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御言葉の黙想 イザヤ書40章26節ー27節 2024年7月7日

本文:
あなたがたの目を高く上げ/誰がこれらを創造したかを見よ。/万象を数えて導き出される方は/すべてを名前で呼ばれる。/その大いなる強さと力から/逃れうる者は誰一人ない。
ヤコブよ、なぜ言うのか。/イスラエルよ、なぜ語るのか。/「私の道は主から隠されており/私の訴えは私の神に見過ごされている」と。

黙想:
イザヤ書は40章から救いと回復の預言に変わる(第二イザヤ)。しかし、救いは裁きを伴う。
主はキュロス2世を道具としてバビロンを裁く(45,1.エレミヤ書50,3)。かつて裁きの道具として用いられたバビロン(新バビロニア帝国)は、その傲慢さゆえに裁きを免れない(エレミヤ書50,31)。
権力者たちの誇る権力は、主の御前では無に等しい(40,23)。彼らが頼る偶像は人が作ったまがい物である(40,19)。彼らの頼る知識は彼らを災いから救えない(45,16.47,10)。
イスラエルは言う。「私の道は主から隠されており、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。しかし、主の思いは人間の思いと同じではない(55,9)。すべてを定められるのは主である(40,27)。主の御前で誰も誇ることはできない。こうして万物は主の御前で跪く(フィリピの信徒への手紙2,10,11)。万物は、ただひとえに主の栄光を現すためにある。すべては神の御手の中にある(48,11)。
こうして、主によって新しい歴史が創造される(48,7)。傲慢な者は創造者の前で沈黙させられる(45,9)。そして、イスラエルは主によって永遠に救われる(45,17)。

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