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息子のこと

 胎盤を人の手で引き剥がさねばならないほど癒着させて私から栄養を取っていた息子はは3730gと本当に大きく生まれた。新生児室で隣のコットに眠っていた同じ誕生日の子と体重差は1000g以上。まるで別の生き物ではないかと新生児室に行くたび見比べた。

 完全母子別室で日中のみ呼ばれたタイミングで赤子に乳をやるシステムの病院だったのだが、息子は助産師さんから「不夜城」と命名されていた。眠れない原因は空腹だったようで、新生児室に置かれた授乳表を覗いてみると、息子は他の新生児の倍量(これは比喩ではない)のミルクを飲んでいた。

 離乳食が始まってもその暴食ぶりは変わらず、毎食後もっと欲しいと泣かれた。月齢での適正量は既に超えていたので不安になって市の保健センターに相談したら、欲しがるだけあげればよいと回答を貰った。

 それならばと鳥の雛のように口を開く息子の口に離乳食を突っ込み続けたら、限界を超えたところで吐いた。満腹ならば食べるのをやめて欲しい。


 そんな調子でふくふくと育った彼の初めての入院は2022年4月、彼が1歳10ヶ月のことだった。

 不器用な私が手縫いで袖上げした少し不格好な制服で幼稚園に通い始めた娘は、入園後間もなく鼻水を垂らすようになっていた。コロナ禍ということもあって入園までまともに集団に入ったことのなかった彼女はいとも簡単に風邪をもらってしまったのだ。

 もちろん弟である息子がその風邪を貰わないわけがなく、鼻水だけの娘と違い彼は発熱した上に水も食べ物も拒否し始めた。あの食いしん坊の息子がゼリーもジュースも口すらつけようとしない。時々泣いて、あとは床に寝そべっている。

 午前中の診療で薬を貰っても全く状況は変わらなかった。何も口にしない。16時午後診療開始の病院から、15時頃に大丈夫ですかと連絡があった。ありがたい。何も好転しない状況を伝えると、診察時間前でいいから診せて欲しいと言われたので慌てて再受診すると、入院を視野に入れて大きい病院への紹介状を渡された。

 息子はそこで急性気管支炎を診断されて、そのまま入院することになった。

「お母さんしばらく息子くんと病院に泊まるね」

 入院が決まった直後、車で待っていた娘に声を掛けて抱きしめようとしたら無言で拒否をされた。彼女なりの抵抗なのだろうと思うと胸が痛かった。


 入院先は古い病院で小児科病棟と内科病棟がどうやら同じ。夜になると年配の方と看護師さんのコントのような口論が聞こえてきていた。

 入院中も息子はものを食べようとせず点滴で栄養を補っていた。酸素飽和度は94。一般的な人がどれぐらいなのかは知らないけれど、平時に私や息子が計測すると98あるので多分それぐらいが正常なのだろうと思われる。きっと苦しかったことであろう。

 病院から提示された退院の目標はものを食べられるようになることと酸素飽和度が95を上回ること。目安として5日から7日を入院が必要と言われた。
 ものを口にしない割に元気な息子のことと幼稚園に通い始めたばかりの娘のことで入院中のわたしの脳内は埋め尽くされていた。

 入院から3日、少しずつものも食べ始め、おやつの時間に出される甘いものならペロリと完食するようになった息子は医者の目からも元気に見えるようで翌日に酸素飽和度が95あれば退院しようということになった。

 酸素飽和度は起きている間は95前後をうろうろ。寝ている間は下がり気味なので92。数値だけ見ると息苦しいはずの元気を取り戻した幼児と日中ベッドの上で過ごすのはかなりストレスフルだったので、頼むから明日退院させてくれと祈りながらその日は息子の横で眠った。

 翌日、酸素飽和度は95を超え、息子は初めての入院を3泊4日で終えた。


 息子の2度目の入院はその1ヶ月後。またも姉に風邪を貰った彼は睡眠前に発熱。嫌な予感のしたわたしは夜中に何かあってはいけないと夜通し息子の横で見張っいた。

 息子が目覚めたのは未明。泣いてぐったりとしている。娘が寝ていたので夫に夜間救急に連れて行ってもらった。念のため入院準備をしていたら、やはり入院が決まった。

 娘を起こしてご飯を食べさせてからタクシーで入院先の病院へ向かった。今度の入院先は少し遠いがこの地域では珍しい小児科医の常駐している総合病院。娘に暫くは息子と病院に泊まることを告げると、彼女は黙り込んでいた。

