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茶と角 8

※連載初回の「はじめに」を読んでいただけたら幸いです。ちょっとお断りをしておきます。


 次のお稽古の日、普段通りに美香がおかみさんのお宅へ行くと、いつもは開いているドアが閉まっていました。呼び鈴を鳴らすと、おかみさんが奥から「はーい」と言って玄関まで出て来ました。そしてびっくりして美香の顔を見ました。
「今日はお休みって言ったでしょ! なんで来たのよ!」おかみさんがいきなり怒号したので、美香は顔が青ざめそうになるほど驚きました。
「知りませんでした。先生、聞いていたら、私、来ません」と美香は真顔で言いました。本当に聞いていないのです。
「言ったわよ! その証拠に他の二人は来てないわよ!」おかみさんは勝ち誇った顔で言いました。
「そのお話はいつなさいましたか?」美香は冷静に伺いました。
「この間の奥様のお茶室で、間違いなく言ったわよ!」
 あの時、美香は率先してお片付けをして、茶室と台所を何度も往復していました。奥様のところでお手伝いをする時はいつもそうしていました。おそらくおかみさんはその間に言ったのでしょう。だから美香の姿は目にしているので、自分が言ったことを聞いていると思い込んでいたのでしょう。
「今日は申し訳ありませんでした。今度からは前日の御挨拶のお電話をさせていただきたいと思います。次回のお稽古の時は、またよろしくお願いいたします。失礼します」
 美香は頭を下げ、玄関を出ました。最寄りのバス停へ戻り、ベンチに座りました。次のバスが来るまで三十分くらいありました。近くのマーケットに寄って気分転換をするくらいの時間はありましたが、その気力がありませんでした。
「言い方、ってあるけど、先生は、私の立場で物事を考えないから……」
 美香はいつの間にか具合が悪くなっていました。二つ目の電車に乗り換えてからは、一駅乗ったら降りる、を繰り返さないと耐えられないくらい車酔いをしていました。最後はバスには乗り換えず、歩いて家まで帰りました。時間がかかりましたが、無事に玄関までたどり着けました。思った以上に冷や汗をかいていました。あまり冷たくない水を少しずつ時間をかけて飲みました。
 三十分休んでから、ゆっくりとお風呂に入りました。大分具合が良くなってきました。お腹はすいていましたが、横になった方がいいと思えたので、白湯でお腹を満たした後、朝まで寝ていてもいいように、ある程度の明日の仕度をしてから布団に入りました。
 横になりながら美香は思いました。『茶道はやめたくない。これを、人生はやめたくない、に置き換えたら、どう思うかな? 絶対にやめることはしないと思う。お稽古はやめないとして、どうしたらいいのかな? 先生を変えたら、と考えると、変えてしまったら、自分の他の人間関係にまで影響が大きく及んでしまう。それはもっときついことのような気がする。多分、今は若い人生の忍耐の時期なんだろうな。きっと心の持ち方を鍛える修行中なんだろう。もう少し今のままお稽古に通って見よう。茶道のお稽古は人生と違って、いつでもやめられる、というか、具合が悪くなった時はお稽古をお休みして、本来の自分を取り戻してから、また始めればいいんだ。まだお稽古をやめたくないのに、無理はしなくていいんだ』
 
 しかし、この出来事は、思った以上に精神的な打撃を受けたことは確かだったようで、次のお稽古の時は、お月謝を持っていかなければならなかったのに、美香はすっかり忘れていました。おかみさんのお宅の最寄りのバス停で降りた時にやっと気が付きました。
 近くのマーケットでお月謝用の封筒を買い、一万円をくずしました。しかし驚くほどボロボロのお札でしか、おつりがもらえませんでした。近くには銀行がありません。銀行へ行くためには駅まで戻らなくてはなりません。そんなことをしていたら遅刻をします。間違いなく怒号されそうです。もちろん、新札を用意しなかったのは今回が初めてです。でもお月謝を持っていかなかったら、おかみさんの感情はどうなるでしょうか。もしかしたら、お稽古どころではなくなるかもしれません。
『小山さんと大山さんにご迷惑をおかけしてはいけない』美香はそう思い、そのおつりを使うしかありませんでした。

 その日の夜、奥様からお電話がありました。
「今度のうちの茶会の時は、色無地一つ紋のお着物を着てね。あんたにお点前をしてもらうから」
「えっ? そ、それはどういうことですか?」美香はうろたえました。
「あんたがよく知ってる、うちの身内だけの集まりだから大丈夫よ。それにお点前が違ってたり、わからなくても、誰かがその場で教えてくれるから。さっき、あんたの先生(おかみさんのこと)から電話があって、もう一通りは教えたから大丈夫でしょ、って言ってたわよ。それからね、お月謝が新札じゃなかったそうだけど、それはちゃんとしなきゃだめよ。じゃあ、よろしくお願いね」そう言って奥様は電話を切りました。
 奥様は、お月謝のお札のことを言うためだけに電話をするのは良くないと思って、お点前の件を考えてくださったのかな、と美香は思いました。

(つづく)





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