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ATSUの人生。どんなやつ?〜前編〜


自分史を書く理由

まずは己を知るところから始める。
と同時に、いったい私がどんな人間なのか。を紹介するために、
私の歴史にせまりたいと思います。

=====誕生〜幼少期======

『とにかく甘えん坊』

生後3ヶ月

1985年2月12日に愛知県で誕生。父は在日韓国人(大学になるまで知らない)、母は日本人。
2つ上の姉がいまして、姉はチャキチャキではっきりしっかりしている人。一方の僕はといえば、とにかく甘えん坊でずっと泣いているママっ子だったそう。
どんな時も母から離れずついてまわっていて、
口癖は「ママ〜、ママ〜」ですw
この時期の記憶はあまりないですが、結構印象に残っているのは、幼稚園の校長先生が言っていた言葉。毎朝?とか定期的にみんなで唱和していた記憶が。
その言葉は、

「内緒話は氣が悪い!」

です。

「氣が悪い」とかいう幼稚園ってあります!?今思うと凄いなって思いますね。どんな幼稚園だよ!って。
ただ、この幼稚園ですごく素敵なマインドを学んだんだと思います。
今でも内緒話や裏でコソコソみたいなことは大嫌いです。

====幼少期〜小学校4年生===

『何でもやりたがる好奇心旺盛少年』

そんな僕は、幼少期の頃から頭角を表します。
年少〜年長の時にくもん塾に行ったり、体操を習わせてもらったり。
突然、野球をやりたい!と言って、地域のクラブチームに通わせてもらったり。かなりの好奇心旺盛さを発揮します。
具体的なエピソードがいくつかあります。
【エピソード1:野球】
野球については、野球のルールを全く知らないくせに「やりたい!」といって地域のクラブチームに飛び込みました。
これが今思うと本当に酷いもので、ホームベースからどちらに走るのかも知らなかったんですよ。
恐らく意味がわからないと思うのですが、これが本気と書いてマジでして。
野球のグランドによってホームベースの位置が変わると思うんですが、毎回ホームベースの位置が変わるせいで、どっちに走るかわからなかったんです。
これも意味わからないかもしれないですが、とにかく右に走るのか左に走るのかが自分の中では選択制だったのです。
なので、毎回周りの人に今日はどっちに走るの?って聞いてた記憶があります。
ルールを知っている人からしたら、え!?ホームベースから右側に走ればいいじゃん!って言うと思うのですが、当時の僕は本当にわからなかったんです。w
今考えると何でやりたい!って言ったのかも不明です。無鉄砲にもほどがある。
結局野球については、ルールがわからなさすぎて(覚える気もない)辞めてしまいました。

野球のユニフォームにテンション上がっている様子


【エピソード2:スパルタ塾】
自分が小学校1年生、姉が小学3年生の時です。
姉が塾に行くと言っていて、その時はなぜか「お姉ちゃんだけズルい!」と思った私は、母に「僕も行きたい〜」と懇願し、姉と同じ塾に行かせてもらうことになりました。
ところがです。
この行きたいと言った塾が現代では考えられない相当なスパルタ塾でして、、、
出来が悪いと廊下に正座させられたり、立たされたりします。
最初は机に座った状態からスタートします。
それで、例えば、漢字の練習であれば、15分と時間が決められ、ひたすらノートに漢字を書いていきます。
15分経ったら先生に見せに行き、出来が悪いと次は廊下に正座。
また15分後にノートを見せに行き、また出来が悪いと、今度は立ってノートを書きます。
出来が良いとこの逆で、正座から机に座ることができます。もはや机に座っている人はエリートです。
この「出来が悪い」というのが、塾長の独断の判断。フィードバックをもらえないので、何がいけないのも不明。ただただ苦痛な時間でした。
極め付けはハンカチを見せない(持っていない)とトイレ行かせてもらえない制度になっていたりで、、
その制度のおかげで、ハンカチを忘れた私は我慢できず、おしっこを漏らしたこともあります。
結局、お漏らしきっかけで2年間行っていた塾はやめました。

『才能の発見』

そんなスパルタ塾を辞めた僕は、ヌルい(いや、むしろ普通)塾に行くことになりました。
今までのスパルタ塾とは違い、ここの塾の先生は非常に優しくマイルドでした。
相性がよかったのか、心理的安全性が高かったのか、めきめきと実力を伸ばしていきます。
特に数学の才能が開花した僕は、2年生の時に4年生の勉強をやっていて、常に2学年上の勉強をしていました。
当時、周りは凄い!凄い!って言ってたけど、自分としては結構楽しくてやっていた記憶があります。
今でも数字は得意だし、人よりも早く頭の中で計算ができてしまうことは多いです。
なんとなく数字のクセみたいのを感覚的に掴んでいる気がします。
この頃、母が中学校受験する!みたいなスイッチが入っていて、中学校受験を目指すことになっていました。
(これは後に祖母が母に「本当にあんたはバカだね」と言われていた投影ということがわかる。)

