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第2章 名誉と恥の文化の核心 (『名誉と恥の宣教学』)

前回の記事はこちら → 第1章 恥の世界(『名誉と恥の宣教学』)

はじめに

 これから2回に分けて、「文化人類学的考察」の章を要約していきます。

 聖書への言及もありますが、どちらかというと「宣教の現場」に関わる内容と言えそうです。

 今回は、名誉と恥の文化の「核心」とでも呼ぶことのできる事柄をいくつか確認していきます。

「恥の文化」と「罪の文化」

 まずは、「名誉と恥の文化」を「潔白と罪の文化」と比較してみたいと思います。よく「恥の文化 vs. 罪の文化」として対比される2つの文化です。

 とはいえ、これら2つは「はっきりと切り分けられるものではない」ということに注意する必要があります。

 あくまで、「ある文化において、恥と罪のどちらがより強い力を持っているか」という問題に過ぎないということを、心に留めておいてください。

 では、それぞれの特徴をいくつか対比していきましょう。

 潔白と罪の文化では、「自分の内にある信念に従うこと」が重んじられる
 名誉と恥の文化では、「周りとの関係を保つこと」が重んじられる
 潔白と罪の文化では、望ましい行動が「ルール」によって定められる
 名誉と恥の文化では、望ましい行動が「共同体の理想」によって定められる
 潔白と罪の文化では、「何を」(=その人の行動など)に注目が集まる
 名誉と恥の文化では、「誰が」(=その人の地位など)に注目が集まる

 これらは、あくまで分かりやすい特徴を取り出して対比させたものです。「恥の文化ではルールが全く重んじられない」というわけではありません。

 ともあれ、このような対比によって「名誉と恥の文化は何を重要と見なしているのか」が理解しやすくなるのではないでしょうか。

名誉の定義

 名誉とは「社会におけるその人の価値」と定義されます。

 「社会における」ものであるため、名誉は、その社会の中での「他の人との関係」によって決まることになります。

 そのため、「誰とどのような関係を持つか」が「名誉を得るか、恥をかくか」を大きく左右することになります。

恥の定義

 恥とは「人から低く見られ、一緒にいたくないと思われること」と定義されます。

 旧約聖書のヨブ記にとても分かりやすい例があります(19章13〜19節)。

「神は私[=ヨブ]の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。親族は見放し、親しい友も私を忘れた。私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。[…]若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。」

 兄弟や知人、親族からも見放され(=一緒にいたくないと思われ)、また若い者からは蔑まれ(=低く見られて)いる。

 ヨブは、共同体の中で大きな「恥」を負うことになった代表的な人物と言えるでしょう。

押しつけられる恥

 さて、恥には「外から押しつけられるもの」という特徴があります。

 すなわち、ある一部の人たちに対して、他の人たちが恥を押しつけるということです。

 その「一部の人たち」とは、どのような人たちでしょうか。

 それは、多数派の人々から「望ましくない違いを持つ存在」「〈自分たち〉とは違う存在」と見なされた人たちです。

 新約聖書の時代には、次のような人たちが「恥ずべき者」として蔑(さげす)まれました。

・異邦人、サマリア人 =【人種】にかかわる
・長血を患う女性、目・耳・足の不自由な人、ツァラアト(皮膚病)に冒された人、悪霊につかれた人 =【病】にかかわる
・遊女、取税人 =【職業】にかかわる

 「人種・健康状態・職業が自分たちとは違う。しかもそれは、望ましくない種類の違いである。

 そう見なされた人たちは共同体から追い出され、恥ずべき存在として忌避されたのです。

集団主義

 多くの場合、名誉と恥の文化は「集団主義的」な社会、つまり個人よりも「集団」が優先される社会です。

 そのような社会では、人のアイデンティティはその人が属する「集団との関係」によって決められることになります。

 また、人々は集団にできるだけ馴染もうとします。

 他の人と違う存在として目立てば、「出る杭」として打たれてしまうからです。

人同士の関係を強める機会

 名誉と恥の文化(集団主義社会)では、人との関係を強め、それを広げていくことが大事になります。

 また、関係が悪くならないように、調和を保つことも重んじられます。

 そこでは「贈り物」や「おもてなし」などの機会が、人同士の関係を強めるものとして用いられます。

 すなわち、誰かに贈り物やおもてなしをすることによって、その人との関係を築き上げていくということです。

 そして、人から受けた恩恵を「お返しする」(互恵)という感覚が、人同士の関係をさらに強めます。

 逆に「お返し」ができなければ、恩恵を与えてくれた人に負い目(極度の申し訳なさ)を感じたり、関係が悪くなってしまうことさえあります。

 名誉と恥の文化では、人同士の関係が緊密になりやすい反面、そのような「社会的負債」の脅威も存在しているのです。

恥の伝染

 集団主義社会において、ある個人が犯した恥は、その人が属する共同体全体の恥となります。

 例えば、放蕩息子に対して父親が「お前はこの家の恥だ!」と言ったとしましょう。

 この叱責は、一見すると息子個人を責めているように見えて、実際は、家族全体が恥をかかされたことへの憤慨が表れています。

 息子の恥が、家族の恥となった。すなわち、息子個人の恥が家族全体に「伝染した」のです。

 ちなみに、聖書では「民が神に恥をかかせた」と読める箇所があります。

 例として、新約聖書ローマ人への手紙2章24節「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」を挙げることができます。

 卑近な表現を用いれば、「民が神の顔に泥を塗った」と言い換えることもできるでしょう。

まとめ

 ここまで、名誉と恥の文化の「核心」「本質」とも呼べる特徴について見てきました。

 次回は、このような特徴をもつ名誉と恥の文化において、人々がどのような行動をとっているのか、目に見えるいくつかの現象を見ていきます。

つづく → 第3章 名誉と恥の文化の外見(『名誉と恥の宣教学』)

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “2 The Heart of Honor-Shame Cultures,” pp.33-48

【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が強く反映されている可能性があることもお断りしておきます。

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