自己表現は尊いのか【Well-being思索記vol2】
自己表現は本当に尊いのだろうか。
Well-being思索記vol1では、
「人の話を聞きたくなるのはどんな時か」というテーマで思索した。
でも今回は、人に何かを話したい時はどんな感情なのか、そしてその感情は称賛されるものなのか
という切り口から、
自己表現の本質と是非に関して思索したい。
「自己表現」にネガティブな印象を抱く人は少ないだろう。
この言葉からは、アートや、マズローの自己実現欲求を連想されることが多いかもしれない。
まさにこのnoteも自己表現と分類されてもおかしくない。
・自己表現できている人は、個性がある。
・私は自己表現が苦手だ。
・自己表現できるものがない。
など、自己表現ができる人は称賛され、できない人は称賛されない。
そんな風潮を感じることもある。
ここで問いたい。
自己表現という行為はそんなに尊いものなのだろうか。
①自己表現とは何かを考える
②感情表現という概念
③自己表現と感情表現の対比
③自己表現の評価
という流れで思索していく。
①自己表現とは何か
「自己を表現する」という行為について分解してく。
まず、自己とは何か。
自己、すなわち私とは何か。
このあたりの議論は哲学の世界で山ほど語られているので、
ここではしっかり検討はしない。私見を述べる。
一言で言えば、
「他でないもの」が「私」である。
考えてみて欲しい。
この世の人がすべて私だったら。
性格も、容姿も、得意なことも、好きなことも、考えることも、
全てが私と一緒だったら、
あなたは、皮膚を境界線とした個体のみを自分と感じるだろうか。
その個体と、自分を分けて考える必要はあるだろうか?
もっと現実的な例だとわかりやすいだろう。
チューリップ畑に行こう。
そこには数多のチューリップがある。
そこであなたは一本一本のチューリップを個体として認識できるだろうか。
色も形も一緒であるチューリップAとチューリップBは、
それぞれ見分ける必要性もなければ、植物学者でもなければ、きっと見分けることができないだろう。
一方で、チューリップAとチューリップCで色や大きさが違えば、見分ける必要性や個性を認める必要性が出てくる。だから個性を認識できる。
つまり、すべての認識できる個体は相対的な存在なのだ。(←めっちゃ重要
チューリップAの個性が認識されるかどうかは、
チューリップBとあるか、チューリップCとあるかで変わってきてしまうのだ。
さらに1mの長さの巨大チューリップDがあったとしたら、
チューリップAは"小さい方の"チューリップとして個性が認識される。
つまり個性の認識のされ方も、相対的に決まってきてしまう。
チューリップAがチューリップAたらしめるかどうかは、チューリップAに決める権利はない。
他の存在の相対的な関係の中で決まってくる。
話を戻そう。
つまり、「私という個性」も相対的な存在だ。
私とは何か?という問いには、
私とあなたの境界線が、私が何かを決めるのだ。
そのように自己を定義すると、
自己と他の境界線を表現することが、自己表現といえよう。
表現とは何か。
「表に現れる」と書いて表現だ。
自己と他の境界線が表に現れる行為といえよう。
「私はあなたとは違うんだ。」
簡潔に述べるのと自己表現とはこういったメッセージなのだということだ。
自己の定義の中に他があるのならば、
「自己」表現と言いつつ、他者すらも自動的に規定することになる。
つまり他者表現でもあるのだ。
ベンツに乗る事で、自分はお金持ちクラスターなのだと、表現する。
と同時に、ベンツに乗らない人はお金持ちではない、私とは別種の人間だという意味を内包する。
SNSで映えるカフェに行き、私はお洒落な人で流行人なのだと、表現する。
と同時に、カフェに行かない人はお洒落に無頓着で流行に疎い人であり、私とは別種の人間だという意味を内包する。
他者との違いを明確にし、表現していくことで自らのアイデンティティーを保護するという事は、現社会で生き残っていくためには必要だろう。
市場社会では、代替性の高いものの価値は薄れる。
つまり個性がないものは、一般的には淘汰される。
資本主義を生き残るためには自己表現は必要そうだ。
だが、資本主義から解放された世界でも自己表現は人間にとって必要な事なのだろうか。
②感情表現という概念
