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2021年8月9日(月)|聖書の翻訳比較について

 聖書を読むときは、複数の翻訳を比べながら読むのがいいと思う。というのは、別に新奇なアイデアでもない。

 解釈上問題のある箇所ーー例えば、Aという解釈とBという解釈との二つの解釈がいずれも妥当な箇所があるとする。Aの解釈を採用した翻訳しか読んだことがなければ、Bの解釈を知ることはできない(良質な注解書などを参照しながら読む場合は例外)。

 「複数の翻訳を比べながら聖書を読むことで、複数の解釈を知ることができる」という解釈上の利点の他にも、複数の翻訳を並べて読むことの価値はある。

 それは、普段とは違う翻訳で読んでみることで、読み慣れてしまった箇所を新鮮に味わい直すことができ、再び感動し、また驚くことができるというものである(はなはだ主観的ではあるけれど)。

 多くのクリスチャンが愛唱する聖書箇所に、イザヤ書43章4節がある。とりあえずここでは、「高価」や「尊い」に関わる表現に注目してみたい。

 (以下の引用文について、太字はすべて筆者による。また「/」は訳文における改行を表す。)

わたしの目には、あなたは高価尊い。/ わたしはあなたを愛している。(新改訳2017)
あなたは私の目に貴く重んじられる。/ 私はあなたを愛するゆえに・・・(協会共同訳)
われ看(み)てなんぢを寶(たから)とし尊きものとして亦(また)なんぢを愛す(明治元訳)
あなたはわが目に尊く重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに・・・(口語訳)
わたしの目にあなたは価高(あたいたか)く貴く/ わたしはあなたを愛し・・・(新共同訳)
Because you are precious in my eyes, / and honored, and I love you, ... (English Standard Version 2016)
Since you are precious and honored in my sight, / and because I love you, ... (New International Version)

 自分が読み慣れまた聞き慣れてきたのは新改訳2017の訳で、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」というものであった。

 もちろん、これだけでも感動に値する。しかし、読み慣れまた聞き慣れるうちに、このことばの内容の深さ、驚きを見失ってしまっていた。

 文語訳では「寶(たから)」と訳されている。神にとって、「あなた」は宝ほどに価値のある、大切なものであるという。

 しかし私が最も感動を味わったのは、また驚いたのは、英訳を読んだときだった。

Since you are precious and honored in my sight, … (New International Version)

 このhonoredということばにはっとさせられた。

 自分は英語母語話者ではないため、その意味を完全に理解できているとは言い難い。それでも、honoredということばが持つ響きに感動した。

 英語のhonoredという語の用例を見るに、I am greatly honored by your presence(あなたがいてくださることによって私は大いにhonoredです→ご臨席を賜り大変光栄に存じます)やI feel highly honored by your invitation(あなたが招いてくださったことによって私は大いにhonoredです→お招きいただき光悦至極に存じます)など、一人称の主観的な感情を表すことばとして用いられているという印象を受ける。

 しかしイザヤ書43章では、神ご自身が「あなた」と呼ばれる対象に向けて、You are honored in my sight(あなたはわたしの目にhonoredである)と述べておられる。

 一般的な用法とは異なるために、異様な印象を受けた。異様な印象が強かったために、耳に残って離れないようになった(ちなみに、You are honoredという表現が本当に異様なのかどうかは、実際に英語母語話者の方に尋ねてみないと分からない・・・)。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という、あまりに聞き慣れすぎて聞き流すようにさえなっていたこのことばを、英訳に触れることで、新鮮に聞き直すことができた気がした。もっと言えば、忘れていた感動(もしくは、そもそも感じられていなかった感動)を再び味わえた心地がした。




 ところで、「神はあなたを愛しておられます」ということばも、あまりに聞き慣れすぎたためにその感動を味わえなくなっている、驚くことができなくなっている、そんな気がしている(共感してくださる同志、おられませんか)。

 上に取り上げた箇所で言えば、「わたしはあなたを愛している」よりも「わたしの目には、あなたは高価で尊い(あなたはpreciousでhonoredな存在である)」の方に感動を覚える。

 神の〈愛〉という重要な主題を、今や陳腐になってしまったとさえ言える「愛」ということば以外で語ることができたら、驚きと感動を取り戻せるのではないかと思ったりもする。

 しかしおそらく、新しく見出した表現もそのうち陳腐になり、また別のことばを探さないといけなくなるだろう。噛めば噛むほど味が出ることばがあったとしても、長く噛みすぎるといつかは味がしなくなるものだ。

 それでも、工夫の探求は続けたい。

 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている」(新改訳2017)という出エジプト記(3章7節)の記述などは、「愛」ということばこそ用いられていないけれど、神の〈愛〉を感じさせてくれる。

 他にも、例えば遠藤周作による『沈黙』のあの場面もまた、「愛」ということばを用いることなく神の〈愛〉を感じさせてくれる。

「自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はおまえたちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(『沈黙』新潮文庫版、219頁)
「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)」(『沈黙』新潮文庫版、240頁)

 とはいえ、これらのことばが神の〈愛〉を表現するものだったとしても、光が当てられているのは一側面に過ぎない。神の〈愛〉はもっと多面的で、そのゆえに色々なことばで言い換えられるのだろうと思う。

 キリスト教の「愛」ということばについて、皆さんはいかがお考え(お感じ)ですか?最近、特に心を占めている問題です。

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