 今回の病院は比較的新しく、小児科病棟には前回の入院先とは比べ物にならない数の医療関係者が見られた。設備もあからさまにこちらの方がしっかりとしていて、家から遠いことはネックだったが安心して入院できた。

 喘息性気管支炎が2回目の入院の診断。発作を起こして酸素飽和度は91しかない。あと1回発作を起こしたら小児喘息になると言われて、なんだか曖昧な病気なんだなとぼんやり考えていた。

 2度目の入院でも息子は酸素飽和度は低いままだがすぐに元気になった。心配していた飲食も、最初の病院の時よりは食べていた。
 最初の病院では大人と同じメニューしかなく、今回の病院では離乳食初期から細かく段階が選べたのでそれも大きかったと思う。

 このときの入院も1週間は掛かると言われていたけれど前回同様3泊4日で済み、彼の誕生日前日に退院することができた。


 退院後、かかりつけの病院からは小児喘息として治療を始めようと言われ、毎晩発作を予防するための粉薬を飲むことになった。入院中も飲んでいた薬で特に嫌がることもなく飲んでくれる。わたしは未だに粉薬は飲まないと断言する程度に粉薬が嫌いなので、彼が薬を普通に飲んでいる様を見て尊敬すら覚えている。


 3度目の入院もそれから1か月後で、きっかけも姉からの風邪。朝から発熱してかかりつけの病院に行き、軽い発作も起こしていたので入院歴を考えて吸入の機械(ネブライザー)を借り、その薬液を貰った。

 午後になって息子の様子がなんだかおかしかった。泣きはしないものの、その場で寝転んでボーっとしている。病院の帰りに買ったドーナツを食べはするものの、食いつきが悪い。呼吸音も良くなっておらず、その日は木曜日で午後は休診。救急外来も夜から。悩んだ挙げ句、薬を処方してもらった薬局に電話を掛けて発作を収める薬の使い方を確認して追加で薬を使用した。

 結局その日の夜、息子は眠ることができずに2度目に入院した病院に駆け込むことになった。

 既に寝ていた娘と苦しくて泣く息子を車に乗せる作業を夫に任せ、その間に前回入院で必要だったものをすべてキャリーケース押し込んだ。足りなかったらあとで持ってきてもらえばいい、とにかく急げ急げと頭と身体をフル回転。

 病院への車内は親の心配をよそに穏やかなもので、子どもたちはぐっすりと寝ていた。とは言っても、息子の寝顔は苦しそうだったのだけれど。
 途中娘が起きたので、コンビニに寄って付き添い入院を見越したわたしの最低限の食料と、娘のために普段は簡単に買い与えないジュースを買った。娘は早く飲ませてと怒っていたけれど、彼女にはこの夜のドライブの意味もジュースの意味もわからないのだろうなと、これからまた暫く会えなくなることに胸が痛くなった。


 救急外来には沢山の人がずらりとベンチに並んでいた。息子はベビーカーの上で苦しそうに泣いたり寝たりを繰り返していたので、せめて寝やすいようにと外来受付の近くを往復して早く順番が来ないかと気を揉んでいた。

 30分ほどで看護師さんがやってきて、酸素飽和度と熱を測りに来た。具体的な数値を覚えてはいないけれど、酸素飽和度は80台で胸もお腹も空気を取り込むために必死にベコベコと上下していた。

 その後すぐに救急外来に呼ばれ、軽い状況説明をしている間に息子が吐いた。彼が吐いたのなんて、乳飲み子時代の吐き戻しと離乳食の食べ過ぎだけだったのでなかなかのインパクトだった。

 看護師さんからもらったティッシュで取り敢えずベビーカーと息子を綺麗にしていたら医師もやってきた。とにかく苦しい状況だからすぐに処置をしようと数人の医師と看護師に取り囲まれた息子は点滴の管を取り付けられることになった。小児ではこのタイミング、親は外で待っとくように言われることが多い。後に別件で立ち会うことがあったのだが「お母さんがしんどくなりそうなら見なくてもいいですよ」と言われたのでそういうことなのだろうか。
 カーテンの中で泣き叫ぶ息子の声を聞きながら、看護師さんに状況を説明。電子カルテに書き込んでいる割に、他の医師や看護師からこの後何度も同じことを聞かれた。

