救いに至る信仰〜目が見えるようになったバルティマイ
今回注目したいのは、イエスと出会った一人の人物、バルティマイです。
このバルティマイに起こった出来事を通して、聖書が教えている「救いに至る信仰」について、教えられたいと思います。
バルティマイは、目が見えずエリコの街の道端で物乞いをしていました。
当時は今のような福祉制度はありません。体が不自由ということは直接その人の命に関わることでした。彼はその日暮らしの不安な日々を過ごしていたことが想像できます。また当時のユダヤ社会では、体に障害があるということは、その人に罪もしくはその人の両親に隠された罪があると考えられ、差別を受けていました。
このとき、ナザレ出身の不思議な人物、イエスがエリコの町にやってきたことはもっぱらの話題であったようです。イエスの周りには群衆が押し寄せごった返していました。バルティマイはこのイエスが今自分の近くにいるということを知り叫び始めました。
「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」
町の人々がイエスを「ナザレのイエス」と呼んだのに対して、バルティマイは「ダビデの子」と呼びました。「ダビデの子」というのは、旧約聖書で約束されていたメシア、救い主を指すことばです。
さらにバルティマイが求めた「あわれんでください」という叫びは、神の一方的な恵み(ヘセド)を求める呼びかけでもあります。食べ物やお金を恵んでくださいというのとは異なります。
バルティマイは、このとき適切にそして本質的な願いをイエスに求めたのです。
彼はこのときイエスをどれほど的確に捉えていたかはよくわかりません。もしかしたら、不安や自信は無かったのかもしれません。それでも、イエスを救い主であると信じて、イエスに唯一の望みを抱いて叫んだことでしょう。
イエスはこのような真実な叫びを聞き逃しはしません。
イエスはこの叫びを待っておられたのでしょう。
事実、イエスはこの叫びを聞き、バルティマイをご自身の近くに招かれました。
バルティマイは、イエスの招きを受け、喜び、躍り上がってイエスのもとに近づきました。
このとき、彼はまだ目が見えるようになったわけではありません。
ただ、イエスの招きを喜んだのです。
イエスに受け入れられたことを知り、躍り上がったのです。
バルティマイはイエスの招きのことばを聞いた時、彼の物乞いとしての在り方を捨て、上着を脱ぎ捨て、イエスの元へと近づきました。
イエスのもとに近づき、目が見えるようにされたバルティマイにイエスは言いました。
「あなたの信仰があなたを救いました。」
これは、バルティマイが信じたとおりに救いが成就したということです。
注意したいことは、イエスを信じるということは、信じるなら誰でも病気が癒やされるということではありません。また、病気が治らないのはその人の信仰が弱いからということでもありません。
聖書はこのような魔術的な信仰を語ってはいません。
イエスを信じる信仰とは、たとえ私の願い通りに物事がならなかったとしても、イエスは確かに私を救い、私をああわれんでくださるという信仰です。
バルティマイが目が見えるようになったのは、彼が「立派な信仰」を持っていたということや、人よりも熱心だったからということではありません。
もちろん、神への熱心さは大切ですが、その信仰が救いをもたらすのではありません。
さらに言うならば、人の信仰心が尊いものであるとか、熱心な求めが人を救いに導くということではありません。いわゆる「信仰心」が人を救うのではないからです。
聖書の信仰は、軸が異なります。
信じている私が大切なのではなく、信じている神が大切なのです。
バルティマイは、ただイエスが救い主であることを信頼して、イエスがくださる救いをただ素直に受け取っただけなのです。
自分は罪深く、力ないけれどもイエスには救う力があるのだと、イエスご自身を信頼したのです。
もし、バルティマイが的はずれな誰かや神を信じたとしても彼に救いはありません。どんなに懸命に、一生懸命求め、ささげものをし、自分を犠牲にしようとも、救いはないのです。
町の多くの人々は、イエスを「ナザレのイエス」と呼びました。それは、ナザレ生まれの不思議な人物という程度の思いであったことでしょう。自分たちにとって利益になること、不思議なことをしてくれるなら誰でも良かったのでしょう。興味本位でイエスの周りに集まってきました。
一方、バルティマイはイエスを「ダビデの子」と呼びました。イエスこそが約束の救い主であり、救いをもたらす唯一のお方であると信じたのです。
バルティマイの信仰は目が見えるようになるということによって明らかになり、この出来事は聖書が示している救いの真理を象徴する出来事になりました。
「主を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。