『いじめの経験する』

小学校3年生の時にいじめにあっていました。何が原因なのか、どうやっていじめらていたのかも記憶があいまいですが。
いじめを受けた後に、いじめていた奴をいじめ返していた記憶もあります。
これが要因なのか、今でも1人に対して2人以上が必要以上に批判していたり、陰口していたりすると非常に不快感を持ちます。

===小学校4年〜6年生=====

『転校先のクラスのハブとなる』

小学校4年生の時、家が手狭になってきたのもあり、引っ越すことになりました。
新しい小学校での生活。めちゃくちゃ嫌だったけどしょうがない。
当時の苗字から付けられたあだ名は「オッサン」。
慣れない環境ながら、馴染もうと頑張っていたような気がします。
そんな転校生活から数ヶ月経ったある日、転校先の担任に母親が呼び出しされます。「ちょっと話したいことがありまして。。」
何事か!と驚いて母親が行ったところ、
担任の先生から
「実は、a2yaさんが転校してくる前はクラスがバラバラだったんです。」
「けど、a2yaさんが転校してきたあと、バラバラだったクラスがまとまり出して、本当に感謝しています。それをどうしても伝えたくてお呼び出ししました。」
とのこと、問題でもあったかと思っていた母親は違う意味でビックリだったそうです。
その内容を伝えられた当人はというと、全く意識していないので、「へ〜そうなんだ」って感じ。
クラス全体をまとめようなどとは1mmも思っていないし、なぜクラスがまとまったのかも不明です。
おそらくですが、前の小学校でいじめられたことと、幼稚園での「内緒話は氣が悪い」という、誰かをハブったりするのが嫌いだからかもしれません。
あとは、転校した際の、あだ名が「オッサン」でややイジられ気味でしたが、全然嫌な気もしなかったので、呼んでもらっていたら、結構みんな親しみをもって呼んでくれていた気がします。
基本的にみんなが笑顔でいる世界観が好きで、無意識でそのように働きかけていたと思います。

『チャレンジャー発動』

【エピソード1:小学校で凧揚げ大会が開催された時のこと。】
クラス10グループぐらいに分かれ、それぞれ好きな凧を作成し、どのグループが一番高く上げれるのか。という大会があった時のこと。
他のグループは一般的な凧の形をした凧を作る中、自分は「他と違う形の凧を作成したい」「常識に囚われたくない」と考え、飛行機型の凧を作成。
周りからは「そんなもので本当に飛ぶの?」と、やいのやいの言われましたが、やってみないとわからない精神でチャレンジ!
結局他の凧と比べてもめちゃめちゃ高く飛んでいて、周りからも「スゲー」と言われて、やったった感満載だった記憶があります。

河川敷での凧揚げ


【エピソード2:学校内での発表会】
学校のクラスでそれぞれがグループになって、企画を出し合い、発表するイベントがあった時の話。
当時、僕はラジコンが大好きだったため、どうしてもラジコン走らせるイベントをやりたかった。けど、学校にラジコンを持ってくるなんてその時の常識から考えたら、あまりあり得なかった。
んで、周りの友達に「ラジコン持ってきて走らせるのとかどう?」って相談したら、「えーそんなん大丈夫?」とか言いながら友達もワクワク楽しそう。
どうしてもやりたい+友達もワクワクしているのでスイッチが入った僕は勇気を持って先生に相談。走らせるのはイベントの時だけ。という条件付きでOKでした。
こん時から何か今までにないものをやる。突破していく。みたいなのが好きだったように思います。

