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ヌーソロジーと重心と重力と光と言語

重心、重力、重力場、量子重力、言語、光……。


なぜこの記事を書こうと思ったのか

9月に入ってから謎のスイッチが入ってヌーソロジーのnote記事を毎日のように投稿してきましたが、もう満足(自己満足)かと思った矢先、有名ゲームディレクターの桜井さんの最新動画が目に入ってしまいました。

そこには「重心をズラす」というワードが。ヌーソロジーにおいては、重心は「神」の定義でもあります。

「変換の中点」という言い方もされます。

単純に、「中点」というとヌースコンストラクションの中心、自己と他者の中間点、というような感じもします。

言語と重力

「重心」というキーワードを目にして、記事を書くことにした――スピリチュアルで言われるような「シンクロニシティ」ということに近いのかもしれません。
「ただの偶然だろ」「ただの自意識過剰だろ」というような声が聞こえてきそうですが、言語を侮ってはいけないということは半田さんも言われています。

言語を構成している場の力――重力とは、その精神の力だということが言われています。
そしてそれは、AI技術、今話題の人工知能ということにも密接につながっている、と考えられています。
件の動画を私に見せてきた「Youtubeの動画おすすめ機能」というのもまさにAI技術によるものです。

「シンクロしている――!」とか「思考が盗聴されている――!」とか、スピリチュアルや陰謀論的に高揚したり興奮したりする人もいるかもしれませんが、私はそういった状態はある程度卒業してきたつもりです。

話を戻すと、言語というものは重力と関係しているというところを、もう少し深く見ていきたいと思います。

しかし、本質は全く逆で、内包空間の連なりを作り上げて行った意識が、延長空間をも内包の中に統合することによって、そこに言葉の力を作り出し、結果として、その言葉の力が延長だけの世界から見ると重力として出現している。そんなイメージだ。

https://x.com/kohsen/status/1832209330629980206

な。

言語の本質は重力にある。ホログラフィック原理。

重心と光

神の定義とされている「重心」(変換の中点)は、人間の肉体のことだと言われています。
ただし、次のような観点で「人間の肉体」と言われています。

つまり、肉体とは意識を物の外部(延長)から物の内部へと変換する蝶番となるような位置に構成されている組織で、この位置のことを「重心」と呼んでいるわけだ。

物の外部性を外としての時空で、物の内部性を内包としての複素空間と考えると、肉体はこれら両者の境界に構成されているものということになる。

https://x.com/kohsen/status/1769544143951503494

また、この重心は電磁場やガンマー線といったことにつながっていることが述べられています。
「光子からクォークが生まれ出てくる場所」であるとも述べられていて、まさに「神」ということに相応しいとも思えます。

電磁場や光と言ったら、もちろん「マカバ」ですよね。

いま、ヌーソロジー界隈でホットな話題である「ド・ジッター空間(dS)」や「反ド・ジッター空間(AdS)」。
画像を見ると「ブラックホール」という文字列が見えます。ドジってブラックホールに落ちるってことでしょうか。

重力と光

重力と光はウラとオモテのような関係。

重心は神の定義と言うけれど、重力ならば偽りの神……。

『重力と恩寵』。

重力に対する光の働きの意味。

三位一体

父、子、聖霊は第三、第一、第二の時間の綜合に対応していることが示唆されています。
これは重力、言語、光(重心)というような対応関係があるような気がします。

「ある」「いる」「なる」ということにも対応していそうです。
ハイデガー哲学の用語でいうと「存在者」「現存在」「存在」となります。
先述の「父」というのは厳密には「ある」でなく「あらしめる」というような対応になるかと思います。

ラカン

ラカンの精神分析だと「象徴界」「想像界」「現実界」と言うらしいです。

ラカン?の図。ObjectとImage。Imageが自己と他者の中点に位置するなら、大きさ(長さ)はObjectの半分になっている……という幾何学的な事実は、自己と他者あるいは自我と他我の思考のためのヒントになるような気がしています。

向かい合う自他の視野空間。向かい合わずに直交して見ている第三者的な目線というのは「自己と他者」の「他者」とはまた別物になると思います。思形的な、大文字の他者であり、一者としての偽神ということになります。「あらしめる」というものです。

私たちは何に喋らされているのか。
私はなぜ、この記事を書いているのか。
それは「重心」という言葉を見てしまったという現実
あるいは、ネットで誰か(第三者)が見てくれるかもしれないという期待。

見られることが重要なのだろうか?
いや、意識しようがしまいが、私たちは現実において、見られています。
しかしながら、インターネットもまた現実と捉えてしまうのは、人間の内面の、さらに深い、暗黒が待ち構えているのかもしれません。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

漫画・アニメの『メイドインアビス』の「アビス」というのも、「深淵」という意味があります。
(あっ、最新話が更新されている!この記事を書いていたおかげで気づけた!)

ヌーソロジーを探求していくのは、メイドインアビスで探窟家がアビスの大穴に潜るのに似ているような気がします。
そんな感じで、漫画やアニメというのもヌーソロジーを探求するときの心の支えになっています。

物語の力、とでも言うのでしょうか。これもまた、ある意味「言語」ということなのだと思います。

そうして私もまた、物語のように能動的な言葉になっていくのではないかと思うのです。

メイドインアビスの作中でも、意味深に「魂」というキーワードが登場します。
ヌーソロジーでいうと、魂というのは表象、現実の内容を含んでいるような感じがあります。
言葉、言語というのは、そういった現実、付帯質の観察のために用いられています。ヌースコンストラクションでいうところのU(1)というものに対応していると思います。

そういった反映側ではなくて、中心の、透明な側、すなわち霊へと羽化していくこと――それがヌーソロジーの意味なのだと思います。
反映側が悪いとかそういうことではなくて、フェルミオンとボソンのように互いに必要な要素ということではないでしょうか。

最近、自分の内からヌースエネルギーが溢れてくるのを感じています。
反重力的な、透明な、精妙な「それ」は、もしかすると言語主体のヌーソロジー活動を終わらせてしまうような気がしています。
ヌーソロジー活動を終わるわけではなく、スタイルを変えていくということになると思います。あるいは活動をまた休止するのもアリです。

そんな感じで、私のnoosな物語はつづく――。(たぶん。)

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