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魂の独身者たち『去年マリエンバートで』さえも...【映画考察】

何であれ勉強をし続けていると大きな知識の方から、向こうの方から自分に向かって無意識に望んでいたものを差し出してくれる、ということが往々にしてある。ある映画を観て、また別の映画を手にとってそれについて考え調べまた別の作品に手を出して…するとその作品群のスタイルや問題、提示している物事がずっと自分が探していたことではないかとハッとする瞬間の嬉しさといったらない。今年は映画『去年マリエンバートで』が私にとって自我を再確認させ、またこれからも心の片隅で咀嚼しながら付き合っていきたいテーマを孕んでいる作品だった。本作については町山智浩さんがアメリカ映画特電にて解説されているのでご視聴をおすすめしたい。難解と言われている本作に解答はこれだと言うつもりはないけれど、『モレルの発明』『ラ・ジュテ』『トリコロール/白の愛』『 トリコロール/赤の愛』、そしてミシェル・カルージュの『独身者機械』を“独身者”という言葉を一番のキーとしてここに書いておきたい。(他にも追記するかも。)

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最初にフランスの批評家、作家でありアンドレ・ブルトンならびにシュルレアリスムに傾倒したミシェル・カルージュの『独身者機械』に記されている“独身者機械”について。「愛の挫折がうむ異様絢爛の機械幻想」…『独身者機械』ではマルセル・デュシャンによる『大ガラス』そして同じ作品名の『彼女の独身者たちによって裸さにされた花嫁、さえも』という伝説のオブジェを中心にレーモン・ルーセル、ロートレアモン、エドガー・アラン・ポーなど“独身者の芸術家”の作品を読み解いていく研究書である。『大ガラス』のオブジェは上下に仕切られたガラスの上部に“花嫁”を、下部に機械的な“独身者”を描いたものであり、創造を象徴する女=花嫁と“独身者”との永遠に交わることのない関係を表している。“独身者”たちは愛と生殖を拒否する。独身者機械はエロティシズムを避けることはないが、エロティシズムが結果として産みだすものを拒否するのだ。カルージュが論じた独身者機械たちはエロティックで孤独な機械が一見それとは分からない形で表現されている作品、“独身者”はユダヤ=キリスト教における神の戒律を放棄し、生殖の命に背いた者どもということになっている。この『独身者機械』で、『去年マリエンバートで』の基となったSF小説アドルフォ・ビオイ=カサーレスの『モレルの発明』が言及されている。
冒頭で並べた作品には“独身者”、あるいは“独身者的”な共通点が含まれると考えている。新訳『独身者機械』の翻訳者、新島進さんの言葉を借りるなら少しこじつけていて、“カルージュってる”可能性は大きいがご笑覧頂きたい。

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「永遠に無感動の過去の中へ…。まるで大理石の彫像のように、石に彫り込まれた庭園のように。このホテルだってそうだ。あれ以来訪れる人もなく、動かず、語らず、おそらくずっと前から死んでいる召使たち。彼らはそれでもまだ見張りに立っている。その中を私は、あなたに会うために歩いてきました。不動で無表情の、注意深く、冷淡な顔の、列と列の間を通って。今もあなたを待っているのですよ。相も変わらず、あの庭園の入口を見やりながらためらうあなたを…」
映画『去年マリエンバートで』は、『モレルの発明』にもその名称だけ登場するマリエンバートという場所で、男Xは女に「あなたに会うために歩いてきました、あなたと私は去年愛し合いました」と延々と話し続ける。男Xが女に対して「あなたは私の方を振り向いた、しかし私には興味はないようだった。私はじっとあなたを見つめました。あなたは身振り一つしない」そんな言葉をかける。『モレルの発明』は雑に話せばとある孤島に潜伏した逃亡者の男が島にいる美しいフォスティーヌという女性の恋をするが、話しかけてもガン無視され続けるという物語である。フォスティーヌが彼を無視するのは当然のことで、彼女は映写機によって投影された映像だったのだ。かつてモレルという発明家が彼女に恋をし、彼女と共に永遠に生きるためにオリジナルの体から魂を抜き取ってしまう記録装置に己らを閉じ込め、幻想として存在し続けているのである。それを知った逃亡者は彼も魂を映写機に委ね、映像の中でフォスティーヌと生きる選択をする。

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「死んで映像になるという私の下した解決の真に優れている点は、死によってフォスティーヌを永遠に眺めるための必要条件と同時に、その保証まで獲得できるという点にある。」『モレルの発明』においては呼びかける者=逃亡者の言葉はフォスティーヌに届くことはないが、『去年マリエンバートで』の呼びかける者=男の声は女に届く(が、逢瀬の事実を拒否される)。そして映画の最後で女は男に「来年、この場所で同じ日の同じ時刻に…そうしたらお伴しますわ」あなたについていくわ、と告げる。モレルの映像のごとく、また時間が凝結した絵画のごとく不思議な逢瀬はまた繰り返されるのか。時に分断される化粧漆喰、バロック風、陰鬱で美しいホテルと黒い水滴のような影をもってそこにただ佇む者ども、そして女は『モレルの発明』における映写機が映す幻想と等しく、また男の記憶、夢と考えても良いし、生と死の間に生まれた幽幻の世界とも取れる。死と官能を孕む映画の世界はカサーレスの小説に続き“独身者機械”的状況にある。そして、こちら側の世界からあちら側の世界にいる恋しく思う者に呼びかけ見つめる、悲痛な“独身者的”関係が存在している。彼らは恋慕する者と同じ空間/時間軸/世界で共にあることが叶わず、孤独な存在である。