 開かれたカーテンの中にいた息子は苦しさと点滴への恐怖と鼻の管への違和感で、顔を真っ赤にしてべしょべしょになっていた。抱っこしてあげてくださいと看護師さんから息子を渡されたものの、苦しさからずっと身を捩り続けていて抱っこもままならない。あと口が吐瀉物の香り。
 発作を抑えるための吸入(耳鼻科でよく見かける薬を噴霧して吸い込むもの)をしている間もイヤダイヤダと身を捩り続けるので、これで楽になれるからと無理やり煙を吸わせ続けた。

 吸入を終え、柵もない子どもが寝るには安全性に欠いたベンチの進化版程度のベッドに息子を置くと、暫くの間藻搔くように体勢を変えながらスッと眠りについた。酸素飽和度は相変わらず低い。
 吸入から時間が経っても回復しないので、日が変わる直前、病院到着から90分後に入院が決まった。入院の準備を持ってきてもらっていると息子を少し看護師さんに任せて夫と娘の待つ車の元へ向かうと、娘はぐっすりと眠っていた。起きたら母がいないことを不安に思うのだろうが、彼女のことだから何でもないフリをするのだろう。

 病室に移動してベッドで寝始めたものの、1時間ごとに息子は苦しいと泣いて私を起こし、2時間ごとに看護師さんが吸入にやってきた。
 朦朧とした頭で迎えた朝6時、医師がやってきた。診察の時間にはまだ早い。苦しそうな息子を膝に載せ、深刻そうな顔をした医師に少し緊張する。

「症状が良くなってないね」

 医師は息子の様子を見てそれだけ言うと、どこかに行ってしまった。看護師さんもそれに続いて部屋から居なくなってしまう。
 確かに絶対良くなっていない。いつもなら入院翌朝にはケロリなのに。どういうことなんだろうと半分パニックになりながらただ医師の帰りを待っていたら、もうひとりの医師を連れて先程の医師が帰ってきた。連れてこられた初老の医師の方が幾分か威厳がある。

「PICUに入れましょう」

 初老の医師が息子を診察して言った。Pが何のことかはわからないけれど、ICUといえば白い空間に生きるか死ぬかの患者が管だらけで入院している場所だという、完全にドラマや漫画のイメージしかない。
 看護師さんに指示をしてからわたしに説明を始めた初老の医師に良くなっていないとはどういうことなのか、薬が効いていないのか効いていてコレなのかと尋ねたら後者だと言われた。

「喘息って対処療法なんです。治す薬はないから薬は手助けしてあげるだけ。でもそれができてないからもう少ししっかり管理する必要があるんです」

 そのままベッドごと息子はPICUに運ばれた。私は何もわからないまま、息子の持ち物に名前を書くように看護師さんに促され、彼と一緒に入院できないことをそこで知った。

 PICUとはpediatric intensive care unitの略称で、小児専門の集中治療室のことらしい。荷物をまとめてPICUに入ると、だだっ広い部屋にベッドが5,6台。
 ベッドに寝ている子はみんな小さいのに声がひとつも聞こえなかった。息子が居たのは一番奥のスペースで、たくさんの管を繋がれて薬で眠らされていた。
 先程説明をしてくれた威厳のある医師はPICUの医師だったようで、今は僕が担当しますと自己紹介をしてから状況を説明してくれた。

 まず起きて泣いてしまうと更に苦しくなるのでできるだけ薬で眠らせていく方針だということ。
 そして、近年ここまで酷くなる小児喘息患者は珍しいということ。でも、これ以上に悪化するのは数万人にひとりだからと慰めるように話してくれた。だから2,3日でPICUは出られますよと。
 ここ数年で数万人にひとりを2回引いてる私からしたら何の慰めにもならなかったのだけれど。

 その後は看護師さんからPICUの説明と、足りない物資を持ってきて欲しいと頼まれた。
 寝不足のまともな思考ができない頭で電車に揺られ、帰宅後すぐに入院物資を整えて病院へトンボ返りした。

 朝イチで病院を出て昼過ぎに病院に戻ったら、女医さんがまた深刻そうな顔をして私に近付いていた。昼から息子を見ているのが彼女らしい。

「薬を使っても一向に良くならなくて、最終手段として人工呼吸器をつけて薬の投与を考えています。15時から会議を開いてそこで決定します」

 人工呼吸器といえばその当時話題になっていたECMOのことだろうか? その場合の入院期間とか諸々はどうなるのだろう。それをしたらすぐに良くなるのなら、それをすればよいのではないのか等々頭の中には疑問符だらけ。
 医師はひとつひとつ疑問に応えてくれたが、ここから先に書き示すものは寝不足な上に息子が数万人にひとりに入るか否かの瀬戸際で混乱した頭で聞いたことなので話半分で読んで欲しい。