ラジコン発表会の様子

『両親の離婚』

ある日のこと、父親がお風呂から出ると、突然母親に対してキレだします。
父親:『なんでラーメン作ってないんだ!?』(もう既にブチギレ)
   どうもお風呂上がりにラーメンを食べたかったらしい。
母親:『いつ出るかわからないし、出てから作ろうと思ってたんだわ』
   (まぁ母も気が強いので、逆ギレ)
父親:『風呂上がりに食べるって言ってただろ!!』
   (もうスイッチ入っていて、議論とかではなくなっている)
そんな口論が何回か続きますが、一度キレた父はもう誰にも止められない。
父親が母親の胸ぐらを掴み、『ふざけるな!!』的なノリで暴力が始まります。
また、母もこれに動じないので、『やれるもんならやってみろ!』みたいな感じで喧嘩が始まります。
父親:『コノやろー!』
母親:『ちょっとやめてよ!子供達もいるから!』
時々、母親の悲鳴的なものが聞こえてきたり。。。
そんな喧嘩が時々あって、酷い時には父親はビール瓶を持ち出して先端を割って、
父親:『これで刺したろうか!?」
みたいなことがあったり、ここでも母は気が強いもんだから、
母親:『やれるもんならやってみろ!』
みたいなやりとりがあったり。
もう罵声が鳴り響くし、母親は服ビリビリだし、父親が投げたライターが飛んできて自分に当たるわで、、、
もう小学校4年生の僕からしたら、大の大人がブチ切れるだけでも怖いのに、母親に対して暴力ふるっている姿なんて、恐怖でしかなくて。
ただただ恐怖に怯えていていました。
そんなある日、僕が母親に対して、
僕 :『もう、嫌だ。おばぁちゃん家に行こう。』と心の底から出てしまった時がありました。
その僕の一言で、母親はずっと子供のためと、父親からの暴力を我慢してきそうですが、「我慢しなくていいんだ」って思ったみたいで、離婚を決意します。
後日談ですが、母親に当時のことを聞いたら、父親の暴力は結婚してからすぐにあったそうで、ずっと我慢してきたそうです。
僕自身も思い出したくないのか、記憶が断片的にしかなく、そんな頻度で喧嘩していたのは記憶していません。
また、最近になって、姉に当時の僕はどんな感じだった。って聞いたら、
「あんた(僕)は、お姉ちゃんが引くぐらいビビり散らかしていて、仏壇に向かって手を合わせて、早く喧嘩が終わりますようにって、ずっと祈ってたよ」って言ってました。
何か、これ書きながら、当時の記憶や情景が思い出されて、
現在の自分から過去の自分に対して「そりゃ怖かったよね」って気持ちを持ちながらスゲー涙が出てきました。ずっとわかっていたけど、やっぱ怖かったんだな。って。
きっと本当はあまり思い出したくなかった記憶です。

『おじいちゃんおばぁちゃんとの暮らし』

そんなことで、離婚したので母は仕事に行かなければならず、おじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らすことになりました。
子供からしたら祖父母の家ってメチャ甘やかしてもらえるからオアシスだと思うのですが、引っ越すことに関してはあまり抵抗はありませんでした。
割と近くに住んでいたため、僕は小学校を転校することなく、送り迎えをしてもらって通っていたそうです。
(この辺りも思い出したくないのか、なぜかほとんど記憶がない。)

『中学受験』

小学校1年生から通っていたスパルタ塾から、ゆるい塾に変わった僕でしたが、その塾の先生にトラブル(不倫?)があったそうで、また塾が変わることになりました。
これが小学校4年生ごろだったと思うので離婚と近い時期だったと思います。
変わった塾がまたスパルタでw
この時代はスパルタ塾しかないんか!?と思うぐらい頻度高めですね。
この塾は、塾長が「熊」って呼ばれていて体もでかく熊っぽくて怖い。
何がスパルタかというと、この塾は「ケツバット」でした。
ガキの使いで出てくるあれです。「ババーン!◯◯アウト!」のあれです。
ガキの使いはまだ柔らかいやつなので、おしりに優しいですが、この塾はでかいしゃもじみたいなやつでした。
塾長に、前に出てこいと言われ、生徒が列をなして、順番にケツバット!
宿題を忘れるとケツバット!正解できないとケツバット!ことあるごとにケツバット!
ひどい時には生ケツバットというのもあって、自らズボンをおろして(大事な所は見えないように)、ケツバット!
こん時、塾長は、「女子は目を瞑っておけ。」って。
そこは配慮があるのね。ってか女子はないんかい!って思ってました。
結構おしりがあざだらけになってたりして、
ある日、塾に新任の若い先生が来て、その先生と話している流れで、おしりを見せた時に先生がドン引きしていたのを記憶しています。
ケツバットトークが長くなってしまいましたが、6年生の頃には、学校行く前に塾に行って勉強。学校終わったら塾に行く。みたいな生活を繰り返していました。
第一志望校があったのですが、そこは学力的に厳しそうで、第二志望校も2つ選択肢があったのですが、A校は学力的には結構厳しい。B校なら行けそうな感じ。(A校とB校が受験日が一緒なんです。)
塾や親はB校を薦めてきましたが、僕は「A校じゃなかったら行かない!A校受験する。」って言ってA校を受験することにします。こん時A校しか行きたくなくて、プライドというかこだわりというか。
結局1次試験は落ちてしまって、2次試験の狭き門に何とか滑り込みで合格します!その時は、家で寝てて、おばぁちゃんがA校からの電話に出て、急いで僕のところにきて、「あっちゃん!A校合格だって!」って言ってきたのをめちゃ覚えています。本当に嬉しかった。どちらかとやっと終わった感が強かったですね。

