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「識実(バーチャル・リアリティー)」!?VRの日本語訳を考えてみよう!

 「バーチャル・リアリティー」「アバター」。VRを使っているとカタカナ表記ばかり登場する。「仮想現実」と言っても「仮想敵」のように「仮に」という意味が強く、「現実」という言葉が虚ろにされている。もともと西洋の概念のため、今はまだ適切な訳語を当てはめられていないだけかもしれないが、自分たちの言葉で表せてこそ新しい概念が日常となる。我々は漢字文化圏の人間だ。福沢諭吉が「フリーダム」「リバティ」を「自分を根拠とした」「自由」と訳したように、蘭茶みすみも「バーチャル・リアリティー」を「識実」と訳してみたい。

 「識実」とは、「認識される実体、現実」という意味だ。英語の“Virtual”は「事実上の/実質的な」という意味があり、「仮に置いた」というよりはかなり現実寄りで実体のある概念を指している。「同然」にも“Virtua l”が用いられており、「制度上・物理的な実体とは別に、人間の共通認識として事実として、そうである」状態を表現しているようだ。つまり、「バーチャル・リアリティー」には「認識上の現実」という意味があり、「識実」と訳せるかもしれない。

 「識」は、「物事を見分ける精神のはたらき」だ。もともとは仏教用語で、「六根(視覚、聴覚などの感覚器官や感じる作用)」から入ってきた情報を統合して、自分の主観上で世界を成り立たせる作用を言う。「六根清浄」は「認識上の世界を偏らせるそれぞれの感覚の欲求を絶とう」という意味になるし、VRは「六根強制満足」になる。我々が感じている世界は実世界そのものでは無いが、感覚器からの情報を統合して成立した世界の情報で、我々はこれを元に判断をするから、「事実上の(バーチャル)」の世界と言えるのである。

 我々が認識している「現実」とされる世界は、肉体人類の感覚器に合わせて統合され、再現された「バーチャル」な世界だ。もし本当の世界が見えるなら、紫外線や赤外線など、さまざまな電磁波でモノが見え、超音波が延々と聞こえているちょっとうるさいものになるはずだ。我々はその世界の上に「社会」という「バーチャル」を作り、その中で接眼画面に投影された「バーチャル」で「人間関係」という現実をやっている。認識の中に認識が成り立つ入れ子構造で事実を積み重ねているのだ。

 我々がバーチャル空間にいるとき、我々は同時に「ここに空間がある」と認識している。我々が互いに会話をするとき、「ここに人間がいる」と認識している。互いの姿を見てみれば「ここに美少女がいる」と認識する。我々の感覚器から入ってきた情報を統合した結果、「ここにそういう世界が存在している」を現実として認識している。これが「バーチャル・リアリティー」を「識実」としたい理由である。

 「識実」は応用も可能だ。「識体」とすれば、「認識されている体、アバター」となり、「識場」とすれば、「認識されている場所、バーチャル空間」になる。「識覚」とすればVR感覚だ。VTuberは「認識される発信者」、バーチャル美少女受肉は「美少女に認識されるようになる」こと。そして認識により成り立つ意思を持つものが「存在」だ。

 社会自体が、自然から離れて人間の認識の上で成り立っていることで持続している「バーチャル」ならば、我々人間だって自然の一部である肉体から離れて「バーチャル」として存在できるはずである。「バーチャル」を「バーチャル」という思考停止で終わらせずに、「識」という日本語に立ち返って、原点を見つめ直せば、「バーチャル」どころか世界の意味まで理解できるかもしれない。そしてそれが、より日常としてのVR普及に役立つ発想になるかもしれない。「バーチャル」に留まらず、さまざまなカタカナ語を日本語にして、「我々のもの」にしていきたい。

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