 人工呼吸器をつける場合、全身麻酔をして管理をすることになるので、1,2ヶ月はそのまま入院が必要。人体の動きを最小限にして薬を入れるので効果は期待できるけど、その分リスクも大きいからできる限りやりたくはない。

 つまり、1ヶ月以上はこの小さな身体が寝たきりでピクリとも動かなくなるらしい。脳内はパニックどころか停止した。
 人工呼吸器をつける場合は電話をするのでと言って彼女は息子の横を離れた。薬で眠らされた息子は何も知らない顔でスヤスヤ眠っていた。

 彼の横に座ってずっと手を撫でていたら男の看護師さんが近付いてきて話を聞いてくれた。
 小児喘息患者の親ならきっと誰しもが思うであろう、自分のせいでこの子はこんなことになっているのではないかということを彼は肯定も否定もせずにただ聞いてくれた。
 そんなことないと言ってほしかったのが本音ではあるが、看護師がそんなことを無責任に言えるわけが無い。
 入院中、何人かの医師から言われたのは、環境も要因のひとつではあるけど、アレルゲンに反応しやすい子もいるし、反応してしまった結果そこから回復しにくい子もいるということだった。
 実際に娘は同じ環境で育っているが健康である。

 PICUの面会時間は1時間だったが、いつの間にかそれ以上滞在していたので看護師さんに涙を見せる前に退散した。
 帰りの電車では息子がこれからどうなるのかということで頭がいっぱいで電車の中で下を向いて、涙を流してはそれを無理やり止めを繰り返していた。
 息子の父親である夫にも聞いた話を伝えなくてはならないのに、言葉にしたら何かが崩れてしまいそうでただ自分の中で何かを食い止めようと歯を食いしばっていた。
 私が帰宅するまで催促せずに待っていてくれた夫には感謝しかない。

 15時には最寄り駅に着き、ドーナツ屋で休憩をした。スマホは見えるところに置いて、店内の喧騒の中でなら何を聞かされても冷静で居られるのではないかとわけの分からないことを考えていた。

 16時になってもスマホは鳴らず、もう大丈夫だろうと帰路につき、ついでに延長保育で幼稚園にいた娘を迎えに行った。
 迎えに行くと担任の先生が弟さん大丈夫ですか? とひとこと。母親が弟と入院するから何かあれば父親まで、と言付けていたのに母親が迎えに来たらその反応をされても仕方ないだろう。
 その時の私は精神状態が非常に不安定だったために、息子はあまり良くなくてとうつむいたまま返事をすることしかできなかった。
 多分伝わってなかったのではと思うのだが、先生が聞き返さなかったのは私の様子がおかしかったからではないかと思う。

 その日の夜はスマホの着信音量を最大にして眠りについた。寝不足な上に公共交通機関で片道1時間の病院を往復して身体は疲れていたけれど、精神状態が悪化の一途を辿っていたのでまともに眠れなかった。喘息は明け方に悪化することが多いらしく、そこを越えるまでは安心できなかったからだ。
 それでも泣いて夜を越さなくて済んだのは、ひとえに医療関係者である妹の「ICUだったら一般病棟より細かに変化見てもらえるし、今は任せて転床までの間に親はしっかり食べてしっかり寝て体力つけて」の言葉があったからだ。内部事情を知る人間の言葉は強い。
 妹の言葉をお守りにして、とにかく何があっても動けるようにしようと無理やり眠った。


 翌朝、鳴らなかったスマホに喜びを覚えつつもまだ安心できないと装備を整えて息子の面会に向かった。土曜日だったので、夫に車を出してもらって娘も一緒に病院へ向かう。とは言っても、入れるのは大人ひとりだが。

 PICUに入ると一番手前のベッドに医師看護師のひと溜まり。若い看護師が数人泣いていて異様な光景だった。
 後に妹に話したら、看護師が何かミスをして怒られたのではないかとのことだったが、こんな異様な現場で大の大人が数人泣いてるのを見ると最悪の事態が起こったのではないかと想像してしまってゾッとした。
 翌日には違う子どもがそのベッドに寝ていたので、実際にその場で何があったのかはまるでわからない。