こんなんが塾に貼りまくってあった

=======中学生=======

『硬式テニス部設立』

無事、希望の中学校に入学できた私は、何か部活動を始めたいなと思っていました。
ずっと硬式テニスに憧れを持っていてやりたいなと思いましたが、入学した中学校には硬式テニス部がない。
軟式はあったんですが、ちょっと弱い感じがしてやっぱ男は硬式だろ!と。
(軟式やってる方すいません。あくまで個人の感想です。)
僕が入った中学校は、中高一貫校で、高校には硬式テニス部がありました。
そこで、担任にお願いして硬式テニス部できないですかね。と話をして、何度が高校の硬式テニス部の先生とやりとりをして、高校のテニスコートを使わせてもらえることになりました。
体の小さな中学生が、体の大きな高校生がたくさんいるグランドへ行くのも結構勇気いりましたが、、。
そんなこんなで設立=キャプテンとなりテニス部に所属していました。
結構やりたい!と思ったらやらずにおられず、どうしたら出来るのか思考が強いですね。

『軟弱ロックな中学生』

中学に慣れてくると、思春期真っ只中。カッコつけたい!モテたい!ロック=カッコイイ精神がいい感じに芽生えてきます。
特に男子校だったのでそれが強かったのかもしれませんが、
今日は決めていくぜ!的なノリでジェルで髪をバキバキに固めて登校し、速攻担任に見つかって怒られて、すぐに水で流すように指導されたり。
授業中も、担任に何度もビンタされたり。チョーク投げられたり、廊下に出されたり。
もはや、僕が怒られることがクラスの中でネタ化してきていて、それを楽しんでいたりしました。(結構周りから笑われたりするのが好きだったりします。)
学校のルールなんかクソくらえ!担任の何が偉いの?みたいな、スタンス。学校の先生からしたらかなり面倒な奴だったと思います。
小学校の受験勉強という抑圧からの解放なのか、本来の自分なのか。。。
当時は、ギャルブームだったのでサーフィンやりもしないのに坊主にしたり、海行って海入らず日焼けしたり(いわゆる陸サーファー)、頭にタオルを巻いて通学したり、ネックレスしだしたり、とにかくイキリ散らかしてた中学生でした。姉もこの時代はギャルだったので、姉の影響もかなり強く受けています。
ちょっと背伸びして繁華街へ出かけたら、そんな感じで目につくもんだからケンカ売られたりするけど、「そういうのはちょっと。。」って感じでヒィエー!ってビビってしまうクソダサいイキリんです。
(だって父親が怒って暴力するのが怖いんですから、ケンカ反対です!w)

『また引越し』

中学1年生の頃に、突如、祖父母の家から引っ越すことになりました。
比較的近くの場所に引越し。祖父母は祖母が美容院を経営していて、バブル時代に儲かったのか結構家はデカかったです。
けど、引っ越した家は狭くなるし、なぜ引っ越すのか不明でした。
最近になって母に聞いたら、祖父母は借金にまみれて(チョコまみれ的な)いたそうで、母は何とか子供2人を私立中学校に通わせながら、祖父母の借金の面倒も見ていたそうですが、さすがに限界が来たそうで、祖父母に「お願いだから、この家を売って!」と頼み込んで何とか売る運びになったそうです。
大人になった私からすると、私立中学2人通わせるのでもかなりの稼ぎが必要なのに、祖父母の借金まで面倒みるなんて想像を絶します。
今思えば、こん時の母親は朝から晩まで働いていて、本当にガリガリに痩せていて、中学生だったので気づいていなかったですが、しんどい思いをしていたんだと思います。

=======高校生=======

『オタクとの交流』

進学校だったので真面目な子やおとなしい子がたくさんいました。スゲー変わった奴とかもたくさんいて、いわゆるオタクみたいな子もいました。
僕の後ろの席の岡田くんはまさにそうで、岡田くんは本当に変わってて、ずっと下ネタを言ってる奴。最初はキモいな、ウザいな。って思ってたし、結構周りから変な目で見られてて避けられたりしてた気がする。
そんな本当に変な奴。
あんまり話してなかったんだけど、ちょうどこの頃にMD(わからない世代もいると思うので下図参照)が出始めていて、僕も姉の影響で買ってもらって録音したりして楽しんでいた。
けど値段も高いし、まだまだMD持ってたりする人も少ない中、なんと、岡田くんは既に導入していた。
「おぉ!MD持ってんじゃん!」ってMDきっかけで話すようになったら、もうそれはそれは、岡田くんのMDとかPCとかの知識の量が凄くて、話を聞くのが結構楽しくなってしまい。
こん時にオタクってスゲー。こんなに一つのことにハマれる人ってかっこいいな。って思った。
そこからよく話すようになり、謎にMD大量に買ってきてくれたりするし、めちゃいい奴やん!ってなりました。
オタクって一見変だけど、変が故に深掘ると面白いもんがたくさん出てくるし、そこが凄い魅力的だったし、何でみんなもっと理解してあげないんだろうって疑問も生まれた気がする。オタクって最高だなって思った経験です。

