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第5章 イエス① (『名誉と恥の宣教学』)

前回の記事はこちら → 第4章 旧約聖書(『名誉と恥の宣教学』)

はじめに

 ついに新約聖書に突入です。

 といっても、前の章が「旧約聖書」と名づけられていたのに対し、この章は「イエス(Jesus)」という題が付けられています。

 イエスの誕生、生き方、死、そして復活がいかに「名誉と恥」にかかわるものであったか。

 この章は特別に、3回(本投稿、次回投稿、次々回投稿)に分けて、より丁寧に要約していきたいと思います。

 (もともとは「詳しく要約するために2回に分割」という予定でしたが、聖書引用を入れたら全く収まらなくなったので、3投稿に分けることにしました)

 (あと、最初に定めた「2000字程度」という約束も早々かつ存分に踏み倒しています。面目なし……ですが、このまま踏み倒していきます)

 今回の投稿では、イエスの「誕生と生涯死と復活」に見出される名誉と恥に焦点を当てます。

 次回また次々回の投稿で、イエスの「生き方/教え」に出てくる名誉と恥に注目したいと思います。

イエスの誕生における名誉と恥

 イエスの誕生においても、「恥」そして「名誉」を見出すことができます。

 イエスは、ヨセフとマリアという「結婚していない男女」の子として生まれ、飼葉桶(かいばおけ)に寝かされました。名誉からは程遠い出生と言えるでしょう。

 しかしこのイエスの誕生には名誉の瞬間も訪れました。

 イエスの誕生を告げる御使いとともに、おびただしい数の天の軍勢が現れて神を賛美したというのです(ルカの福音書2章13節)。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。
 地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 この栄光の場面、最初に目撃したのは誰であったか。

 それは「羊飼い」であったと記されています。

 当時、羊飼いは社会の「周縁」(中心から離れた場所)に置かれた人たちでした。

 その彼らが最初に、「王の誕生」という名誉ある知らせを告げられたのです。

イエスの生涯における名誉と恥

 その後イエスは、家をもつことなく各地を巡ります。

 現代の言葉を用いれば、「ホームレス(家なき人)」と呼べるでしょう。

 また、帰郷した際には、ふるさとの人々から拒絶されたことが記されています。

 これらはいずれも、イエスの生涯が「恥のまなざしを向けられる人生」であったことを示しています。

 しかし同時に、イエスの生涯は神の名誉に満ちたものでもありました。

 神の愛するひとり子として生まれ、人々の病を癒す力(権威)を持っておられたのです。

 また、律法学者らが仕掛けた「名誉をかけた舌戦」にも勝利し、論敵に「立派なお答えです」と言わしめたこともあります(ルカ20章39節)。

 イエスの誕生そして生涯は、人の目には恥と映ったかもしれません。しかし同時に、神から名誉を受けた人生でもあったのです。

イエスの死における名誉と恥

 次に、イエスの死を見ていきましょう。

 イエスの死刑に用いられた「十字架」は、究極の「恥」を表す象徴ということができます。

 「十字架」と聞くと、「激しい痛みを味わわせる残酷な刑」というイメージを持たれるかも知れません。

 しかし「激しい痛みを味わわせる」のが目的であれば、当時は他の刑もありました。

 むち打ち、頭皮剥ぎ、腕や足の切断、舌切り、熱した鉄板の上にのせて焼死させる……などです。

 十字架刑には、激しい痛み以上の苦しみを与える意図がありました。

 それは「屈辱的な死」を味わわせるというものです。

 事実、福音書は「イエスの死がどれほど屈辱的なものであったか」を特に細かく記録しています。

 イエスは、顔に唾をかけられ、着物を脱がされ、頭を叩かれ、からかいの言葉をかけられ、ほとんど裸で十字架にかけられた……。

 現代の感覚からしても、どれほどの「辱め」であったか容易に想像がつくでしょう。

 また十字架刑には、帝国への反乱を抑止するための「見せしめ」という意味合いもありました。

 「ここに架かっているのは、帝国への反逆を企て失敗した愚かな男。こいつのような惨めな死を遂げたくなければ、反乱など考えないことだ」

 そのようなメッセージを伝えるものとして、十字架が用いられたと考えられます。

 イエスの十字架は、福音書が記されたローマ帝国時代の慣習を考えると、「恥と辱め」を物語る悲劇だったのです。

十字架の恥と復活の名誉

 イエスは、恥を負う人たち、社会から除け者にされた人たちを招くために、自らの名誉・地位を捨ててこの世に降り、恥深い十字架の死に至るまで、神の意志に従われました。

 当時の価値観では、イエスの死は恥に満ちたものであったかもしれません。

 しかし神は、それを最も名誉ある行為と見なし、イエスを復活させます(ピリピ人への手紙2章6〜11節)。

「キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、
 天にあるもの、地にあるもの、
 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。」

 神がイエスを復活させたということは、イエスの生き方が(当たり前かもしれませんが)神の目にかなっていたことを承認するものでした。

 神によって承認される(=正しいと認められる、高く評価される)ことは、最大の名誉と言えるでしょう。

 一方、そのイエスを十字架にかけて殺した人間の問題、すなわち「罪」も見過ごすわけにはいきません。

 罪とは、神の名誉を汚すようなことを自らの名誉として追い求め、その結果として、他者の名誉まで奪ってしまうこと。そのように考えることもできます。

 そして、十字架でイエス(=受肉した神)を殺すということは、もっとも神の名誉を汚し、神を辱める行為でした。

 にもかかわらず、イエスは私たちの代わりに神に名誉を帰す生き方を実践し、そして私たちの代わりとなって死なれ、復活を遂げられました。

 その結果どうなったか。

「特別な地位をたまわる」という救い

 聖書では「救い」を表すのにいくつかの表現が用いられていますが、ここでは「神の子とされる」ということばに注目します。

 神の子とされる、すなわち「神の家族の一員」として迎え入れられる。

 これは、私たちに新しいアイデンティティ(地位、肩書き)を与えてくれるものです。

 ローマ人への手紙8章には、神の子とされた私たちは、キリストとともに「共同相続人」(17節)になったと記されています。

 これは、きわめて名誉ある地位と言えるでしょう。

 特に、地位を持たない人々(あるいは、恥深い地位を持つとされた人)には特別の重みがあったのではないでしょうか。

 神と和解し、「神の子」また「共同相続人」という新しいアイデンティティ(地位)を与えられること。

 これが、恥に満ちたイエスの十字架によって成し遂げられた、名誉をもたらす救いです。

 イエスの死と復活は、恥をもたらす力、すなわち誤った名誉観を打ち壊し、その恥に囚われることなく生きていくための自由を与えたのです。

つづく → 第5章 イエス②(『名誉と恥の宣教学』)

【出典】Jayson Georges and Mark D. Baker (2016) Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials. Illinois: InterVarsity Press. “5 Jesus,” pp.91-114

【聖書引用】聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

※本投稿はMinistering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentialsの内容を要約したものです。投稿内での見出し項目(太字部分)は筆者によるもので、原文によるものではありません。また、内容を取捨選択した上で言葉を補いつつまとめているため、筆者の主観が強く反映されている可能性があることもお断りしておきます。

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