、「おらが富士」に重ね合わせる西行への憧憬があったのである。
西行は比叡山東塔の無動寺に年の離れた知人の慈円を訪ねる。帰ろうとする翌早朝、大乗院の放出から眼下の琵琶湖を見渡して詠んだ歌が次の歌である。
53「にほてるや凪ぎたる朝に見渡せば漕ぎ行く跡の波だにもなし」
拾玉集・5106
風が凪いで朝日に輝く琵琶湖の水面を見渡すと、沙弥満誓が無常観を詠みあてた舟の姿はいうまでもなく、航跡に立った白波さえも消えてしまった。
「にほてる」とは、琵琶湖が「にほの海」(鳰の海)と呼ばれたところから来ている。
金任仲「西行の晩年」には次のように書いてあった。
「西行のこの一首は、詞書に「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」と言ったとあるように、生涯和歌に執した西行がすでに「和歌起請」という形で、歌を断っていた驚くべき事実と、その歌断ちをみずから破ってあえて生涯の結句という意識で「にほてるや」の歌を詠んだことを何気なく提示しているわけである。」
慈円は、和歌起請で歌を詠まないという禁を破った西行の思いに応えて、次のように詠んだ。
「ほのぼのと近江の湖をこぐ舟の後かたなき行く心かな」 拾玉集
ほのぼのと明けていく早朝の琵琶湖を眺めながら、湖面を漕ぐ舟の跡の白波さえもない安らかな境地に、今あなたが辿り着いているのが感じられます。
ところで、西行の「漕ぎ行く跡の波だにもなし」の歌は、有名な沙弥満誓の次の歌を本歌とする。
「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」 拾遺集・哀傷
そして、偉大な歌人の西行もいずれは「漕ぎ行く舟の跡の白波」となってしまう。無常であるからだ。無常とは変化を続けることであり、永遠に続く存在はあり得ないのだ。
だがしかし、西行の歌はずっと後の今でも詠まれ続ける。人の命は儚いが、芸術は人類が滅亡するまで存続するのである。
慈円と会ってから数ヶ月の後に西行は河内国引川寺に入る。
「訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて煙を立つる広川の里」 慈円歌集切
葛城の山麓に引川寺を訪ねてみると、美しい紅葉に埋もれて、寂しさを掻き立てるように煙だけが立ち上っている。(死に場所を探していた)私を暖かく迎え入れてくれそうな山里に感じられた。
「円位上人」(西行)から慈円に送られたと、詞書きにある。そして、この歌の直前には次の歌が載っている。
「麓まで唐紅に見ゆるかな盛り知らるる葛城の峰」 慈円歌集切
山麓の引川寺に至るまで満山見事な深紅に彩られている。葛城山はいま紅葉の真っ盛りと知られた。
「煙を立つる」とは、冬の山里を表現する常套的表現である。
「寂しさに煙絶たじとて柴折りくぶる冬の山里」 後拾遺集・冬・和泉式部
冬の山里はあまりに寂しいので、せめて煙だけでも絶やすまいと、柴を折っては竈に火をくべる。それでも寂しさはなかなか紛れない。
しかし、竈の煙は民衆の日常生活を象徴する物であるので、慈円から生活支援を受けていたことを証明するものだと指摘する人もいる。「我が第一の自嘆歌」であると慈円に語ったことがある、「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬ我が思ひかな」という歌はそのことを想起させるものもあった。
俊成は西行が引川寺で発病したと聞いて慌てて『宮河歌合』を送らせたということが、俊成の家集『長秋詠藻』には記載されている。西行は自らの行方を「煙」に喩えて、「火葬」を想起する気持ちだったのかも知れない。つまり、「引川の里」を終焉の地と見定めたとも言える。
「月の行く山に心を送り入れて闇なるあとの身をいかにせん」
新古今集・雑下・1781
月の入っていく西の山が西方浄土だと信じて、我が心までも一緒に送り込んでしまったら、月が隠れたあと闇の隠れたあと闇夜に残ってしまうこの我が身は、それこそどうしたらいいのか分からない。
仏教には、「月輪観」という修行法がある。自己の心を満月輪のようであると観じる密教の基礎的観法である。阿字観や本尊観などを修する際に必ず心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する修法である。西行は心と身を対立させて、月に耽溺する心あるいは風雅が、一身の救済に繋がるのかという切実な自問をしているのではないかとも思われるのだ。
「入り日射す山のあなたは知らねども心をかねて送りおきつる」
山家集中・雑・942
夕日に照り映える西山の彼方にあるという西方浄土がどんな世界かは知らないが、いずれは住むつもりでいるので、心を先に送り込んでおいた。
「山の端に隠れる月を詠むれば我も心の西に入るかな」
山家集中・雑・870
山の端に沈んで隠れる月を見続けていると、私の心も月も一緒に西に入り、西方浄土に入ったような心境になる。
仏教に憧れる心が清浄な世界に生まれ変わったとしても、「捨てて捨て得ぬ」我が身は、そして「花」への執着が絶てない我が身は「闇なるあと」に残るのではないか。それをどうするのか。そのことが西行には一番切実な問題ではなかったのか。
「うらうらと死なんずるなと思ひ解けば心のやがてさぞと答ふる」
山家集下・雑・1520
よくよく考えてみて、うらかかに死んでいくのが一番だ、と思い至るや、心がすぐさま、その通り、と打てば響くように答えてくれる。
山家集の巻末の百首に入るこの策は若い日の作であることが分かっている。「心」と「身」と「我」をひとつのものにしたいと願いつつ、出家をし、旅に出て、修行をし、歌を詠んだのだ。そして、「花」を挟んで仏と向かい合う死を浮かび上がらせたのが、例の「花のした」の歌である。
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