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羊角の蛇神像 私の中学生日記⑦

前回のクロエの黒板の話は、ずっと長い間忘れていたエピソードだった。
当時のことを文章に綴る中で、私の心の奥に埋もれていた古い記憶がよみがえる。

同窓会などで昔話に花を咲かせる機会の無い私には、子どもの頃の思い出を共有する友だちはいない。
このシリーズを書くことは、内なるもうひとりの私との、静かな同窓会と言えよう。

シアター

私は白昼夢を見るようになった。

中学1年の夏か秋のことだった。
友だちとの帰り道、信号待ちをしている時など、自分の体から意識が抜けるような感覚があった。
ぼんやりと、ある光景が浮かぶ。

それは映画館だった。
私の視点で描かれた映像、と言うよりも、私の目がカメラになっていて、私が見ている風景や人々、私の暮らしがずっとスクリーンに映し出されている。

ミニシアターのような規模の観客席は、老若男女の人たちでいっぱいだった。
彼らは皆、身なりが良く、物静かだった。

彼らは私の毎日を、スクリーンを通して見つめていた。
私は安堵した。
私がつらく寂しい時でも彼らが静かに見守ってくれている。

そのイメージが、時々私の頭に浮かんだ。
そういう白昼夢を見ていた。

ある年の元旦 目を閉じた若き母の膝の上で幸せそうな私
疎遠になった姉同然の従姉や今は亡き祖母と

青年と私

何がきっかけなのかはわからない。
気がついたらそういう白昼夢を見る私がいた。
もしかしたら、私の心はずっと幼い頃から傷ついていたのかも知れない。

私の白昼夢に浮かぶ映画館のイメージは、解離性同一障害の兆しのようなものだったのかも知れない。
そのまま心が壊れていけば、あの観客席の誰かが私の元の人格に代わって、私の暮らしのあれこれをこなしてくれたかも知れない。
そう考えると、あの観客席の人たちが懐かしく感じられる。
内なる私たちとの物語をそっと夢見たりする。

私は小学校に入る前、首を絞めて殺されそうになった。

近所でひとりで遊んでいた私に、痩せた青年が声をかけてきた。
黒っぽい服を着て細いフレームの眼鏡をかけたその青年の長い髪は、黒くて波打っていた。

優しいお兄さんという感じで笑うその青年は、公園で私と遊んでくれたが、不意に私の首を絞めた。
遠のく意識の中で、私は母の声を聴いた。
絶叫のような母の声を私は初めて聴いた。
青年は私から離れて走り去った。

幼い私は泣きも怒りもせず、静かに理解した。
人は人を殺すということを。

最後列右から2匹目のタヌキが私
豚のように殺されていた世界線もある

閉ざされた世界

幼い日の事件のせいで心が壊れたのだろうか。
それとも、遺伝だろうか。
母方の親戚は何人か自死している。

かつて私の上司に複数の身内が自死した話をすると、上司はこう言った。
栄光の系譜だと。
私は今でもその言葉の意味する所がわからない。

白昼夢を見るようになり、私は学校に行けなくなった。
朝、トイレにこもって、始業時刻になるとトイレから出た。
休みがちになり、やがて全く行けなくなった。

母は、心細かっただろう。
ある朝、トイレのドアのすりガラスの向こうで何かが燃えているのが見えた。
母は、新聞紙を棒状に丸めた先に火をつけたのだった。
私は慌ててトイレから出て、それを奪って台所のシンクで火を消した。
母をそこまで追い詰めているのは自分だったが、自分ではどうしようもできないことがつらかった。
私は学校に選択的に行かないのではなく、行けないのだった。

ガラスの水槽がふたつあって、その間をパイプで繋げば、魚はふたつの水槽を自由に行き来できるだろう。
私にはそのパイプが無く、世界は閉ざされていた。
物理的に不可能なその状態を、私以外の誰も理解することはできないことも知っていた。
立とうとしても見えない手に体を抑えられているような。
うまく伝わる例えなど、永遠にできない。

私はとうとう、本当の異邦人となったのだ。

雪の中でウインクをする私
引きこもりになる未来が来るなど誰が予測できよう

夜の国

学校に行かなくなった私は、外にも出かけることが無くなった。
夕方目覚めて、ずっとテレビを眺めていた。
朝になってポンキッキが終わると眠りについた。

青年に首を絞められるずっと前、物心がついた時、人の子として存在する自分に対する違和感が既にあった。
これはそう表現する以外に他の言葉が見つからない。
そんな馬鹿なと笑われても構わない。
他の人がそういう感覚を持っていないこともわかっている。
誰にも理解されなくても良いし、理解できないことが幸せなのだ。

自分は漠然と幸せになれないという予感があった。
ハズレの魂を引き当てた自分。人の輪の外側にいる自分。
幼い時からそういう感覚に支配されていた。

学校に行けなくなった自分は、在るべき場所、無限に続く夜の国へ帰ったのだ。

近所の家の明かりがずっとずっと遠くの対岸の灯台のようにぼやけて見える。
人の声が遠くで聴こえる。
水の中で響くようなその声は、暗い海からの発光信号のように瞬いては消えた。
私は彼らと話す言葉を、痺れて開いた手の中から鍵のように落としたのだ。
永遠に手の届かない闇の底へ。

白昼夢を見ることはなくなった。
そこは夜の国。夢と現実の境目など、あっても無くても変わり映えのしない世界。

右側手前の少年が私
友だちと食べるカレーはさぞおいしかっただろう

羊角の蛇神像⑧へ続く

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