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「分かる」から「分からない」へ

 勉強の1つの側面として、「分からない」ことが「分かる」ようになる、というものがあります。

 分かるようになる、このことは難しいと思われがちではないかと思います。

 勉強を嫌いになる理由は、多くの場合、どんどん分からなくなってゆくから、ということにある。

 しかし、むしろその逆の方がじつは難しい、という場合もあるように思います。

 すなわち、あることが「分かっている」状態から、そのことが「分かっていなかった」状態に逆戻りする、ということ。

 「分かるようになる」ではなく「分からないようになる」この難しさについて考えるために、ひとつ例を挙げてみます。

 僕はいま、楽譜を読むことができます。楽譜のことが「分かって」います。まあ、少なくともそのように思っています。

 楽譜というものが、音楽の流れを文字と記号で表したもので、音符とよばれる円形の符号が描かれており、その位置の高低が音声の高低に対応する、ということくらいであれば、分かっているつもりでいます(間違えていたらすみません)。

 いまのこの状態から、楽譜のことを「分からなくなる」というのは、なかなか難しいのではないか。どうすればそれが達成できるかさえ、分かりません。

 たとえば、目の前に白い紙があり、その上に、黒いえんぴつで五本の平行線が横方向に引かれていて、その線上ないしは線の間に、長い縦線のついた黒い点、が描かれていたとします。

 これをみた僕は、おそらく一瞬かつ自動的に、これは楽譜であると合点し、どのような音楽を表したものなのだろうかと、頭のなかで歌ってしまうのではないかと思います。

 ところが、その白い紙の上に「これは楽譜です」というサインはなく、それを楽譜と見なしたのは僕の勘違いに過ぎません。誰かが思いつきで適当に描いたものが、たまたま楽譜に似ていたという可能性だってあります。

 しかし、どうしても楽譜に見えてしまう。このことは、「分かっている」ことによって生み出された誤解、勘違いであるということができるでしょう。

 もしかしたら、その白い紙には別のメッセージが記されているかもしれない。それにも関わらず、楽譜のことを知っているゆえに、楽譜にしか見えない。そのために、隠されたメッセージを読み解く努力をする間もなく、それを楽譜として解釈し、片付けてしまう。

 「分かっている」ことによるこのような早合点は、書(描)かれたものの本来の意味・意図を知ることを妨げる障害物となり得ます。

 (この投稿での考察は「分かる・分かっている」ことの持つポジティブな側面を否定するものではありません。ただ、反省が有益であるということを、意図したものであります)

 なにかを「分かっている」というとき、「自分は、そのことを本当の意味で分かっているのだろうか」と問うのが重要であることは、言うまでもありません。

 これは、たとえば「私は自分のことが分かっている」というとき、本当に自分のことが分かっているかを、自分に対して批判的態度をとりながら検証してゆく、というような場合です。

 それとならべて、「そのことが『分かっている』とはそもそもどういうことかなのか」「なぜ『分かっている』といえるのか」などの根本を問うことも、おもしろいのではないかと思います。

 翻って、「そのことが『分からない』とは一体どういうことなのか」について反省するのも、ますますおもしろく、また重要なのではないかと思います。

 「分かる」ということについて、また「分からない」ということについて考える。

 この反省が、ひとに「分かる」ように説明することの、助けにもなるのではないかと思います。

20191127(※過去にFacebookにあげたものを再投稿)

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