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『名誉と恥の宣教学』

 これから、一冊のキリスト教書籍について、紹介していきたいと思います。

 Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsというタイトルで、Jayson GeorgesとMark D. Bakerという2人の宣教師経験者による、全部で300頁にぎりぎり届かないくらいの英書です。

 タイトルをそのまま訳すと、『名誉と恥の文化で宣教する――聖書的根拠と実践のための基礎』となるでしょうか。

 要するに、「名誉と恥が重んじられる文化で、キリスト教をどのように伝えていくべきか。聖書から学び、どう実践するかについて考えよう」という本です。

 このタイトル、そのままでは少し長すぎるため、これからの投稿では『名誉と恥の宣教学』と呼びたいと思います。これは本書でも用いられている“honor-shame missiology”(13頁)という言葉を参考にしたものです。

 なんとなくの全体像を把握していただくために、まずはこの本の構成を以下に記します。

    1章   恥の世界
第1部 文化人類学的考察
    2章   名誉と恥の文化の核心
    3章   名誉と恥の文化の外見
第2部 聖書神学的考察
    4章   旧約聖書
    5章   イエス
第3部 実践的宣教
    6章   霊性
    7章   関係性
    8章   伝道
    9章   回心
    10章 倫理
    11章 共同体

 これからしばらく、各章の内容をざっくりまとめたものを、定期的に投稿していきたいと思います。

 各章とはいっても、とりあえずは「第1部 文化人類学的考察」と「第2部 聖書神学的考察」に絞ることにします。「第3部 実践的宣教」については、ゆくゆく考えたいと思います。

 目安としては、毎投稿2000字程度。本気で詰めればA4二枚に収まるくらいの長さです。1回の投稿を読むのにかかる時間は5分くらいでしょうか。それくらい「ざっくり」まとめていきます(今回の投稿は少し長めです)。

 各章(1章〜5章)の要約は、現段階(2021年5月)でほとんど完成しています。あとは忘れずに投稿するだけ。「二日に一回」のペースで投稿していきます。

 「第2部 聖書神学的考察」の「5章 イエス」は、詳しく要約するために2回に分割します。なので、今回を含めて全部で7回の投稿になる予定です。

 さて、「恥」というのは厄介なものです。

 ひとたび恥をかくとなかなか忘れられない。怒りや悲しみ、否定的な感情の数々を呼び起こすのが「恥」というものではないかと思います。

 また恥には、個人の感情にとどまらない、社会的な側面もあります。「社会的地位」や「肩書き」のゆえに、見下されたり恥をかかされたという方もおられるでしょう。

 一方で、「名誉」というものもあります。

 日頃あまり使わない、したがって馴染みのないことばに聞こえるかもしれません。しかし、「人に認められたい」「称賛されたい」といえば、思い当たるふしがあるのではないでしょうか。

 名誉は名誉で、厄介な問題を引き起こすことがあります。

 人からの名誉を求めれば求めるほど、認められよう褒められようとすればするほど、それがかなわなかった時に感じる「屈辱」すなわち「恥」は大きくなります。

 このように、「恥」と「名誉」は分かちがたく結びついています。

 この本は、その「名誉と恥」の問題を聖書の視点、そして宣教師としての経験の視点から取り扱ったものです。

 著者は、いわゆる「西洋」の文化に育った人たちで、しかも2人とも「名誉と恥」が強く支配するとされる文化(中央アジアとアフリカ)で宣教師をしていた経験があります。

 この2人の視点から、聖書の神が「名誉と恥」をどのように取り扱っておられるか、また私たち人間が「名誉と恥」とどのように向き合うべきか、詳しく解説されてゆきます。

 一例を挙げて、今日の投稿は終わりにします。

 新約聖書ルカの福音書7章36〜50節について解説したものです。

 この箇所の記述を、新改訳2017から引用します。少し長いですが、読んでみてください。

 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 この箇所では「イエス」と「一人の罪深い女」との交流に光が当てられます。

 「罪深い女」と呼ばれたその女性は、イエスの足元に近寄り、泣きながらイエスの足を涙で濡らし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗りました。

 イエスに対する彼女の“親密”な振る舞いは、当時の価値観においてはスキャンダラスな、恥ずべき行為でした。現代でも、実際に行われているのを目撃したら、目のやりどころに困るのではないでしょうか。

 またイエスご自身も、彼女の行為を許したままでいたら、「なんと破廉恥な!まっとうな男なら、すぐにやめさせるべきだ」と非難されてしまうかもしれません。

 しかしこの箇所について、本書は以下のように解説します。

「しかしイエスは、ご自分の名誉を守ろうとはなさいませんでした。むしろ自分の評判を傷つけてでも、その女を受け入れ、そして守られたのです。[中略]イエスは、彼女の身代わりとなって恥を負われたのです。…」(101頁)

つづく → 第1章 恥の世界

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press.

【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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