「ディスタンス」変遷
コロナ以後、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉を頻繁に耳にするようになりました。
正直なところ、ソーシャル・ディスタンスのどこが「ソーシャル」なのか、ずっと疑問でした。
例えば、私の身近なところでは、教会などでも「家族以外の人とは十分な距離をとりましょう」という意味で、「ソーシャル・ディスタンスを保ちましょう」というような表現が用いられます。
人との距離を保つという意味であるならば、単純に「フィジカル・ディスタンス」でいいのではないか(あくまでカタカナ語に拘り続けるのであれば、ですが)。
すなわち、他者との間に十分な空間を確保するという距離の取り方は、社会的(ソーシャル)というよりも、物理的(フィジカル)なのではないか、ということです。
ソーシャル・ディスタンスの何が「ソーシャル」なのか、おそらくちょっと調べたら分かることなのだろうと思いますが、今回はそこまでの意気込みはありません。
しかし、本来の意味とは異なるのかもしれませんが、フィジカル・ディスタンスをとり続けた結果として、皮肉にも、ソーシャル・ディスタンスが生まれてしまっている、という現状はあるように思えます。
言い換えると、他者との物理的な距離を空けざるを得ない状況が続いた結果、心理的な距離が生まれ、さらにそのことによって、他者との間に関係的・社会的な距離(もしくは、壁)が生み出されてしまった、ということです。
以前読んだ論文の中で、他者との心理的な距離を詰めること、すなわち人と親しくなることを恐れる対人恐怖症患者は、人との物理的(身体的)距離をも過剰に保つ傾向にある、という研究が紹介されていました。
人との物理的・心理的距離を過剰にとり続けた結果、多くの患者は「社会的」にも孤立することになる、という方向に話が進められていたと記憶しています。
少し飛躍があるかもしれませんが、物理的・心理的・社会的な距離の間に何らかの関連があるということは、多くの人の直感に合うものなのではないかと思います。
本題に戻ります。
一般に用いられる「ソーシャル・ディスタンス」という言葉は、実のところ単に「フィジカル・ディスタンス」を指すだけのものであった。しかし、他者との間に物理的な距離を保ち続けた結果、皮肉にも、社会的な距離が開くようになってしまった。
ここでの「社会的な距離」とは比喩で、具体的には、他者との意思疎通の失敗、誤解や意見の対立による関係の悪化、などのネガティブな産物を意図しています。
ソーシャル・ディスタンスとは、本来私たちが能動的に生み出そうとする類のものではなく、フィジカル・ディスタンスの副産物として受動的に生み出されてしまったものである、というのが今回の論旨です。
……
実際に会って時間を過ごしたり、空間を共有しながら話をするなどの機会が減った今、誤解の生まれる余地は大きくなっているものと思います。
このような状況においては、誤解が生じるのは当然のことだと半ば諦めた上で、よりいっそう丁寧な対話を心がけたい。
相手の真意を互いに確かめ合いつつ、時間の圧迫を受けるなかでそれでも時間をかけながら、対話を進めていきたい。
(20200804にFacebookに投稿したものを再投稿)
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