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名前を呼んで。

わたしの名前は、よく男性に間違えられる。

漢字一文字の【晶】で「あき」と読むが、「あきら」とか「しょう」と読まれることが圧倒的に多い。あと、漢字も何度【昌】と間違えられたことか分からない。

わたしの家族は皆、下の名前が漢字一文字で、わたしは歌人・与謝野晶子から字をもらってきたらしい。由来は、文学的な女の子になるように、とかそんな感じだった気がする。

学校で、新しく先生が変わるたびに名前を呼び間違えられるのが嫌で、苗字のタイミングですかさず「あき、です」と自分から名乗り出るのがクセになった。
漢字も、「よく間違えられるんですけどね(笑)」と相手を気遣いつつ訂正することに慣れた。

幼い子どもの頃は自分や他人の名前になんてさほど執着がないのに、大人になるにつれて、名前を覚えてもらえなかったり、間違えられたり、おざなりにされると、心が案外しっかりと傷つく。もちろん、相手に悪気がないのが大半であることは分かっているのだけど。

別に自分の名前が嫌いだとか、改名したいとは思ったことがないし、むしろ好きだと思う。でも、名前をきちんと呼んでもらえないと、急に自分というものの輪郭がぼやける感覚に陥るのだ。誰にも間違えられなくて、女の子らしい名前が羨ましいな、なんて未だに思ったりもする。

一方で、たとえば憧れている人に名前を覚えていてもらえたり、仲良くなった友達から親しみを込めて呼び捨てにされると、心が弾んでスキップしたい気持ちになる。大好きな人から大切に名前を呼んでもらえたときには、「きゃー!」と走り出したくなってしまうくらい、幸せな気持ちになる。

たかが名前に、わたしたち人間の感情はけっこう振り回される。

じゃあわたしたちにとって、名前って何なんだろう。なんで、名前で傷ついたり、うれしくなったりするんだろう。

それが知りたくて、何かヒントがほしくて、名前について悶々と考えていた時、ふと思い出したのはあのジブリ作品だった。

映画『千と千尋の神隠し』だ。幼い頃、映画館で3回観た。
主人公の千尋やハクは、湯屋という日本の神々が集まる世界で湯婆に本当の名前を奪われて、帰り道が分からなくなってしまった。その後自分の名前を思い出すことで自分たちの居場所に帰ることができた。
言うまでもないが、この作品において、【名前】はとても象徴的なものとして表されている。

ほんの少しだけスピリチュアルな話になるけれど、調べるなかで分かったのは、この『千と千尋の神隠し』における【名前】は、日本古来からある言霊文化に紐づいているということ。

日本には、古くから「言葉」に出すだけでそれが現実化すると信じる言霊文化が存在する。言葉には魂が宿っていると考えるからだ。
今でも、受験生の前では「落ちる」とか「すべる」という言葉を言わないように気を付けたり、うっかり物騒なことを口にしてしまって慌てたりする。ちゃんと今の日本にも言霊の文化が根付いている。

その文化において、【名前】はものの本質を表すものとされてきた。つまり人の名前は、その人の「存在」そのものだということだ。
千尋やハクのように、名前を奪われるというのは、自分の存在を奪われることであり、名前を思い出すというのは、自分の本質、自分そのものを取り返すという行為になる。

そうか、と納得した。
名前をてきとうに扱われたり、忘れられたりしてひどく悲しいのは、自分の存在そのものをいい加減に思われていると感じてしまうからなのかもしれない。自意識過剰かもしれないけど。

これに関連してもうひとつ。先日ライターのしおたん(塩谷舞)さんがツイートしていた、椎名林檎さんのエピソードも印象的だったことを思い出した。

いつか椎名林檎さんが、「林檎」は本名ではないから、ネガティブなことをSNSで書かれても「私」ではなく「仕事」のことを言われている……とおっしゃっていたことがあり、芸名や作家名は心を守るためにも大切な鎧となるのだなと思った。

引用元:塩谷舞(milieu編集長)(@ciotan) 

芸名、ペンネーム、SNSのアカウント名…
この世の中には、自分がもともと持っている名前と別に、名前を持つ人たちがたくさんいる。 今や芸能人に限らず、一般人であるわたしたちも、本名とは別に何かしらの名前を持っている人が多い。

しおたんさんの言うように、本当の名前と別に名前を持つ=鎧を着ることは、心が直接傷つけられるのを防ぐ手段になる。本当の名前は自分という存在そのものだから、わたしたちは傷つきたくなくて、自分自身を守ることに必死なのかもしれない。

でもその一方で、名前を呼ばれてうれしくなるのは、自分自身の存在そのものを肯定してもらえていると感じるからなんだと思う。
親からもらった「晶」という名前を大切に呼んでもらえたとき、わたしはここにいていいんだな、あなたに受け入れてもらえてるんだな、と心から安心するのは、きっとそういうことなんだ。

わたしも、大切な人たちの名前を、きちんと大切に呼びたいな、と思った。たかが名前だけど、それは一人ひとりが生まれてからこの世界に存在してきた証で、名前を大切にすることは、その人自身を大切にすることだから。

さいごに蛇足。こんなことを言っておきながら、困ったことにわたしは恋人の名前をいつも呼べなくなる。
友達から恋人になったとき、「なんて呼び合おうか」なんてくすぐったい会話をしていたくせに、最終的に気恥ずかしさから、皆「きみ」とか「ねえ」とかに落ち着いてしまうことばかりだった。

友だちも親しければ親しいほど、変なあだ名をつけて呼んでみたり、照れくさくて名字で済ませてるうちに、下の名前をど忘れしてしまったりする。あかん。一番ひどいのはわたしかもしれない。もちろん、たっぷりの親しみを込めているつもりではあるのだけど。

今度こそ、ちゃんとたくさんの愛をもって大好きな人たちの名前を呼ぼう。
もしわたしが明日から急になれなれしく名前を呼んだとしても、みんないつもの笑顔で笑ってくれるといいな。

(おしまい)

#エッセイ #コラム #日記 #名前

Illustration:@ameno_yofuke(Instagram)

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