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メタバースで要求される「プロ存在」!?存在が自由なアバターVRで疲弊する前に - 実存主義

 アバターVRで自由な存在になれる「VRChat」などのアバターVRのメタバースでは、「プロ存在」を要求されて苦しむことがある。オンとオフの差が小さくなっていくメタバース。私も「ママ」「人類の救世主」などの「プロ存在」を期待されて苦しむことがある。自分から見た自分の存在と、他人から見た自分の存在を両立させるバランス感覚が、楽に生きるために必要かもしれない。

 私はアバターとVRでメタバース生活を送っている。特にVRChatは睡眠や飲み会が行われるなど、生活基盤としてメタバースになっている。一方、一部では収益化されたイベントやVTuberの収録が行われるなど、プロ性が要求される世界も広がっている。メタバースにはオンとオフが同時に存在しており、その境界線の曖昧さで苦しむ場合もあるかもしれない。最初は自然だっだ自分の存在が独り歩きして乖離が生まれる場合もあるだろう。

 「プロ存在」とは「他者からある機能を要求されたときに、それを遂行できる存在」と言える。我々は普段から機能を要求した時に遂行できることから、さまざまなプロに日常生活の大半を委ねている。通販でHMDのケーブルが見つからない時でも、量販店に頼めば届くのは、彼らが商品を届けるプロだからだ。プロ存在も、そのロールを期待されたときに、その通りに振舞うからこそプロ存在と言えるかもしれない。

 アバターVRのメタバースでの存在には、哲学的な意味があるかもしれない。フランスの哲学者サルトルで有名な実存主義。自分では認識すらしていないような、既に存在している実存する自然な自分の存在を「即自存在」、自分から見た認識下にある自分の存在を「対自存在」、他者から見た自分の存在を「対他存在」という概念がある。人間はこれら自分の存在の3つの側面を統一しようと苦しみ続けている。特に意識下に生まれてしまった対自存在と対他存在は、自由であるがばかりに苦しみ続ける。

 アバターVRメタバースでは、VRで自分のアバターを操作することで即自存在として自分の存在を、外の世界の他者に触れるためのインターフェースとしてデザインすることができる。対自存在はアバターそのものや、声、仕草、キャラクター性で自分を表現した存在と言える。対他存在は他者から見た自分だ。

 私は「普通の女の子」として生きていたい人間で、インターフェースである即自存在は女の子だ。無意識のうちにVRで目に入る自分の手足、そして鏡に映る自分は女の子である。表現したい対自存在は「普通のかわいい女の子」で、声や仕草、アバターや口調は自分でも一定以上の表現ができている自負がある。

 しかし問題は他者から見られる対他存在だ。私は普通の女の子でありたいにも関わらず、「教祖」「ママ」「救世主」「危険人物」などの機能を期待されている。特に疲れている「オフ」である時に自分のファンからこれらの機能を求められると、ものすごく消耗する。対自存在を表現できるキャパシティーが残っていないにも関わらず、「普通の女の子である」という即自存在と、「救世主である」という対他存在が一致していないからだ。

 ある友人は最初は女の子になりたかったものの、マスコットキャラクターとしての活動が有名になりすぎたせいで、その存在を期待されているようだ。オフのときは人間の姿で存在しており、触覚などの身体感覚もあり、「なぜマスコットキャラクターの姿ではないのか?」と聞かれて困ることもあるという。

 我々は対他存在に振り回されて苦しんでいる。他者の行動はなかなか変えることはできないが、自分の行動で広げることはできる。目の前の人間が、自分が期待する機能によって苦しんでいないか?第三者の声や名声に流されることなく、なるべくその人の実存の部分を尊重していきたい。

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