当時出始めた音楽再生プレーヤー(MD=ミニディスク)

『スケボー大会』

僕は高校1年生の終わり頃から、ストリート系のファッションや音楽もB系(ブラックミュージック)やジャパニーズヒップホップなどに興味を持ち始めます。
おしゃれもしたいお年頃なので、その流れで、家の近くにサーフィンやスノボなどの横ノリのショップがあり、そこへ通い始めます。
最初は服をそこで買っていたんですが、スノボもスケボも置いてあるもんだから、興味を持たないはずがなく、ある日バイトでお金を貯めてスケボーを買いました。
そこから、一人でDVD見たりしながら家の前で練習をしていましたが、なかなか上手くなれず。
そんなこんなで一人でコツコツと練習していたら、友達がスケボーやりたいと言い出し、じぁってことでショップを紹介してスケボー買って、一緒に練習していました。
そしたら、またもう一人の友達もやりたいと言い出し、ショップ紹介し、購入し、一緒に練習して。
そんなんが続き結局、多い時には10人ぐらいが集まるようになっていて。
公園行って朝練したり、最後の方はスケボーとか関係なくなってたりしてました。
僕の家はおばぁちゃんしかいなくて、基本的に何も言わないし、昔美容院やってて客商売だったからウェルカムな人だったので、みんなも気を遣わなかっただろうな。
そんな環境もあいまって、家の前でワイワイと毎日スケボーの練習をしたりしていました。
結構、自分発信で気づいたら多くの人が集まっていた。みたいなことがよくある気がします。
けど、今になって考えると、高校生が大勢スケボーしてるとか迷惑極まりないですね。その状況を遠くで見つけたら避けること間違いなしです。
本当にいろんな人に迷惑を掛けていますね。

『大学受験失敗』

そんな青い春な高校生活も後半になってくるとみんな受験がチラつき始めます。
というか進学校なので、周りの多くはずっとチラついてる、というかガン見して頑張ってるんですけど。
僕は中学受験の反動がずっと続いていて中学・高校と全然勉強していなかったんです。
基本的には、中高一貫で系列大学もあるので担任には、「大学は、おまえは推薦な。」って言われていたんですが、ここも謎にロック魂が目覚めて、レールに敷かれた人生は嫌だ!と推薦を断り受験を決意します。
ここが僕のポンコツなところなんですが、行きたい大学があるから受験する。のではなくて、今のままが嫌だから受験する。という本末転倒な感じです。
受験するからって塾へ行ったりもするんですが、塾に行ってもろくに授業も受けずに友達と駄弁ってばかり。
勉強もろくにしていないし、特に行きたい大学があるわけでもない。
何となくどこの大学がいいかなと調べたりするのですが、そもそも自分のやりたいことすらない。
結局、周りとは違う何となく良さそうな大学を4つぐらい受験しました。
しかし、どれも不合格!
というか試験を受けているの時点で「何これ?全くわからない。。」
状態がずっと続いていたのでわかっていた結果ですが。
母親も呆れたのか、「大学行けないなら働きなさいね」って。そりゃそうだ。
完全に追い込まれた僕、いや追い込んだのは自分か。
結局、なんだかんだ言いながら、小学校の時に2番目に行っていた進学塾の先生に相談に行き、どこの大学がいいですかね。って聞いて、新たに出来る学部があるからそこがいいのではないか。と教えていただき、そこから後期試験、その大学のみ受験することにしました。
そこの塾の先生には、塾の空いている部屋を勉強する場所として貸してして頂いたり、わからないところがあったら質問させてもらったり、2ヶ月間大変お世話になりました。
実際の受験の際は、正直あまり手応えはなく、試験後はもうどうにでもなれ!って感じでやさぐれていましたが、何とか合格発表を頂き、はれて大学生となることができました。
いきなり受験したいって言って塾へ行き、たいして勉強もせずに大学の受験費ばかりかかり、ただただお金だけ浪費されていく。
今振り返ってもなかなかクズっぷりで自分でも引きます。本当に親に迷惑を掛けっぱなしです。

