見出し画像

第5章 イエス② (『名誉と恥の宣教学』)

前回の投稿はこちら → 第5章 イエス①(『名誉と恥の宣教学』)

はじめに

 前回の投稿では、イエスの誕生と生涯、また死と復活に見られる「名誉と恥」に注目しました。

 今回は、イエスの具体的な「教え」や「たとえ話」に注目します。

 イエスがどのように、当時常識とされていた「名誉と恥」の価値観をひっくり返したか。そのことを学んでいきたいと思います。

山上の説教と名誉のコード

 「山上の垂訓(すいくん)」とも呼ばれる一連の教えには、常識を転覆させるような宣言がいくつも含まれています。

 イエスの時代の社会において、「どのような振る舞いが名誉ある行動か」や「どのような人が敬われる人物か」ということは、ラビ(宗教家)によるトーラー(律法)の解釈によって決められていました。

 宗教的な権威をもつ人たちが決めた「常識」によって、人々の「価値」が定められていたとも言えるでしょう。

 宗教のルールを守ることのできる人物は“立派”で“尊敬に値する”と見なされた一方、それを守れない人々は恥ずべき存在として見下されました。

 そのような社会で、イエスは「対抗文化的な名誉のコード」を宣言しました。

 当時の文化や常識に対抗するような、名誉観を打ち出したのです。

 例えば、山上の説教の冒頭には「○○な者は幸いです」という一連の教えが並べられています。The Beatitudes(八福の教え)と呼ばれるものです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」(マタイの福音書5章3節〜11節)

 この「○○な者は幸いです」ということば、文化的背景を考えるならば「○○は名誉ある者です」と訳すのが適切だと考える学者もいるようです。

イエスによる価値観の転覆――立派な振る舞いときよめの規定

 イエスは、当時の社会で「立派な振る舞いとみなされていたもの」をことごとく転覆しました。

 「人々の目には不名誉と見なされていたとしても、神の御目には名誉である」と宣言したのです。

 イエスは「恥負う者こそ名誉を受ける」という逆説的なメッセージを伝えました。

 これは「後の者が先になる」ということばにも共通して流れている思想です。

 当時の宗教家たちは、律法の行い、食物規定、安息日の遵守などを徹底することで、“汚れた”異邦人から自分たちを区別しようとしました。

 しかし、律法遵守や神殿祭儀ではなく、イエスに従う者こそが「きよい」「聖なる」「神に認められた」存在であることを、イエスはことばと行動とをもって示したのです。

恥に手を触れたイエス

 当時、身体的な“欠陥”を患う人は特に社会から排除されていました。病は「社会的な恥、不名誉のしるし」と見なされていたのです。

 このような社会において、イエスは驚くべき行動に出ます。

 ツァラアト(重い皮膚病)に冒された人、社会から「汚れている」とみなされた人に、イエスは手を触れ、そして癒されたのです。

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」(新約聖書マルコの福音書1章41節)

 彼らは神殿に入ることも許されず、人々の家からも隔離されていました。

 皮膚病は伝染するとみなされていたからです。

 また病だけではなく「社会的な穢れ」をうつされないために、人々は病人を避けました。

 しかしイエスはその常識に従うことを拒み、病人に手を触れられました。恥負う者と距離を置くのではなく、積極的に近づいて行かれたのです。

 その後イエスは、皮膚病が癒された人物に向けて、「祭司に自分を見せ、きよめのささげ物をささげるよう」にと伝えます(マルコの福音書1章44節)。

 この儀式的行為には、社会的にも重要な意味がありました。

 共同体から排除されていたその人物が、「共同体に復帰したこと」の証拠となる行為であったのです。

パリサイ人シモンと罪深い女

 ある日、イエスはシモンという名のパリサイ人の家に招かれます(新約聖書ルカの福音書7章)。

 少し長いですが引用します。

「さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカの福音書7章36節から50節)

 イエスが食卓につくと、そこに「罪深い女」が入ってきました。

 ここで「罪深い女」と呼ばれている女性は、「娼婦」であったと考えられています。社会の「周縁」に追いやられた人です。

 娼婦になったから周縁に追いやられたのか、それとも、周縁に追いやられた結果(親が破産して娘を“売り”に出した結果)娼婦になったのか、それは分かりません。

 とにかく、人々から「罪深い女」(39節)と呼ばれていたことを考えれば、彼女が見下げられた存在であったことは明らかでしょう。

 さて、パリサイ人シモンの家に招かれたイエスですが、丁重なもてなしを受けていませんでした。

 シモンに対するイエスのことば、「あなたは足を洗う水をくれなかった」(44節)がその無礼を表しています。

 丁重な(というより、当時の社会では当然の)もてなしを行わなかったことは、イエスに対するシモンの侮辱を表しています。

 それを見た「罪深い女」は、イエスのために丁重な「もてなし」を実践します(44節〜46節)

 しかし、イエスの足を自分の「髪の毛でぬぐう」というのはあまりにも“親密すぎる”行為でした。

 ここでイエスは、パリサイ人シモンに対し「公開討論」を持ちかけます。

「シモン、あなたに言いたいことがあります」(40節)

 「名誉をかけた舌戦」とさえ言えるかもしれません。

 一つのたとえ話を用いて、シモンの判断を試そうとなさいました。

 とは言っても、ただシモンを論破しようとされたわけではありません。

 イエスが討論を持ちかけたのは、第一に「罪深い女」に対して愛を示すため、彼女を弁護するためでした。

 しかし、パリサイ人シモンに対する愛も見落とすわけにはいきません。

 彼自身がもつ「排他的な名誉観」を修正し、神また隣人との正しい関係の回復を促すためにも、イエスはシモンに討論を持ちかけられたのです。

おわりに

 イエスは、ご自分の名誉を守ろうとはなさいませんでした。むしろ自分の評判を傷つけてでも、その女を受け入れ、そして守られたのです。

 彼女の「身代わり」となって恥を負われた、ということもできるでしょう。

 人々の軽蔑の眼差しを彼女から奪い取り、ご自身の身で引き受けられたのです。

 社会から除け者にされ蔑まれた人たち(取税人、娼婦、病人……)と語り合い、また食事をともにすることで、イエスは社会的・宗教的な慣習に立ち向かいました。

つづく → 第5章 イエス③(『名誉と恥の宣教学』)

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “5 Jesus,” pp.91-114

【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が反映されている可能性があることもお断りしておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?