羊角の蛇神像 私の中学生日記⑱
鎖を解いて
「やめろー!」
寮長先生が叫んだ。
金属製のコタツの足が、何に振りおろされたのか。
それは、先生の切ない悲鳴と鈍く不穏な音を手掛かりに、私のまぶたの裏側で殆ど自動的に映像となった。
それを振るうWくんの心も、取り囲む3年生たちの感情も、私には測ることのできない遠くへ、ずっと遠くへ、飛んでいってしまった。
もういやだ。もう結構だ。
ここは地獄だ。
無理矢理に台詞を当てがえばそんなところだろう。
しかし実際には、私の心も在るべき所に無かったかも知れない。
「君の心には何も入っていないの。だから、お姉さんが君の心が空っぽでなくなるように、たくさん話すよ。」
その何年かあとに、お姉さんから言われた言葉だ。
私の心が空っぽではなかったとしたら、私たちの運命は変わっていたのだろうか。
上級生を呼び捨てにし、空気の読めない発言で彼らを苛立たせることが無かったら、私たちはうまくやってこれただろうか。
私の心の空っぽを、心から呪い、ひどく絶望するのはずっと先のことだ。
この時の私はただ、薄闇でひとりキロキロと視線を泳がせる、愚鈍な夜行生物だった。
息を潜めて墨色の空気を吸うと、眉間の奥で黒い光がチカチカと閃いて怖かった。
悲鳴を聴いた保母先生が隣の寮長先生を内線で呼んだようだった。
十景の中で最も恐れられていた先生が悠然と現れて、その場は一旦落ち着いたようだった。
その先生が寮の中を一通り見て回った。
その先生に「大丈夫か?」と、声をかけられた気がする。
私はぎこちなくうなずいて、「大丈夫」という言葉の曖昧さを反芻しながらやがて眠ったと思う。
震える肩を、うさぎのように抱きしめていた。
そのあとの記憶はひどく曖昧だ。
その翌朝だったか、数日後だったのか。
私は庭で掃除をしていた。
何がきっかけでそうなったのかも覚えていない。
経年劣化で弾けたバネは、時計の針を止めてしまう。
気がつくと私は、スリッパのまま走り出していた。
シブースト
いつも走る山道のコースへ入り、その途中で道を逸れた。
学園の中を普通に走ったのであれば、すぐに誰かに見つかっただろう。
敷地の端っこから、世界の果てが見える場所があった。
それは開発地区で、ずっと遠くまで荒れ地が広がっていた。
殺風景なその景色を私は懐かしんでいた。
私は祖父が大好きだった。
祖父はビルマで戦った時の銃創を、手と背中に持っていた。
幼い頃に一度だけ見せてくれた時、私は宝物のようにそれらに見入った。
祖父は犬のタロウの散歩へ私を連れて行ってくれた。
祖父の家から見える高架道路のその向こうの、どこまでも続く開発地区を私たちは歩いた。
何も無い殺風景な景色が果てしなく続いていた。
名も知らぬイネ科の雑草が風に揺れて、鈴のように鳴った。
鼻唄を歌うような身振りで軽やかに歩くタロウが振り返って祖父を見つめる。
祖父の細い目は、灰色の海の色をしていた。
その光景と、言葉の要らない私たちのひと時が、私にとってどんなに豊かで満ち足りていたか、うまく伝えられなくてさびしい。
崖の上から荒れ地を見ていた。
ずっと遠くに打ち棄てられた重機があり、羽を休める鳥たちが見えた。
大地の焦げ目と断層が、シブーストのように輝いていた。
私は山道のランニングコースに戻り、それからまた別の道へ逸れた。
掻き分ける草の朝露にジャージのズボンを湿らせながら、木々の影を縫うと、敷地を囲む金網と、その向こうの住宅地が見えた。
私は低い金網をまたいで外へ出た。
私の初めての無断外出の、記念すべき一歩だった。
デアデビル
転居の少ない子どもたちは、自分の家から学校への通学路をベースにして、校区内、校区外、隣の町という風に、行動範囲を広げて行くのだろう。
部活で他校に行くとか、自転車やバスで遠出するとか、家族と行っていた繁華街に子どもたちで行くようになるなどしながら、土地勘を獲得していくのだ。
要するに、転校ばかりしていた私に土地勘は無かった。
地元からかなり遠い学園周辺なら尚のこと、東西南北もわからないのだった。
高校生の時に警備員のアルバイトをしたことがある。
夜勤警備で、周りに何も無いような田舎の交通誘導をした時のこと。
私は時計を忘れた。
子どもが携帯電話を持つような時代では無かったので、今何時で、あと何時間でアルバイトが終わるのか分からないのはたいへん心細かった。
その夜は月がきれいだった。
私は月が動く経路とその角度を定期的に観察することで、月が沈むまでの時間を大まかに把握することができた。
月の満ち欠けで暦を記した太古の人々は偉大だが、その叡智を私は多少なりとも継承していたことが誇らしく、ひと気の無い夜の郊外でひとり満足した。
そんな野生的なインテリジェンスを、中学生の私はまだ持っていなかった。
土地勘が無いなりに、本屋やコンビニで地図を見るなどの方法はあったはずだった。
しかし、平日の日中に、ジャージとスリッパの中学生は不審だった。
私はなるべく人目を避けながら、家を目指して移動しなければならなかった。
まず思いついたのが、電車の線路に沿って歩くという方法だった。
最寄りの駅から学園までのルートは把握していたので、まずは駅に向かった。
そして、普段電車を利用することの無かった私は、どちらの方向へ進めば良いのか全くわからなかったので、向かって右方向へ進むことにした。
愚かな私は、自分の足を引っ張る過去の私の引きこもりを呪った。
なんて世間知らずで間抜けなのだろう。
ひとりスタンドバイミー
線路沿いに歩けば、違う町へ行く。
なんとなく家から遠去かるように感じれば来た道を引き返してその先へ進めば良い。
なんて無謀で呑気なプランだろう。
しかし私の心は冒険者のように軽やかだった。
しまった。
あまりにも早く、計画の見直しが必要になった。
川に差し掛かった所で道は途切れ、線路は橋の上に延びていた。
私は少し考えて、金網を乗り越えて線路の中に侵入した。
これなら道を逸れることは無い。
安心して川を渡ることができた。
しばらく歩いたが、線路の外は何かの施設や民家の敷地だったので、線路内を進むしか無かった。
あれらの場所を何と呼ぶのだろう。線路の敷地が一際広くなり、線路が枝分かれしたり、行き止まりになったりして、電車が停車している所があった。
興味深く眺めていると、乗客のいない電車が私の横で速度を落とし、それが完全に停まる前に運転士が怒鳴りながら運転席から飛び出した。
走行中の電車を停めると何千万円という賠償金を求められると聞いたことがあった私の脳裏に、多額の借金で苦しむ母の姿が浮かんだ。私は逃げた。
スリッパでは走りにくかったが、毎日毎日山道で鍛えたのは伊達ではなかった。
必死で走り、運転士からかなりの距離を離した私の目前で、線路は道路と立体交差していた。
線路の下の斜面を野球のスライディングのように滑り、金網を飛び越して歩道へ降りた。
運転士を撒いた私は汗をぬぐいながら、私のささやかな冒険譚を反芻し、高揚した。
羊角の蛇神像⑲へ続く
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