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第5章 イエス③ (『名誉と恥の宣教学』)

前回の記事はこちら → 第5章 イエス②(『名誉と恥の宣教学』)

はじめに

 前回の投稿では、イエスの教えまた行動に見られる「名誉と恥」に注目し、特に「山上の説教」と「罪深い女とのやり取り」を取り上げました。

 今回もまたイエスの教えと行動に注目し、人間の名誉と恥をどのように取り扱っておられるかを学びたいと思います。

 そのなかでも特に、一般に「放蕩息子」のたとえ話として知られるルカの福音書の物語について深掘りしていきます。

「放蕩家族」のたとえ話

 新約聖書ルカの福音書15章には、有名な「放蕩息子の話」が語られています。これまた長いですが、引用しましょう。

 「イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」(ルカの福音書15章11節〜32節)

 さてまずは、「イエスは誰に対して、どのような経緯でこの話をされたのか」を知る必要があります。

 その答えは、15章の冒頭に記されています。

「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。……」(ルカの福音書15章1節〜3節)

 イエスは「罪人」と呼ばれた人たちを受け入れ、食事をともにしていました。

 それを見た宗教指導者たちが、「罪人たちを受け入れて一緒に食事をするとは何事か」と非難のことばもらしたのです。

 すこし想像力を働かせてみたいと思います。

 もし僕が、イエスと一緒に食事をしている「罪人」の一人だったとしたら、どう感じていただろうか。

 「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」という宗教指導者らのことばは、かなりの侮辱に聞こえます。

 彼らはイエスに対して文句を言っているのですが、その前提として、当たり前のように「罪人」と呼ばれた人たちを見下していたのです。

 さて、一般的にこの話は「放蕩息子」(The Prodigal Son)という題で知られています。

 父の遺産を奪うように受け取り、湯水のように使い果たした弟息子が「放蕩息子」という意味でしょう。

 しかし本書では、「放蕩家族」(The Prodigal Family)という題がつけられています。どういうことでしょうか。

 その意図は、「父親」の振る舞いに注目することで見えてきます。しかしその前に、まずは息子たちの言動を見ていきましょう。

 まず、弟息子が父親に対して「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」(12節)と願い出ます。

 まだ存命の父親に対して「先に遺産をください」と言うのは、「お父さん、早く死んでください」と言っているようなものです。父親に対する侮辱と言えるでしょう。

 兄息子もまた、弟の無礼な申し出を制する様子もなく、自分に割り当てられた分を受け取ったようです。

 この家族、近所の人の目にはどのように映るでしょうか。

 息子たちの無礼はもちろんのこと、遺産を明け渡した父親も「息子たちに敬われていない威厳のない父親」として、蔑まれてしまうかもしれません。

 さて、遠い国に旅立った弟息子は、そこで財産を湯水のように使い果たし、飢饉に見舞われ、食べることにも困り始めました(14節)。

 その後、ある人のところに身を寄せ、「豚の世話」をすることになります。「豚の食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだった」とまで記されています。

 豚の世話をし、豚の餌を食べたいと思うなど、ユダヤ人としての誇りは一切失われていると言えるでしょう。

 もし故郷に帰れたとしても、村の慣習によって追放されてしまうことは目に見えていました。それほどまでに落ちぶれていたのです。

 しかし、弟息子は父親のもとに帰ることを決心します。

 彼が故郷の家に近づくと、父親が出てきました。ここで父親は、当時の慣習においては驚くべき行動に出ます。

 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(20節)

 お年寄りは、軽々しく自分から走らず、むしろ相手が近づいてくるのを厳かに待つものでした。

 体力的に「走れない」というのではなく、敬われるべき人物として「走らない」ことが求められていたはずです。

 そのため、お年寄りが走ることは、恥ずかしい、情けない振る舞いと考えられていたのです。

 しかし父親は、弟息子に駆け寄り、一番良い衣を持って来させ、指輪をはめ、履物を履かせます。かくして弟息子は、一瞬で立派な身なりに変身しました。

 父親は、自ら恥をかくような行動を取ることで、村の人々が弟息子を辱めるのを防いだのです。

 それだけでなく、肥えた子牛をほふり、弟息子の帰還を祝う宴を開きます。

 さて、ここで再び登場するのが兄息子です。

 父のもとで長らく働いていた彼は、放蕩した弟がのうのうと帰ってきて、宴を開いてもらっていることが許せませんでした。

 そして、宴への参加を断ります。父親が用意してくれた豪華な食事への招待を断ったのです。これは、父親の面目を潰すような行為でした。

 さらに兄息子は、父親を面と向かって非難し、無礼な言葉を浴びせます(29〜30節)。

 それに対し、父親は次のように答えました。

「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(31、32節)


 そして、物語は突然幕を閉じます。

 このことばを聞いた兄息子がどう反応したか、それを語ることなく話は終わるのです。

 この不自然な終わり方には、聞き手である宗教指導者たち(パリサイ人や律法学者)に対するイエスの意図が込められています。

 すなわちイエスは、彼ら自身がその物語を引き継ぎ、正しい結末を迎える生き方をするために、兄息子の反応を語らないまま話を終えたのです。

 「あなたが罪人と呼ぶ人たち、わたしは彼らに愛と赦しを与える。あなたたちも、この祝いの宴に加わる気はないか」

 そのような問いかけ、宗教指導者らに向けた「招待」が含まれていると言うこともできるでしょう。

父親の "放蕩"

 さて、一般的に「放蕩息子」と呼ばれているこのたとえ話、主人公は実は「父親」であったと考えることもできます。

 父親は、愛と赦しを伝え、息子たちとの関係を回復するために、恥をかくような行為を率先して行いました。

 これは、イエス自身の生き方とも重なります。

 イエスは、人々から敬われていた人たちと共にいるよりも、恥の眼差しを向けられてもなお、見下げられていた人々と連帯することを選ばれたのです。

おわりに

 『名誉と恥の宣教学』の要約、これまで全部で8本投稿してきました。

 とりあえず今回で一区切り、終わりにしたいと思います。

 ですが、本のなかではこれから「実践的宣教」の章が始まります。

 これまで要約してきた「文化人類学的考察」と「聖書神学的考察」を合わせた以上の分量が、この「実践的宣教」の各章に割かれています。

 具体的な宣教また教会形成の現場において、名誉と恥をどのように取り扱うべきか――この本を通して著者たちが伝えたかったメッセージは、ここにあると言えます。

霊性(Spirituality)
関係(Relationships)
伝道(Evangelism)
回心(Conversion)
倫理(Ethics)
共同体(Community)


 「実践的宣教」の各章には、これらの題がつけられており、宣教師として活動した著者たちの経験などが記されています。

 ほんとうなら、中心的に要約すべき内容だったはずですが……。また気が向けば、追加していきたいと思います。

 ということで、お読みいただいた皆さま、ありがとうございました。

おわり

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “5 Jesus,” pp.91-114

【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が強く反映されている可能性があることもお断りしておきます。

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