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第1章 恥の世界 (『名誉と恥の宣教学』)

前回の記事はこちら → 『名誉と恥の宣教学』

はじめに

 今回の投稿では、各章の内容を先取りしてざっくり紹介することになります。また、本書全体の前提となる事柄についても触れます。

 「ぼんやりし過ぎていてよく分からない」と思われるかも知れませんが、次回以降の投稿で詳しく掘り下げていきますので、ひとまずご辛抱ください。

「名誉と恥の宣教学」とは

 「名誉と恥の宣教学」とは、「恥を負う人たちに対して、神が与えてくださる名誉を宣べ伝える、聖書的なアプローチ」です。

 その前提には、次のような人間理解・神理解があるといえるでしょう。

「人間は恥をかかえながら、名誉を求めて生きている。」
「神は恥負う人間のために、名誉を回復させようとしておられる。」

神の名誉を受けるはずだった人間

 さて、人間はもともと神のまことの「名誉」「栄光」を受けるために造られました。

 しかし神に背いたことで、その名誉と栄光は「恥」に乗っ取られることになります。

 その結果、人間は自分が望むやり方で、名誉また栄光を求めるようになりました。神が意図しておられたのとは違う、歪んだやり方で。

 私たちは、他の人の名誉を奪ってでも自分の名誉を追い求め、また守ろうとするようになってしまったのです。

 これは「恥」のことばで言い換えることもできます。

 他の人に恥をかかせてでも、自分が恥をかかないように、他者を犠牲にして生きるようになってしまった、と。

聖書が著された世界の「名誉と恥」

 聖書はもともと、「名誉と恥」が強く支配する文化で著されたものです。

 そのことを表す一例として、聖書に多数登場する(そして多くの人が読み飛ばす)「系図」を取り上げましょう。

 なぜ、聖書には系図が数多く出てくるのでしょうか。系図の何が重要なのでしょうか。

 「系図」とは、ある人の先祖がどのような人であったか、どのような家系から出てきた人物であるかを表すものです。

 その背後には「名誉ある部族や家系出身であるか、それとも平凡な出自であるかによって、その人自身の名誉(価値)が決まる」という前提があります。

 例えば、新約聖書は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書1章1節)ということばから始まります。

 「イエスの先祖は、あのアブラハム、そしてダビデ王である!」と述べることで、イエスの出自は名誉に満ちたものであったということを強調しているとも言えるでしょう。

 聖書のなにげない記述の背後にも、「名誉と恥」の価値観が隠れていることがあるのです。

ギリシャ・ローマ世界における「名誉と恥」

 聖書以外にも、当時の世界がいかに「名誉と恥」を重んじていたかを伝える言葉が残されています。

 以下は、ギリシャ・ローマ世界の哲学者の言葉です。

「有力者は、何よりも名誉を求めて競っている。」(ギリシャの哲学者アリストテレス)
「ローマ人は絶えず他者の目にさらされ、誰もがみな、人から受けた名誉を数えながら暮らしている。」(ローマの哲学者/政治家キケロ)
「名誉より神聖なものなどあるだろうか?」(ローマの哲学者ディオン・クリュソストモス)

 「名誉と恥」が支配した世界において、イエスまた使徒たちはどのように福音を伝えたのか。

 聖書に記された「名誉と恥」を正しく理解することで、そのあり方を学んでいきたいと思います。

「文化」の分類

 本書は、世界の文化を大きく3つに分けます。

 ①名誉と恥の文化、②潔白と罪の文化、③力と恐れの文化です(それぞれ、集団主義社会、個人主義社会、アニミスティック・原始社会とも言い換えられています)。

 もちろん、「東洋は名誉と恥の文化、西洋は潔白と罪の文化」というようにはっきり切り分けられるわけではありません。

 どの価値観がその文化をより支配しているか、という「度合い」の問題に過ぎないことを理解しておく必要があります。

 とは言っても、生まれ育った文化によって、その人の世界観の形成が強い影響を受けていることも事実です。

 どのような文化に属しているかによって、その人が〈罪〉また〈救い〉をどのように理解・経験するかということも影響を受けます。

 例えば、「潔白と罪の文化」で生まれ育った人は、〈罪〉を「罪責感」として理解します。内省的な「罪の意識」を重要視するということです。

 それに対して、「名誉と恥の文化」で生まれ育った人は、〈罪〉を「恥」の視点から理解する傾向が強いようです。対人や社会における他者との関係のなかで〈罪〉を経験することが多い、ということでしょう。

「名誉と恥」の文化の暗黒面

 どの文化にも、良い面と悪い面があります。

 名誉と恥の文化もそうです。ここでは、悪い面に注目してみましょう。

 名誉と恥が強く支配する文化では、人々は次のような事柄を気にかけて生活しています。

他の人の意見、家族からの拒絶、性別による不平等、うわさ話、身内びいき、弱さをさらけ出せない、結婚するようにという重圧、体面(世間体)の重視、絶対的な服従、面前で恥をかかされること……。

 毎週日曜日に教会に通い、そこで「罪からの救い」の話を聞いたとしても、日常で関心を占める事柄は、ここに挙げたような「名誉と恥」に関わる問題なのです。

 そのような世界に生きる人たちが福音を知り、キリストの弟子として歩んでいくためには、まず福音を伝える側が、聖書的に「名誉と恥」を理解する必要があるのです。

神の救いとは

 本書は、「神の救い」の根底には「恥を取り除き、名誉を取り戻す」という神学的主題があると考えます。

 キリストのみわざは、罪によって生じる罪責感だけでなく、罪が引き起こす「恥」をも取り除くのです。

 神は、ご自身また人間の「名誉」を回復させることを強く気にかけておられる。その名誉の回復のために、イエスは十字架という「究極の恥」を自ら負われたのです。

つづく → 第2章 名誉と恥の文化の核心(『名誉と恥の宣教学』)

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “1 A World of Shame,” pp.11-30

※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が強く反映されている可能性があることもお断りしておきます。

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