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歴史改変I──もしアメリカが王国になったら?

始めに

今回は「もしアメリカが王国になったら?」というテーマのもと、世界の沿革を考察していくわけですが、この記事を読んでいる皆様の頭の中には、一つの疑問が浮かんでいることでしょう。
それはすなわち、「いつ」「誰が」アメリカ王国を誕生させるのかということです。
今回は、もともと植民地だったアメリカが宗主国イギリスから独立した直後、1780年代に、王政の誕生を望むナサニエル・ゴーラムらによって、プロイセンのフリードリヒ大王の弟であるハインリヒ・フォン・プロイセンが、ヘンリー1世として即位させられるというシナリオを考察します。


アメリカ王国の誕生

1783年のパリ条約によって、アメリカ合衆国はイギリスからの独立を達成したが、それはまだ独立した13州のゆるい連合でしかなく、中央政府の権力は弱く、農民の反乱などといった政治・経済における困難が続いた。この状況を改善するため、史実では憲法制定会議が開かれ合衆国憲法がつくられたが、この世界線ではそれよりも先に、当時のアメリカの国家元首であったナサニエル・ゴーラムにより、王政が樹立される。

彼によって初代アメリカ国王となったのは、プロイセンの「大王」フリードリヒ2世の弟である、ハインリヒ・フォン・プロイセンだった。本国では外交官として活躍していた彼は、アメリカ首脳陣との交渉を成功させ、1786年にヘンリー1世として戴冠する。これはヘンリーの戴冠と呼ばれ、ここからアメリカ王国の歴史は始まる。

彼はアメリカの地に、領主層と軍隊を中心とするプロイセン風の政治体制を取り入れる一方で、ロックの思想に由来する人民の反抗権の行使を認め、首相の率いる政府・上下院からなる王国議会・最高裁判所による三権分立の原則を定めるなど、革命後の風潮にあった体制を導入した。

アメリカ王国の初代首相にはゴーラムが就任し、彼とヘンリー1世は戦争で荒れたアメリカの復興と、新たな王国の建設につとめた。口頭では人民に大幅な権利を認めておきながら、黒人奴隷制は継続され、先住民は王国軍によって抑圧された。

フランス革命への影響

1802年、アメリカ王国軍はフランス領ルイジアナに侵入し、ここにルイジアナ戦争が始まる。ローマ教皇との和解・イギリスとの講和などによって国内における支持を広げようと思っていたナポレオンにとって、この戦争は痛手となった。さらに、アメリカ王国の優勢を見たオーストリアは再びフランスに軍を侵入させ、プロイセンもこれに続いた。

ルイジアナ戦争は1803年に、アメリカの勝利で終わった。これによってルイジアナはアメリカに割譲され、フランス国民の戦意を少なからず喪失させる結果となった。オーストリア・プロイセンはナポレオンと講和し、オーストリアがヴェネツィアを獲得、プロイセンがフランス国境沿いの地域を獲得した。

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