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続いていくこと

2012年初夏、当時私は大学4年生。何にも考えずに始めた就職活動が一区切りつき、達成感もなければ何の希望も見いだせなかった「単純作業」を振り返って、大失敗だったという結論にたどり着くのに、そう時間はかかりませんでした。

私は、とてつもない不安に駆られていました。大失敗だと感じてしまう就活の結果が生む未来は、果たして楽しいのか、と。そして、行きたくもない場所で消耗するだけの生活を想像したら、その未来を受け入れるのがとたんに怖くなりました。どうしようか考えた末、これはきっと、自分と環境を大幅に変えるしかないんだ、と一念発起。単純だけど、そのために一度、日本から出てみたい。その一心で、「魅力的」だと心から思える会社の求人を、探して、探して、探しまくる日々が始まりました。

留学に行ったこともなければTOEICすらまともに受けたこともなく、そもそも情報系の高校・大学に進学して英語自体遠い存在だった私。まずは英語のスキルを見て何社も断られ、少し進めたとしてもその先のSkype面接で突然英語でのインタビューが始まって頭が真っ白になり・・・。海外就職したい明確な動機もなく、日本の就活で私が感じた違和感を言葉にできずに悪戦苦闘しながら、それでもなんとか心から素敵だと思った会社に貰った内々定。9月に国内で面接してもらった後、2012年の11月に初めてカンボジアへ渡り、現地での最終面接を経て、就職が決まりました。

その最終面接のための渡航が、一人で海外に出た初めての経験でした。初めて自分でチケットを取り、インチョン経由のコリアンエアーで深夜にシェムリアップに到着。飛行機を降りるとそこはじめじめと蒸し暑くて、時計の設定を間違えたのかと疑いました。入出国カードの記入に手間取って、空港の外に出られたのは23時をすぎたころ。空港から市街地への国道6号線をトゥクトゥクで走っていると、ローカルレストランのあかりがぽつぽつとともっていて、遅い時間なのに人の影がたくさんあります。初めて見るカンボジア人は、思っていたより色黒じゃなくて、手足が長くてすらっとしてる。初めて見るカンボジアの街は、ほこりっぽくて、思っていたより都会で、タイカブがいっぱい走ってて、そしてゴミだらけで。夕方から夜にかけて独特の甘い匂いを放つ「ロムドゥオル」という花の匂いに心が躍って。私はもうすぐここで暮らせるんだと、胸が高鳴ったのを覚えています。

この最終面接兼旅行の時に、知人からすすめられて初めて訪れた「伝統の森」は、それから先の私にとって、心のよりどころのような場所になりました。

もともと友禅の職人だった森本喜久男さんが、内戦で失われた「奇跡の布」を復活させるために作られた「IKTT クメール伝統織物研究所」。シェムリアップ中心部からトゥクトゥクに揺られて40分ほどの距離で、途中からは赤土、未舗装のがたがた道でした。2012年11月に初めて訪れたときは、はるか彼方からトラックが走ってくるのが分かるぐらい砂埃が撒きあがって、すれ違うたびにわき道にそれて、収まるのを待ってまた走る、を繰り返して、ようやくたどり着きました。

事前にFBで連絡していた森本さんは「いらっしゃい」と穏やかな声で私を迎えて、森の中を自由に見学させてくださいました。「伝統の森」は、150人以上の人が暮らしながら、1枚数百ドル、数千ドルの値がつく「奇跡の布」を生み出す場所。男性は田畑を耕し、牛を育て、家を建て、それぞれの仕事をする。女性は、在来種「カンボウジュ」の蚕を育て、黄金の糸を紡いで、植物を薄く薄く裂いたもので絹を括り、自然のなかで集めた染料や媒染液を使って丁寧に染め上げ、括った糸を少しほどいて、また別の色を入れ・・・、何度も何度も繰り返してできた糸を、1本1本経糸に通していく。初めて目にする「クメール絣」のてしごとは、織物について何も知らない私にも分かる、丁寧で、途方もないものでした。

その後一緒にお昼を頂いたとき、「どうしてシェムリで働きたいの」と聞かれました。私は思ったまま正直に、「うまく言葉にできないんです。だから、動機も不十分で何もわかっていない自分が、友達も家族も居ない場所でやっていけるのか不安で。」というような内容の事を話したと思います。そうしたら森本さんは、「ここが心地いいと思ったら、住む場所ぐらいは用意できるから、自分で仕事を作って暮らしても構わないよ。だから、うまくいかなくても、難しく考えなくていい」と言ってくださいました。「ここの人たちはみんな、そうやって暮らしている」とも。そっか、そんなに大変なことじゃないんだ。途上国に移住するのも、自分が暮らしたい場所で暮らしていくことも。もっと、シンプルでいいんだな。私はその森本さんのおおきくて温かい言葉に背中をぽんと押されて、同級生のみんなが「新卒」という一生一度のブランドでそれぞれの社会人生活をはじめようとする中、日本を飛び出す決意ができました。

シェムリアップに移住してから、森は私にとってもっと近い場所になりました。誰かが日本から遊びにきたこと、お菓子をたくさん作ったことを口実に森本さんに連絡を取って、何度も遊びに行かせてもらっていました。訪問するたびに、森までの道がどんどん良くなっていきます。それでもここに来るときのドキドキ感は、格別。