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この“分断された世界からの呼びかけ”という関係は『ふたりのベロニカ』で知られるポーランドの映画監督、クシシュトフ・キェシロフスキの三部作『トリコロール』でも見られる。三部作は青、赤、白それぞれの色に沿って愛を描いたものだが、唯一男性が主人公でコメディタッチの第二作目『トリコロール/白の愛』は独身者機械的な映画となっている。ズビグニェフ・ザマホフスキ演じる主人公のカロルが性的不能を理由にジュリー・デルピー演じる妻に離婚を言い渡され腹いせに彼女にある復讐を目論む、それは自身を死んだことにして彼女に罪をかぶせてやろうか、というストーリーだ。カロルは何度も何度も妻との幸福だった時を思い出すがそれは完璧な過去のことであり、現在の彼らは精神的にも肉体的にも分断されている。そして現在のカロルは性的不能、つまり生殖ができない身体となっている。物語後半、自分のことを死んだと思っている妻の元に会いに行くカロルはそこでやっと彼女と肉体的に結ばれることが叶うが、彼女にとってカロルはすでに現実とは逸れた存在となっている。そして結末、結局疑いをかけられ隔離された妻の様子をカロルは見に行くのだが、ここでビルの上部にいる妻を彼が見上げるという構図がある。そしてカロルが小さな望遠レンズを通して彼女を見つめると、妻は手話でメッセージを彼に送っており、カロルはひとり涙を流すシーンで幕を閉じる。孤独な状況に置かれ生殖ができない身体を持ち、恋慕する存在と溶け合うことのできない現在にいるカロルは独身者的である。

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そしてこの独身者的だ、という可能性はトリコロール三部作最後の作品、『トリコロール/赤の愛』でますます高くなる。主人公はモデルとして暮らすイレーヌ・ジャコブ演じるヴァランティーヌ。彼女は電話でしかやり取りのできない恋人がいるが仲はうまくいっていない。一方で法学生のオーギュストという青年も登場するが、ヴァランティーヌとオーギュストは会うことなく物語は進行する。ある日ヴァランティーヌは老いた老判事と知り合うことになうのだが、ジャン=ルイ・トランティニャン演じるその判事は人間不信の塊のような男で隣人の盗聴を趣味としていた。しかし判事の心はヴァランティーヌとの交流で次第にほぐれてゆく。そして結末はとある船が事故を起こし、テレビに映る生存者の様子を判事が見ている場面で終わる。その生存者というのが『トリコロール/青の愛』のジュリエット・ビノシュ演じる主人公、『白の愛』のカロルと妻、そしてイギリスに向かうため乗っていたヴァランティーヌとオーギュストだった。まるで老いた判事(=キェシロフスキの分身)が三部作の物語をこの事故の映像から作り出したように思わせる。それ以前にも『赤の愛』は未来の出来事と現在の出来事が並行して存在しているようなーー過去と現在、未来が多重に現在形で存在している、『去年マリエンバートで』のような凝結した世界を思わせる描写が多々ある(ヴァランティーヌのポスターや法学生オーギュストと判事の共通点など)。そして独身者機械的だ。老判事はテレビや電話を介し肉体的には分断された状態で人と関わりを持つ人間、また孫と祖父くらい歳の離れたヴァランティーヌに複雑な思慕を抱くことから独身者的である。生殖や性愛の結果を求めることなく遠くからミューズのような彼女を見つめ続けるのだ。この『赤の愛』を撮り終わってキェシロフスキ監督は引退宣言をした。老判事はキェシロフスキの分身であり、『ふたりのベロニカ』でも主人公を演じたイレーヌ・ジャコブは彼にとって『大ガラス』でいうところの上部の花嫁のような存在であったのではないか、と考えている。

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カルージュの独身者機械とは少し離れるが、“向こう側のあなたに話しかける”孤独な存在を描く映画にクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』それにSF映画とはかけ離れているがヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』があると思う。『ラ・ジュテ』の主人公は荒廃した未来から何度も何度も記憶の隅にある女に会いにゆき親交を深め合うが、彼女とは同じ時間で生きることは叶わず、また記憶の中で眠る女であるため男が話しかけなければ死んでいるに等しい。『パリ、テキサス』の主人公トラヴィスはかつて骨の髄から愛した妻がいたが愛しすぎたが故に狂気が侵食し始め、肉体的な接触ができない場所にどこまでも逃避し続ける。二人ともきっと恋人との物狂おしい接触を求めていたであろうが、『ラ・ジュテ』の男はディストピア世界に阻まれ、トラヴィスは自ら別離の道を歩む。愛情があるが故に生まれた相反する感情が映画という箱に閉じ込められた結果をみることの何と甘美なことだろう。ここに、上記で述べた作品群に共通する物悲しさと美しさが宿っていると思う。恋人や家族があり、人生と生活を守るぬくもりや幸せと対極にある、不滅と別離を同時に乞う矛盾を孕んだ血の流れない心情。断絶された場所から違う空間に、時間に、記憶にただ呼びかけるのは悲しいけれど、それでも独身者機械のようにある意味集合して存在し続けるというのは、ひどくロマンティックじゃなかろうか。それに生殖…愚鈍な政治家とやらが言う生産性を放棄して官能的な創造に傾倒するというのは芸術家の美徳ではなかろうか。

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『去年マリエンバートで』の監督、アラン・レネと脚本家のアラン・ロブ=グリエについて、触れれば長くなるが切り上げておきたい。ロブ=グリエはその後『不滅の女』『囚われの美女』『グラディーヴァ マラケシュの裸婦 』等々を監督した。彼は思考と記憶の狭間にきらめくミューズの姿を追いかけ、幻想や夢と現をある媒体を、とくに絵画を通して渡り歩き続けていた。彼もまた現実の放浪者であり、独身者であったに違いない。