=======大学生=======

『1年の取得単位9!!』

何とか大学には合格し、大学に行き始めたのはいいですが、中高一貫でずっと同じ友達と一緒ということもあり、久しぶりの新たな環境です。
どうやって友達作るんだっけ?とか思いつつ、入学式でトイレで一緒になった人に声をかけたり、声をかけたりたりで3人ぐらいと仲良くなりました。
学校は自宅から電車で1時間半のところ。最初の方は行っていたんですが、友達も少ないし、遠いし、大学って思っていた以上にそんな面白くもない。
遠さも相まって次第に学校に行かなくなりました。
高校の時からずっとラーメン屋でアルバイトしていたのですが、バイトしている方がずっと楽しいし、お金もらえるし。
結局、昼間はバイトして、夜からは中高の友達と遊ぶというのを延々繰り返していました。
夜中にみんなで車に乗って、河川敷を走ったり、ファミレスで馬鹿話したり、いつも高校の近くの霊園の公園に集まって駄弁ったりしていました。
気が向いた頃には、大学に行くのですが、久々に授業に出ると、最初の出欠取る際、先生に「a2yaさんはもう出席足りませんよ」って言われて、、。
じゃ受けても意味ないと。そのまま帰ったりしてました。
あっという間に1年が過ぎ、大学1年生の単位は「前期3の後期6=9単位」という衝撃的な結果となりました。

『働くという面白さ』

そんな私ですが、仕事は比較的真面目にやっておりまして。
ゴルフの打ちっぱなしやキャディー、生鮮市場の運搬手伝いや家庭教師、ラーメン屋などやりました。
そんな中でもラーメン屋は高校1年生の時からやっていて、大学に行かずに働いていたので結構評価されたりしていました。
最初はホールから始めたのですが、徐々に飽きてきたので、店長にお願いしてラーメンの盛り付け教えてもらったり、まかないついでにチャーハンの作り方教えてもらったり、仕込みの手伝いなどしていたら1年ほどしていつの間にが全部のメニュー作れるようになっていました。
徐々に信頼も得てきた私は、ホールではなくてキッチンも任せてもらうようになって、基本はホールだけどランチのクソ忙しい時間はどっちもやる。
夜の比較的暇な時間は、私がキッチンをやっていたりしていました。(店長はどっかいってるw)
こうやって色々と経験を重ねていくと、社内の人からも「助かるわ。ありがとう」って言われるし、お客さんからも「美味しかったよ。ありがとう。」って言われたりする機会も増えてきて。
①「ありがとう」って言われると嬉しいから、もっと頑張る。
②もっと頑張るともっと「ありがとう」って言われる。
③結果自分のできることが増えて成長してる。
このサイクルに入っていって、仕事の面白さってこういうことなんだな。ってそん時気づいて。自分の中ですごく腹落ちしました。
そりゃ何の目的もない大学に行かなくなるわな。

『頼りにされる』

大学2年生になって、さすがの私も単位の少なさに危機感を覚えていて、気を取り直して学校に行くことにします。
1年生の時に全然学校に行っていないもんだから、あんま友達もいない。
けど授業を受けるたびに顔も馴染んできて、徐々に友達もでき始めてきます。
もう単位を落とせないもんだから、授業も一番前で聞いていました。
私が行っていた学部は、結構不真面目というかスポーツ推薦とかできた人が多くて、決して頭がいい(ここで言っているのは知識があったり、真面目に授業を受ける)人が少なかったです。
それもあって、先生からは気に入られ、やたらと当てられるようになるし、
自分も悪い気はしないから真面目にやっていましたね。そしたら授業も「なるほど!面白い!」みたいなことが増えてきて。
情報システム系の授業に関しては、真面目に授業受けていたら結構簡単にできるようになって、周りからいつも聞かれるようになっていました。
いつの間にか、わからないことがあったらa2yaに聞こう!的なノリになっていました。何事も真面目に取り組むのは大切なことですね。

『卒業危うし!!』

割と大学もしっかりと行き出して、イージーモードになってきていた大学3年生の時。衝撃的な事実が発覚します。
それは、1年生をサボり過ぎた結果、3年生で全部の単位を取得しても卒業単位が足りない!ということです。
もうね、これ知った時、顔面真っ青です。
誰か早く言ってよー!ってなってました。親にマジどう説明しよう。とか。頭ぐるぐる。
悩みに悩んだ結果、教授やキャリア相談室など、「どうにかならないのか?」とにかく周りに相談しまくりました。
すると、一筋の光が。
キャリアセンターの人が、
「企業インターンシップを受けると単位が追加でもらえますよ。」と。
今でこそインターンシップって当たり前ですが、当時は相当意識高い学生しか受けていかなったと思います。
もうこれは行くしかない!ということで当時、車に興味があったので、履歴書とか選考とか受けてトヨタ系のディーラーへ行くことへ。
結局、3年と4年は1限から7限(朝9時〜夜9時)まで授業を受け、企業インターンシップを受けて、本当にギリのギリ卒業することができました。

