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分かり合えないんだ、が救いに【マイナス to 0】

こんにちは。
楽しみにしていた小旅行が雨で少し憂鬱になったRikakoです。

今回は【マイナス to 0】で家族との葛藤についてのお話。
※【マイナス to 0】のニュアンスについてはこちらへ。

よく、心理学や「癒し」の過程で耳にタコができるくらい出てくる
親子関係
これは、掘っても掘っても尽きないテーマですが、掘りすぎて親子関係を癒すことに人生の大半を使うのもまた惜しい。

そんな気分でいた中、どういうところに思い至って、いい意味で親子関係で気に病まなくなったのかをお伝えできればと思います。
本当にスッキリ解決した!というよりかは、親子関係への執着(問題にフォーカスを当てすぎると、自分を生きていない状態になって、解決しようともがく程に道が遠のく)が外れた時のお話です。

子供の頃、本当に小さい頃、子供は親を「自分と同一」「神格化・完璧な存在とみなす(生殺与奪の権を握られているから)」というふうに見ます。

その状態から、自我が芽生えてぶつかり葛藤が起こり、日常で起こった親の幾つもの言動が時として子供にマイナス感情を蓄積させます。

その蓄積が多すぎたり、上手く昇華できないで大人になると、えも言われぬモヤモヤや生きづらさを抱えるわけですが、、

子供が親にモヤモヤするって、「〜してほしかった」「関心を向けて欲しかった」「どうしてわかってくれないの」が大半だと思っていて、

「わかってもらえない」という思いを抱えるから葛藤が起こる。

実際にわかってもらえるかどうかは、親は「自分以外の人間」なので親次第です。
(※ 心の勉強をして脳の使い方を変えれば「わかってくれる現実」も作っていけますが、
これは自分で自分の人生を創っていく!という気持ちになるくらい元気になった状態でできることだと思っています。
こちらはこの状態に至る前のお話。)

さて、この時にどうするか?

親に自分の本音(やさぐれた意見ではなく、本当の心の柔らかいところでどういう気持ちだったのか)を打ち明ける人もいて、親が謝ってくれた。その時の親の気持ちが分かって許せるようになった。

本音を打ち明けたけれど、分かってもらえなかった。でも自分で自分の本音を見つけ、それを行動に出せたことで前を向くきっかけになった。

色々あると思います。

私は、人一倍わかってほしい気持ちが強かったのか、親に何かを訴えても本音を話しても、思い切って色々言っても、全然すっきり感がありませんでした。

スッキリしないということは、私が自分の本音をまだ深掘りできていないんじゃないか、別のところに盲点が潜んでいるのではないか。。
色々考える日々でした。

そんな時に、元夫とその親子の関係、元夫と自分の関係を見つめる機会があり、以下のことに気づきました。

「家族は、そのメンバー全員で有機的一体を成していること」

家系図のことを英語で「family tree」と言いますが、まさにあの図の通り、
細かい枝葉を見ると一人一人の個体がいるのがわかるのですが、それがより集まって1つの木になっているイメージです。

メンバー個々人は『私』を生きているのですが、大きく引きで見たときに、
家族が一つの人間のようになっていて、それぞれのメンバーはそれぞれの体組織・臓器に配置されている感覚なのです。
そして、私たちの体にそれぞれ健康な部位・もともと丈夫な部位・生来弱い部位・病気にかかっている部位があるように、生まれた順番などでメンバー内でも大きく個体差が出てくるのです。

そのメンバー内で起こった情動や感情は記憶され、マイナス感情の蓄積は「その家系の課題(弱い部位・病気にかかっている部位)」としてそれをクリアして健康になるべく課題が生まれた順に割り振られて(各部位の担当)いきます。
※ 逆に、良い情動や感情も記憶され、そこは健康な部位・丈夫な部位になるイメージ。

家族=1人の人間(有機的一体)だから、親子は分かり合えるはず。
こう思いがちです。
ただ、生まれる順番によって、その体のどの位置に生まれ生きていくのかは親子でも違ってくるんです。

そのため、親が順風満帆な人生を送っても、子は波瀾万丈な人生を送ることがあります(逆も然り)。
弱い部位・病気にかかっている部位の担当として生まれれば、言い方は悪いですがそれなりのハンデを負います。
なぜその子がハンデを負っていて、こちらがびっくりするところでつまづくのか、親でも意味が分からないことがあります。

親が心臓に位置する役目に生まれても、子である自分は肺に位置する役目で生まれたかもしれない。
心臓と肺はとても近いけれども、その細胞組織も仕事の仕方も、全く異なります。
近くにいるというだけであって、違うんです。
同じDNAと体を共有する仲であっても、違うので分からないのです。

ましてや、その体は、心臓は強いけれども、肺にはがん細胞が巣くっているならどうでしょうか?
余計に互いの状況や気持ち、常識が異なってくると思いませんか。

心臓の細胞には、肺の細胞の苦労は分からない。肺の細胞には、心臓の細胞の苦労は分からない。

こういう考え方に至った時に、「あ、なんだ。こんなに違うのか。じゃあしょうがないね」と思いました。

分かりあうことを諦めるというよりかは、「あ、そうなのね」という素朴な感想が出てきたといった心持ち。
「自分は肺の細胞だったというにすぎないんだ」
「親とは、その体の中での役割が違いすぎてお互いを理解するのに限界があるんだ」
これが、腑に落ちることで、分かり合えないことへの孤独感も和らぎますし、わかってくれない親を責めるでも、こういう気持ちを抱えていた自分を責めるでもなく、気持ちが落ち着きます。

全部ぶつけたり、本音を話して、今までのことが氷解するような体験ができるのは、とてもドラマティックで良い話です。
ただ、大半は徐々にグラデーションをつけて気づかないうちに変化していくことが多いのではないでしょうか。

そのグラデーションの中に一助になりますように。






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