「自分は他者とは違う」という、わざわざ分断を生む行為は、
人類が心地よく生きていくという目的に対して、称賛されるべき行為なのだろうか。
これを検討するために、「感情表現」という概念を持ち出したい。
感情表現とは、読んで字の如く、
「自分の感情を表に現す」ということであるが、
感情とは、それは世の中に対する心の解釈だと捉えることができる。
一輪の花を見て、
色彩的な印象から、美しい、と感じる人もいれば、
咲いては散るという印象から、切ない、と感じる人もいる
世の中をどう心が解釈しているか、その現れが感情だ。
まとめると
「世の中をどう心が解釈しているかを表現する」
のが「感情表現」である。
ベンツが流行っていようとなかろうと、
ベンツのフォルムの美しさに感動を覚える。
ベンツというものが世間からどういった見られ方をしているかなど関係ない。ただ純粋にベンツの作る車が好きなのだ。
ベンツを見て、乗って、運転して、
その過程の中で揺れ動いた感情を、心の解釈として表現するだけである。
嬉しい。悲しい。寂しい。美しい。楽しい。妬ましい。羨ましい。
感動した。興奮した。
怒った。泣いた。憂いた。
ある事象に出くわした本人がどのような感情の動きがあったかを表現する。
そういった感情表現は、他者との境界線を導こうとしない。
つまり、受け手に何も影響しない。
受け手は、相手の感情をそのまま受け取ることができる。
感情を受け取ると、
自分の過去の似たような体験から感情を思い出し、擬似的に追体験することができる。
自分の過去の経験から生まれた感情を思い出させ、解釈が始まる。
同じ感情を共有することで、繋がりが生まれる。
これが感情表現だ。
さて、では感情表現と自己表現はどう違うのだろうか。
③自己表現と感情表現の対比
一つは発生する文脈が異なる。
自己が発生する文脈は、周りの環境や社会だ。
境界線を敷くということは、以下の2つの構造がつきまとう。
①相対的な環境条件が整う必要がある。
自分で自分のことをイケメンだと思っていたとしても、周りがそう思ってなければイケメンになれない。
地元ではイケメンだったとしても、東京に来てモデルに囲まれればイケメンじゃなくなることもあるだろう。
②表現に共通了解がなければならない。
自分はイケメンだと表現する手段として、
「ベンツに乗っている」と表現するより、
「ジャニーズにスカウトされた」と表現する方が、伝わるだろう。
自分はベンツに乗ることで、イケメンを表現したくても、
社会はそれを受け取らない。社会がイケメンと認めているのはジャニーズだからだ。
このように、自己が発生する文脈が社会が決めている。
一方で感情表現は自分の過去の体験が文脈として機能する。
花を見て美しいと思うか、切ないと思うかは、自分の過去に依存する。
社会が花を見てどう思うかは関係ない。
過去の経験で積み上げてきた花や、自然や、色彩美にまつわる価値観が影響する。
二つ目の違いは表現の受け手側にどう影響するかの違いだ。
自己表現は先にも述べたように、受け手の事すらも規定する。
一方で感情表現は受け手に自分の過去を回想させる。
③「自己表現」の評価
さて、ここで最初の問いに戻ろう。
自己表現は尊いのだろいうか。
少なくとも僕は、「尊い」とは思わない。
したい人はすればいいと思うが、
したいとも思わないし、されたいとも思わない。
自己表現も感情表現も、受け手は相手のことを理解することに役に立つ。
しかし、自己表現の分断/分節から生まれるのは"構造的で表層的な"理解だけである。
その人の本質の一部は理解できるかもしれないが、それは外部が与えた分類としての本質だけであり、
その人の非相対的な独自性を理解できるわけではない。
その人が社会的にどこに分類されるのかを知ったところで、マーケティングや学問くらいの役にしか立たない。
"人間"という土壌の豊かさの再発見には繋がらない。
感情表現は、相手と自分の境界線ではなく、相手の過去を理解するのに繋がる。
過去には時間があり、今という空間から感情が生まれる。
次元を超えた人間とその個人の豊かさの再発見につながるのが感情表現だ。
そういった意味で、僕は自己表現より、感情表現を尊んでいる。
皆さんは、どんな表現が好きですか?
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