高床式の家の2階のベランダの、いつもの場所で、時に少年のような笑顔で、時に職人の顔で、途方もない時間をかけて築き上げた森のことを話してくださる森本さん。「呼吸と同じリズムで織るから、気持ちよく纏えるんだよ」「化繊にはこの色合いは出せない。自然のものには勝てない。それを知っているのはこの森で暮らすおばあたちなんだよ」森本さんはいつもそう仰っていました。そんな、私の大好きな森本さんが、長い闘病生活の末永眠されたのが、2年前の今日、7月3日のことでした。

カンボジアでの仕事をやめて日本に帰ってから、しばらくぶりにカンボジアに行ったのが、2017年の6月。この時は11日間の旅程で、バンコクからホーチミンまでふらっと旅行し、もちろん森も訪れました。そのとき日本の病院とシェムリアップを行き来していると仰っていた森本さんは、少し小さくなられたような気がしました。でも、森で紡がれた糸を使った手作りの商品を売りたいと、試作を見せた友人に、森本さんは「素敵だなあ」「嬉しいな」と目を輝かせてくれました。

森本さんの訃報を聞いたのは、旅行を終えて日本に帰ってから1週間ぐらい後のこと。

FBで、森本さんがあの後亡くなられたことを知り、何でこんなに泣けるのか自分でも分からないぐらい泣きました。

そしてその1年後、2018年の6月。前回の訪問でまた背中を押してもらった私は、それから一年の間に新たなチャレンジをすることを決め、その目標をなんとかクリアしていました。

森本さんの家につくられた祭壇の前に座り、前回訪れてからの1年で、JICAに合格したこと、もうすぐ訓練が始まること、カンボジアの隣の国で一村一品にかかわること、今回はその仲間になる2人とカンボジアに来たことを、報告しました。顔をあげると、目の前には穏やかな顔の森本さんの写真が飾られていて、そこでやっと、森本さんもう居ないんだなあと実感して、また泣きました。

その後、私は、括りや染めの職人のお母さんたちとハンカチ染めをさせてもらいました。ここをくくりなさい、こっちはどう?と皆できゃいきゃい言いながら括った布を、プロフ―と鉄媒染で鮮やかな黄色や緑に染めて、しばらく森の中を歩きました。

『これは普通に染めても綺麗な色にならないけど、鉄媒染で染めると驚くほど濃い黒になるんだ。』

『これは今着ているズボンを染めた色、こっちは鮮やかな黄色。捨てるものなんて何もない。』

『ここにあるもの全部が、村にとっては宝物なんだよ。僕はね、土から布を創る錬金術師だって自分で思ってるんだ。(笑)』

きらきらの笑顔でそう話してくれる森本さんを思い出し、一緒に森の中を歩いてるみたいで、喉の奥がぎゅーっとなりました。

『若い人はね、もっと外に出たら良い。もっと、失敗したら良い。もっと、自由に生きたら良い。』

今思えば、これは森本さんだからこそ、胸の奥底までがつんと響く言葉でした。

その後、ゲストハウスのエントランスにアップライトピアノを見つけて、すこしだけ弾かせてもらいました。言葉にできないことも音でなら伝えらえるような気がして、指先に神経を集中させます。インディアン・アーモンドで染め上げた深い深い黒色の布を身に纏った森本さんが、近くに腰かけて聞いてくれているような気がしました。

きっと森本さんは、色んな人の心の中にじぶんを遺して、旅立っていかれたのだと思います。私もそのうちの一人。森本さんがくれた優しさは、もらったときと同じあったかいまま私の中に残っていて、いつでも私に力をくれる。

森本さん、今、わたしは、ラオスで何をどうしていいやらさっぱりわからなくて、やきもきする日々です。森本さんの真似事なんて到底できると思っていませんが、私もせっかく好きになりはじめたこの国で、できることは無いかなって毎日考えてます。

「伝統は守るものじゃないんだよ、守ったらそこで止まってしまう。本当の伝統はね、どんどん新しくつくっていくものなんだよ」って、森本さんの「職人」としての哲学を思い出しただけで、心が震える。今もそう。その哲学に触れるために森本さんの著書を読んで、そして貰ったことばのひとつひとつを思い出して、栄養補給する日々。

内戦で一度は失われた伝統を再構築するなんて、口で言うのも難しいし、誰にでもできることではない。ここに住まう人々の暮らしを守っていくために土地を売ったこともあった、内戦を逃れて地方に逃げ隠れた織り手に何度も頭を下げた。そうまでして森本さんは、どうしてこの森をつくり、育てたんだろう。初めに訪れたときはそう思ったけど、本を読んで森本さんのことをもっともっと知って、至った結論はやっぱり森本さんらしくて、とてもシンプルでした。

『良い布をつくりたいから。』

FBであがってくるIKTTの投稿を見ていると、森の人たちの中に森本さんが生きているのが分かります。森本さんがいなくなっても、IKTTの人たちの技術は変わらなくて、もっと言えば「新しいもの」にチャレンジする様子は、森本さんの伝統に対する考え方がそのまま体現されているよう。それが、森本さんが20年以上かけて築いてこられたものの全て。

機織り機の子守歌が聴こえる森でゆらゆらとハンモックにゆられて育った子供たちは、村のひとたちの手を見てその技術を覚え、大人になって同じように仕事をして、そうやって技術が継承されていく。そうやって、ずっとずっと続いていく。それが、『伝統の森』なのだと思いました。ああ、また森に行きたいなあ。森本さんが、恋しいなあ。

と、色々考えながら過ごした1日でした。

森本さん、また、森に遊びにいかせてください。今度こそ、保留にしたままのリクエストに応えて、マフィン作って持っていきますから。

って言ったら、森本さんはまたいつもみたいに「嬉しいな」「感謝」って言ってくれるかな。

2019年7月3日。在りし日に寄せて。

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