【論証】パートナーと同じぐらい言葉を大事にしたほうが良い理由
英文法にこんな言葉があります。
固有名詞: 手で触れられるもの
抽象名詞: 手では触れられないもの
パートナーは名詞だと考えたら、
・手で触れられるパートナー
・手で触れないパートナー
がいることになります。
手で触れられるパートナーとは、彼氏・彼女・夫・妻など、普段私達に馴染みがあるパートナーのことでしょう。
では手で触れられないパートナーとは、何なのか?
1つ例を挙げるとすると、それは普段私達が使っている「言葉」じゃないかなと思っています。
なぜかと言えば、
・言葉は手でさわれない
・頭の中でわたしたちと一緒にいる / 合体しているから
こんな理由から言語は「手で触れることができないパートナー」だと呼べるのだと思うわけです。
言葉が、パートナー?
あまりしっくりこないかもしれませんが、
事実、お付き合いの仕方次第で、あなたの人生にとって良い相棒にもなるし、悪い相棒にもなったりしますよね。
言葉は知らず知らずの内に、私達のパートナーになっている。
漢字を学ぶ、英語などの外国語を学ぶというのは、私達の中にパートナーを作ることに他ならないと、私は思う。
それでも、頭の中にパートナーを作るというのは、摩訶不思議な感じがするかもしれませんね。
「英語は勉強するもの」、「漢字は詰め込むもの」、だなんて言う、聞いているだけで分かれたくなってしまうような一般通念は、いったんここで捨ててみましょう。
心を開いて、好奇心を持って、考えてみましょう。
頭の中に、さわれないパートナーを作ったり、持ったりするのは、どういう感覚のことなのか?
これは恋話なんだ、という軽い気持ちで読んでいただけたらと思います。
感覚のお話ですから、ここでこんな疑問を投げかけてみようと思う。
触ることができる物が集まりました。集合体は手で触れますか?
なるほど、
鉄が集まって車になっても、やはり触れる。
水が集まって海になっても、氷になっても、やはり触れる。
触れる部分が集まって全体になっても、やはり触れる。
それでは、
触ることができないものが集まりました。集合体は手で触れますか?
数人の声を集めて騒音にしても触れない。
10単語集めて1つの文にしても触れない。
触れないものが集まっても、やはり触れない。
どうです?
普段私達が頭の中で対話している日本語言うのは、抱きたくても抱けない、触りたくても触れない、狂おしい存在だということ。
言葉って、触れない。
でも、届いたりする。
温かみがあると言われたりする。
反対に、受け取れたりとか
冷たいとか、トゲがあるとか言われたりする。
どうやら、
言葉は「触れはしないけど、感覚できるもの」
ということになるらしいです。
身の回りで「触れはしないけど、感覚できるもの」は何か無いかなと探してみたら、
「熱」
じゃないかなと思ったわけです。
それに、言葉にはエネルギーがあるだなんて言いますから、言葉には熱があると言うのは的外れではないように思います。(熱=エネルギーですし)
それはさておき、
熱は確かにそれ自体は、さわれませんよね。
言葉も確かにそれ自体は、さわれません。
ところが、
熱が強まり火になれば、触覚によって、感じることができます。
同じように、
言葉も強まり、メッセージになれば、心によって、感じることができます。
するとどうやら、
私達が宿している言葉という相棒(パートナー)は、普段は存在を感じさせませんが、メッセージ性を帯びた時に、感じることができるようです。
では、そのメッセージ性にはどのようなものがあるのでしょうか?
粗く分けたら2種類あると思います。
それぞれ、「良いメッセージ」と「悪いメッセージ」です。
いわゆる、「ありがとう」とか「おはよう」という前向きな言葉には、「良いメッセージ」が込められています。
「死ね」とか「消えろ」という後ろ向きの言葉には、「悪いメッセージ」が込められています。
例えば、「死ね」という言葉を考えます。その悪いメッセージが相手に向かうと、傷つく、つまり悪いメッセージを感じることになります。相手に炎をかけたら、火傷するのと、何ともよく似ていますよね。
彼氏・彼女(パートナー)と喧嘩したあと傷つくのはこのためです。
同じく、自分に対して向けても、自分自身は傷つきます。つまり、焼身自殺です。
言い換えると、頭の中にいるパートナーに、傷つけられている状態です。
そう言えば先ほど、
さわれるもの、さわれないもの、のお話をしましたよね。
傷についてはどうでしょうか?
手にさわれる何かが傷を与えた場合、それは物質的な損傷ですから、物質によって治すことができますよね。だから薬が効きます。
では、手にさわれない何かが傷を与えた場合の傷は?
それは、非物質的な損傷ですから、物質によっては直せません。つまり、薬は効きません。
だから、自分の頭の中の、その見えないパートナーとの仲は常に良く保っていないといけない。なぜなら、火傷薬はないから。
そんな気がしませんか?
だから言葉は大事にしないといけない。
パートナーと同じくらいに大事にしないといけない。
ここでお話を終わりにしても良いのですが、なんだかもう少し深く分析したくなってきました。もう少し、お付き合いいただけるでしょうか?
ここからが楽しくなるところです。
インドに「ウパニシャッド」と呼ばれる聖典があります。
ざっくり言えば、キリスト教で言う聖書のようなものです。そこで、「言葉の本質を捉えているかもしれない!」と思わせてくれる言葉に出会ったことがあるのです。
「神学的対論」という章の第一章の内容で、こんなやり取りがあります。
「この世の全ての人は死ぬけど、どうやったら死から逃れられるか?」
「火によって。つまり、言葉によって。」
分かりやすいように、筆者が対話をいじって簡単にしましたが、概要はこのとおりです。
注目したいのは、「言葉=火」と表現している点です。
ウパニシャッドは、紀元前からある書です。
2000年以上昔の人が、言葉の本質を「火」だと捉えていたということ、すごくありませんか?
冒頭でこんなことを書きましたよね。
(パートナーは) お付き合いの仕方次第で、あなたの人生にとって良い相棒にもなるし、悪い相棒にもなったりしますよね。
これを火に置き換えてみたら、どうでしょうか?
火は使い方次第で、福にも災いにもなる。
これを言葉に置き換えてみても、見事に意味が通じます。
言葉は使い方しだいで、福にも災いにもなる。
ここで先程出てきた、ウパニシャッドの「死」を「一巻の終わり」として、つまり「破局」に置き換えて読んでみると、
破局から逃れる方法は言葉によってである
と要約できるはずです。
言葉はパートナーそのものです。
彼氏彼女といった人間の形をしたパートナー同様、良い関係を続け、破局を避ける鍵を握るのは言葉であると言えます。
だから言葉は大事にしないといけない。
パートナーと同じくらいに大事にしないといけない。
と、こんな具合に思った次第です。
日頃から言葉に深く関わるNote民の私達から、言葉との関係性をいつも以上に大事にしていったら、きっと世の中もっと良くなると思います。
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