『えっ!?日本人じゃないの?』

大学の3年生の時の話。
突然姉から話したいことがあるって呼び出されて、瞬時になんか特別なことだって察知しました。
姉「苗字を変えようと思ってるんだけどどう思う?」
なるほど。そういう話かと納得。
私「別にいいよ」
小学校の4年生の時に離婚しているんですが、苗字は変えずにそのままにしていて、小学校や中学校はいじめられたり、僕自身が傷ついたりする可能性があるから、リスクを考えた上で変えていなかったそう。
姉が社会人になるタイミングで、僕自身ももう大学生だし苗字変えたらどうか。ってことでした。
僕自身は、中高の友達の方が絆が深く、彼らは当然知っているしあまり影響がないなと。大学も今更苗字とかどうでもいいなと思ったのであまり気にしなかったです。
驚いたのはその後です。
姉「ついでに伝えておいた方がいいと思っていることがあって。」
私「何よ?」
姉「実はお父さん在日韓国人なんだよ。だから私たちはハーフなんだよ。」
私「え!?そうなの。」
突然のカミングアウトに少し驚いた私でしたが、実は小さい頃、父方の祖父母の家に時々行くことがあって、その時に何か違和感というか、この家の人達なんかちょっと違うな。って感じていたので、ショックとか驚きというよりも、「なるほどな!あの違和感はそれだからか!」みたいな感覚でした。
その当時は、韓流も流行りだしてたりしたし、個人的にはハーフってカッコいいじゃん!って思ったので、「そうなんだね。」で終わりましたw
やっぱりマイノリティが好きです。
どうせ韓国人とのハーフだったらハングル話せたらよかった。。そしたら、もっとモテたかもしれないのにw

『焦りに焦った就職活動。1冊の本との出会い』

大学生活の終盤、単位に追われている私ですが、追い討ちをかけるように就職活動がやってきます。
これはもうかなりの衝撃でして。
アルバイトはしていたものの、のらりくらりと生きていた私は、自分自身が社会人になるなんて1mmも想像していなくて。惰性で生きていたので、もうそれそれは急に大学全体が「はい!今から就職活動です!」みたいな謎のスイッチオンについていけなくて。
「自分には何があるんだろうか?」「いや、マジで何もないぞ!」「本当に俺大丈夫なのか?」みたいな物凄い焦りと感じていました。
取り合えずは学校から進められるまま、自己分析セミナーとか受けてみたりしましたが、企業数も多いしもう何から始めていいのか、わけワカメ。
人間って不思議なもので、何もない!とかヤバい!って思った時って自然に本とか読み出すんですよね。
私もそれまで一切本とか読んでなかったですが、とにかく答えが欲しくていろんな本を読み出していました。
そんな中出会って衝撃を受けたのが、京セラ創業者の稲盛和夫さんが書かれた「生き方」です。
この本を読んだ時に、俺はこの生き方で生きていこう!って非常に共感し、決意したのを覚えています。
この本を読んで以降、人が変わったのか。周りの友人からは「真面目になった」「付き合いが悪い」とか言われるようになっていきました。

人生を変えた本


私はこの本の考え方も大好きなんですが、本の中で出てくる大好きな言葉があります。
それが、「動機善なりや私心なかりしか」です。
個人的にはこれさえ守っていれば人生大きな間違いはないと思っています。

書道家の友人に書いてもらったもの

さて、話は戻り就職活動ですが、当時は結構ギラギラしていたので、ベンチャー企業が何となくいいなと思っていたのですが、企業インターンシップで行ったトヨタ系のディーラーに行った際に、車に詳しくなっても一生使えないしな。って思って。どうせなら一生使える知識がある業界がいい!ってなりまして。
そん時ゼミの先生がやたらと株に詳しい人で、何か金融とかいいかもって思って、金融業界を目指すようになります。
大手銀行や地銀や信託などを受け始めますがなかなか受からない。
そんな中、金融業界の中でも証券会社は厳しいよ。って聞いていたので、だったらやってやろう!というノリで証券会社を受け始めます。
そしたらたまたま運よく大手証券会社に内定を頂くことができ、そこで働くことを決めます。これで辛かった就職活動も終了です。