 とにかく、息子はこんなに死が近い部屋に入院しているのだと思うと気が気ではなかった。電話はならなかったけれど、急変して人工呼吸器をつけてるかもしれない。
 あまりにも広くて一番奥の息子のベッドの様子が分からないので、緊張と恐怖で動機がする中急いで彼のもとに向かうと昨日よりも管の少なくなった息子が少し楽そうに寝息を立てていた。
 人工呼吸器といった物々しい装置も見られない。
 ただ、小児科特有のあの柵の高いベッドではなく大人の患者の使うベッドで寝ているのを見る限り、ほとんど寝て過ごしているのかもしれない。

 土日は急変しない限り医師からの説明はないと聞かされていたのだが、PICUに入ってから3人目だと思われる息子の担当医が説明をしてくれた。
 昨日あれからほんの少し改善傾向が見られたのでそのまま薬で寝かせるだけにして処置を続けることになったらしい。今晩このまま何事もなく越えれたら一般病棟に戻りましょうとのことだった。

 医師の説明から暫くして、息子が目を覚まし管を引張りながら私に向かって泣き始めた。泣くのは喘息に良くないと聞いていたので部屋から出ていこうかと思ったが、看護師さんが管をうまく取り回して抱っこさせてくれた。
 普段は抱っこ抱っことやってくる割にすぐに降りてしまう彼が面会時間いっぱいコアラのようにしがみついていた。薬が切れて目覚める度に泣いていたようだ。
 途中絵本でも読んでやろうかとそれを取るために息子を一旦ベッドに置いたら、この世の終わりのように泣かれたので面会時間は本当に彼を抱っこするだけで終わった。

 息子は順調に回復しているようだし、夫と娘を待たせていたので規則通りの1時間で面会を切り上げようとしたら引き離されたやっぱり息子は大泣き。
 看護師さんに息子を託して、明日からは一緒に入院だからねとPICUを去った。

 その日はそれから娘とさんざん遊んだ。
 アイスを食べて、ショッピングモールのイベント会場で謎の遊具に乗り、娘の洋服を見て回って、娘の食べたいものを食べた。
 彼女は1歳8ヶ月で姉となったので、3人でこんなにはしゃいだのは息子が生まれる前の話だ。時折、ムスコくんは? と聞く彼女がとてもいじらしかった。

 翌日、一般病棟に戻ることが決まったら電話しますと言われてたにも関わらず私はすっかり寝こけてしまっていた。戻る時間は15時前後だと言われていたし、2日もまともに寝れなかったのだから、息子の回復した姿を見て爆睡してしまうのは許して欲しい。本来なら1日12時間は寝ていたい人間なのだ。
 私が目覚めたのは病院からの2度目の電話だった。寝ていたのを悟られないよう、できるだけハッキリとした声で話す。
 できれば昼前に来てほしいと言われたのだが、片道1時間の距離に対して、確か電話を受けたのは10時を回っていた。無理ではないが厳しい。
 頑張りますと答えたら、そういえば遠くにお住まいでしたねと本来の時間で大丈夫ですのでと逆に謝られてしまった。
 1回目の電話に出ていたところで5分の差であったし、もうこれについてはどうしようもなかったが病院もいっぱいいっぱいで動いているのは妹からもよく聞いていたのでできるだけ急いで病院へ向かった。

 夫に車を出してもらい、病院に入る前に娘とハグをしようとしたら断られ、握手も拒否。
 この子なりに頑張ってるんだよなと頭だけ撫でて、すぐに息子を連れて帰るからねと頑なに私の方を向かない娘に手を振って息子に会いに行った。

 PICUに行くと、場の雰囲気にそぐわない朗らかな顔をした息子がベッドの上から迎えてくれた。食事も大半を食べたらしく、よく笑うのでPICUでみんなのアイドルだったんですよと看護師さんから伝えられた。
 相変わらず酸素飽和度は低かったが、90は越えていて両手についていた管は片側だけになっていた。

 そこから先は過去2回の入院と同様、やたら元気なのに酸素飽和度の低い幼児とベッドの中のみで過ごすという生活。
 前回までと違ったのは、彼の首にはネックレスのように酸素の流れるマスクが下げてあったことと、横になるだけでは酸素飽和度が90を簡単に下回るのでベッドに傾斜をつけて寝かせていたこと。

 息子はそこから更に3泊4日を小児科病棟で過ごした。いつもの如く酸素飽和度の低いのに元気な幼児と狭いベッドの上に帰ってきたのだ。

 子どもたちには、生きてくれてるだけでそれ以上は望むまいと強く思った出来事だった。

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