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自然と暮らせば感性は豊かになるか?直感力はつくのか?

答えはイエスでありノーである。

・・・・なぜこんなことを書くか?
最近「直感力を養う」とか、「感性を豊かにする」とか
よく耳にするようになった。
ラオスの自然の中で暮らしていると
自然の暮らしはとっても感性が豊かになるんじゃないですか?」
なんて聞かれることも多くなった。
そんなこともあり、せっかくなので私が今感じていることを記したい。
・・・あくまで個人的な感覚ですのでご容赦を。そしてその感覚はあくまで"今"の感覚であり、明日にはどう話しているかは分からないことも付け加えておく。
(ちょっと長くなってしまったので読める方は読んでください)

自然の中にいると確かに感性が豊かになる。

自分と対話する時間も増えるし、日本で感じるようなストレスも概ね感じることはない。
日々ゆっくりした時間を過ごしつつ、日本のめまぐるしさを忘れるほど心静かにする時間が増える。
太陽と共に暮らす生活は、とても豊かな時間を過ごすことができる。
そこには一つの真理があるような気すらする。

だったら答えはイエスじゃないか?

なんて思うかもしれない。
正確にいうと、本当に自然の中だけで森に入って原始的な暮らしをしていく上では、必要な感覚・直感力は少しづつつくのだと思う。
だけどそんなことできる人なんて限りなく0だろう。
実際私も幾分か皆さんより自然が多い環境で暮らしているけど、電気もガスも使っている。
現地の人はもっと自然と共に暮らしているけど、ナタも使えば服も着る。

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どんなに自然が大事で、自然が好きで・・・って言っても程度の差こそあれ私たちは文明の中に生きている。
それがホモ・サピエンスが地球の中で身につけた武器だからだ。それがなければ、私たちは地球上の生命の中でも下から数えた方がいいくらいの強さしかない。そしてそんな暮らしは御免だ!

だから最初の答えに行くつく。
答えはイエスでありノーである。

自然に近い感性を養うには、自然の中で太陽と共に暮らしてみればいい。
自分で土に触れ、植物と対話してみればいい。

しかし私たちは、野生の勘に加え文明の中で生きていくための直感力・感性をつける必要があるのだと思う。そしてそれらは行ったり来たりしていて表裏一体なのだ。

ではどうするか?

その答えは
たくさんの経験をすること
たくさんの情報を得ること
たくさんの無駄・失敗をすること

にあると思う。

少なくとも私の知る感性豊かで直感力に優れている人はこれらをやっている。
情報をなるべくたくさん体のどこかにインプットしておくのだ。
忘れてしまったとしても必ずどこかで覚えている。
そしてそれが何かの時にピンって繋がる。

「でもそれって結局年を重ねないといけないじゃないか?」
なんて言われるかもしれない。

一理あるが、そんなことはない。

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例えばいつもの通勤を違う路線で行ってみよう。
違う景色が待っていて、思わぬ出会いがあるかもしれない。

いつもの自転車をやめ、少し早起きし歩いてみよう。
思わぬ発見があるかもしれない。

少なくとも、同じ道を同じ時間に同じ手段でただ通うより多くの情報と経験が得られるはずだ。
時間はみんな(平等ではあっても)等しく同じではない。
例えば

デートは本屋で待ち合わせ

なんていいと思う。ナンノコッチャ?と思われるかもしれませんが、これは私が師から学んだ情報を多く得るための手段。とにかく本を読む。だけど全てに目を通せるわけではないから、雑誌を斜め読みする。時間を無駄にしないためにデートの待ち合わせ(別にデートじゃなくてもいいんだけど)を本屋にして少し早めに行って、今雑誌に何が書かれているかを表紙や目次タイトルを片っ端から見る。


女性誌男性誌など構わずに見る。
私の場合は設計デザインの仕事をしていたので、商店建築、住宅建築、チルチン人、住む、ModernLiving、建築知識などの建築誌はもちろんのことCasa、ブルータス、popeye 、家庭画報、婦人画報、nonnno、Anan、Pen、宣伝会議、広告会議、ブレーン、七緒、エルデコ、25ans、クロワッサン、男の隠れ家、太陽・・・などなど平置きの雑誌から専門の雑誌までとにかく流し見をしていた。



で、どうしても気になったシーンがあればその雑誌を買って・・・と行かない場合は覚えておいて図書館で借りるなどしてコピーをしたりしていた。
すると不思議と共通のキーワードとかが見えてくる。
好きなシーン、嫌いなシーンをそれぞれスクラップなんてして見てもいい。

もちろん雑誌以外でも平置きの本に小説にザァーっと見て回ったり、気になったら買ったり借りたりして読んだりした。
退屈そうなら10ページでやめてしまってもいいと思う。

叩く。触れる。口に出す。

これもナンノコッチャだろう笑 
例えばお店に行ったとする。そしたら「あの照明がもう少し暗かったらなぁ」とか「あのカウンターのガラスかっこいいね!」とか口に出して言って見る。思っているだけより、口に出すことで脳は数倍刺激される
最初はそんなに出てこないかもしれない。それでもいいと思うところを探して口に出して見るのだ。
別にお店じゃなくてもいい。美味しいものを食べたら目一杯美味しい!って表現するだけでも感性は磨かれる。

さらにはテーブルを叩いて見たり壁に触れて見たり。
「このテーブルは柔らかくて暖かい木だなぁ」とか「壁はコンクリートか。ちょっと冷たいけどクールな感じを受けるな」とか言って触って見る。硬いとか柔らかいとか、暖かいとか冷たいとか、素材にはそれぞれの色がある。
これだけで同じところに行っていても積み重なれば幾分も確かな経験となる。肌で体で感性を刺激する。

街を歩くいて写真を撮る

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休日は街を歩くのもいい。デパート(最近ではデパ地下の方がいいかも)をめぐるってのは思ったより多くの情報に溢れている。
街角では綺麗なシーンとか気に入ったシーンを写真に収める。錆びた鉄板が捨てられていたとか、枯れた葉っぱが綺麗だったとか、かっこいいお店があったとか、憧れの格好をしている人を見かけたとか(この場合は注意が必要)。

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たとえ他の誰が見ても綺麗だなんて思わなくても、自分自身が面白い、綺麗だと思えば躊躇なく撮ってしまうといい。
そしてできればデジタルでの保存ではなく印刷しておく方がいいとは思う。

と具体的にいくつか書いたけれど、他にも映画や音楽などもっともっとやってたことはある

だけど、どうだろう?

普段の生活の中でも、何気なく過ごしている時間を少し角度を変えるだけでも違う見方が出来るのではないだろうか?

何がいいたかったか?

目に見えることの方が圧倒的に少ない世の中で、目に見えないものが大切なのはわかっている

粒子は全て波であるし、生命はエントロピーが増大する方向に動く。
マクロもミクロも宇宙でできている。

そんな世の中だから「瞑想」したり「宇宙」(=自分)を感じることは大事だろう。

だけど私はやっぱりそれだけでは半分だと思う。人はとっても俗っぽい。だから失敗を繰り返し、体で覚えて泣いて喚いて笑って豊かな感性で「今」を楽しみたい。

例え今の体がかりそめの体であっても、
ただの魂の器であったとしても、
単に心を静かにするだけでなく、
自然を、宇宙を感じるだけでなく、
今ここ、リアルを懸命に生きていきたいと思う。

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