=======社会人=======

『病みまくり退社』

大学在学中に証券会社は営業をするのに、証券外務員という資格が必要でして、入社前からひたすら勉強させられました。
なんせ営業なのに合格しないと営業できないってプレッシャーがあるので落ちるわけにはいかない。まぁそれも何とか合格できて晴れて社会人です。
配属は大阪!通達は入社の数ヶ月前に届きました。一人暮らしも初めてでワクワクドキドキです。
配属前にまず、集合研修ということで、関東エリアに新卒全員が集まり研修が始まります。同期が500人もいたので、もうそれはそれは毎日がお祭り。
周りのみんなも優秀な方やギラギラ全開の人が多くて、人数とみなさんの圧に圧倒される私。あんまり楽しめず、どんどんテンションというか自信というかが下がっていくのが自分でもわかりました。まだ配属前なのに。。
1ヶ月ほどの研修を終えて配属されていきます。私は大阪の支店で住まいは神戸の寮。
これがまたなかなか遠い寮でして、通勤時間は1時間半ほど。毎日満員電車に揺られながら通勤していました。
仕事も基本的にはポスティングとテレアポと飛び込み営業のコラボレーション。先輩がメンターとして付いていますが、やってこい。的なノリです。
まぁやるしかないだろうと、
毎日エリアを決めて、ポスティングをして、
翌日にポスティングしたエリアに電話をする。
電話で感触が良かったところへ飛び込み訪問。
みたいなルーティンでした。飽きたら先に飛び込みしたりと。
基本的には断られるが前提なので、あまりやりがいも感じられず消耗していく日々。
仕事で疲れて帰宅しても、寮なので周りは社員や先輩ばかり。
私はこの寮生活がかなりのストレスでした。
そんな日々葛藤し続け、GWに突入!やっと休息できる。と実家に帰省。
旧友と遊ぶぞ!と思っていたのですが、帰省した翌日から頭痛がひどく、とても遊べる状況ではない。結局ずっと実家で寝続けて、大阪へ。
そんなこんなで仕事を頑張って続けていたのですが、追い討ちをかけるようにサブプライムローン問題が勃発してきます。今まで信頼して買ってくれたお客さんも軒並み損失を被る。
このころから体の様子がおかしくなっていくのですが、帰りの新幹線で頭痛が酷くなり吐き気があったり、実際に吐いたり。朝の通勤電車で気分が悪くなり途中下車したり。
このままいったら社会復帰できないのではないか?という不安に日々襲われ寝れなくなったり。電車に乗るとパニックになったりしたり。
完全に精神を病んでいきました。
辞めることも不安だったので、何とか踏ん張って続けていましたが、テレアポしてる時にあるお客さんから「証券会社なんてやめとき。はよやめな。」みたいなことを言われたとたん、糸が切れてその電話を終えた後に支店長を呼び、辞めたいと告げました。
手数料はもらうけど、お客さんは損する。とにかく個人が数字を上げていく!みたいな世界観が自分には全く向いていませんでした。
当初のギラギラはどこへやら。結局1年ちょっとで疲れ果てて実家に帰ってきます。

『転職』

実家に帰ってきてしばらくは働かずに過ごしていましたが、2週間ほどすると、社会から取り残されている感があり、このままでいいのか。という焦りもあって、転職活動を始めます。どうしていいのかわからない私は、学生時代に就活セミナー講師をしていた方に連絡をしてみます。すると一度遊びにおいでとのこと。そこからかなり仲良くなり一緒に別荘遊びに行ったり、その人が本を出版したい。って言っていたので「やりましょうよ!」って言っていたら本出版しだしたり、僕は何もないですが、背中押す役にはなっていたようで、ありがたがられていて。
私は私で履歴書や職務経歴書の書き方を教えてもらって、さらには会社も紹介してもらい。
実際に面接に行った際に、そこにいる方々が本当に良さそうな人だったので、あまり業務内容とか細かいこととか聞かずに二つ返事で「いきます!」と転職を決めることにしました。
当時は従業員数も80人程度で、バックオフィス系の人材がいないということで、まずは給与計算からスタートしました。
転職先の会社の人員は、経理・人事・総務合わせて5名。
基本的に40代後半の人ばかりだったため、20代前半の私は非常に希少がられ、チヤホヤされていました。
みなさん基本的にお優しいので丁寧に教えてくださり、こんな会社もあるんだと。
また、従業員も少なく顔が見えるので「ありがとう」と言われることが多くなり、またラーメン屋の時と同じく、仕事ってこういうことだよね。と再確認。
サイクルに入った私はどんどん成長していき、任せられる仕事も増え、順調に進んでいき、良い転職となりました。



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