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久美子

 あなたに御手紙を差し上げるのはこれが初めてでしょうか。あなたが今どのように過ごしているかを想像することは難しくはありません。連日あなたのニュースがセンセーショナルに取り上げられていますが、どれもやれ芸術家に潜んでいた狂気やら関係者たちの勝手な憶測やら解離性障害やらてんでどれも的外れ、滑稽であるのが美青年の殺人犯という事実に世間は色めき立っていること。そちらに報道は届いているのでしょうか、それももう予想済みとばかりにほくそ笑む姿が浮かぶのもまあ何とも可笑しなものです。あなたに一つお話したいことが御座いまして、それからあなたにとってはどの位の部分を占めているかも分からない私とあなたの関係を一度文字にしたためてみたら面白いのではないかなどと思いこうしてペンをとっている次第です。あなたと出会ったのはもう十年も前になるでしょうか。私もあなたも十八歳、若くて情熱的で心には角ばかり…私は何も知らず気がつきもせず、それでも戯曲やら小説やらを執筆したいという烈しい情熱を人知れず燃やすばかり。甘美で退廃、耽美な芸術に傾倒し訳の分からぬものに惑溺しては手の届かぬ夢にますます焦がれて、その夢を形作るのは現実に強く基づいた明確な線などということも知らない小娘でした。あなたのことは言葉を交わす前からよく知っていたのです。何せあなたは第一にその顔立ちが目立つじゃあありませんか、皆端正で美麗な人物を好き好みますが飛び抜けて美しくある人間がこんな近くにいれば、ましてや整頓された同じ学校の敷地内に存在していればとなるとその意嚮も存意も変わってくるもの。あいつは酷い女たらしだとか色情だとか頭でっかちの理屈偏屈者だとか、幾つか真実はあると申したいところですが、そんな面白くも知性もない嫉妬まみれの噂をよく聞いたものです。あなたには持って生まれた老若男女を超越した魅力、強く拒絶し、致死に至るような毒を持ちつつも誘わられずにはいられない、そんな危殆なる魅力がありました。私自身あなたの姿を初めて目にした時は正直なところ、秀麗で端正な容姿なんていう当たり前のことをさておきただ希少な動物を観察するような、今となっては面白いもので、これからも自分自身の一部ではさらさらないと無視をきめこんだのです。勿論、無視を決めこまねばならないという選択をしたのです。しかしそれから時が経ってあなたは私に電話を一本よこしましたね、それから膨大な文献やら書類やらをあなたの創作を滞りなく進めるに当たって整理する為にああやって二ヶ月もの間文字通り片時も離れずに過ごしたというのは今から思えば不思議なものです。あなたと話をするのはまるで埋まる細胞ひとつひとつが必要な臓物全て携えて新しい生物として首をもたげるような、そんな血や骨息吹く、素晴らしく輝いて、疲労困憊の時間でした。あなたが私に語りかけるたびに、私の情熱や自我は正しい方法を持って現れ、正しい船を選ぶことができる。崇拝に近い形で接し端から私たちを見たならば恐らく異常に等しい濃密な時間を選んだのも、勿論あなたを訪ねたのは何か、自分で物語を書くにあたって格好のエピソードを体験するに相応しいだろうと考えたから、それにあなたという男に会いたかったからなのです。見えない鎖にしっかりと繋がれて食事をし本を読みものを書きまた本を読んでは風呂と不浄以外の時間を全て共有しましたが、私たちは何もかも半分こというわけにはいかなかった。敬虔や感銘は二人きりの夜を過ごすたび少しずつ鬱屈や徒労の気持へと変遷し、同時にもう一人の私は既に激しい嫉妬に苛まれました。理由はあなたはお分かりでしょう、私が書く言葉や物語などあなたのような人間を前にしてはこれはもう、既に何度も議論され審美的な形で書き起こされたものと惨めに浮かび上がり、凡庸な私の断片が無様に継ぎ合わされているに過ぎぬ粗末なそれでしかないではありませんか。これはその時申し上げることはありませんでしたが考えたのです、私のように己の劇場を持つことが許されぬ人間は、あなたが包括する舞台の一部、あなたの作品のほんの一部になることができたらどんなに幸せなことか、例え自ら何も生まれなくとも非凡な人間の一部と化することができたら魂も転調しきっと報われよう。ところがその頃は二十歳にも差し掛からない頃、物を綴ることと生きることはイコールであると決めた若者たちはかたや才能に嫉妬し憎みながらも友情を…という訳に私はいかず、だって良くも悪くも異彩を放って研磨された人間に、世は不公平だと証明してしまうような人間に、思いとは裏腹に若者が惹かれるのは当然のことでしょう。全く、恋愛感情というのは不思議で愉快なものです、その間に紡がれる糸は臍の緒となるようにも、もしくは足か指かに深く食い込んで、愛が消滅する時には肉片ごと切り離さなければならないようにも、そしてそれさえも幻想に等しいということもあるのですから。隣に寝転ぶあなたはオルフェかイヴァンチツェの兄弟学校かブーグローの絵画のようで…含羞も浮かべずそう列記できるのはそれはもう、恋慕という曇りガラスを取り払ったところで間違うことのない真実で、私は自分が置かれたその状況に疑念を抱いたものです。私は中学校高等学校にいる時などは懐古趣味に陶酔し休み時間は早く早く終わってくれと願うような、知人友人と語らうよりは宇宙の最果てにある虚無に親しみを覚えるようなそんな女、そんな私があなたと時に睦言を交わしまっすぐな信念に基づいて叱咤され、現在のイデオロギーを超えて正しい道に導かれようとしている、この状況は何かが許さないのではなかろうか。尨大な書物とあなたの体温に包まれて過ごした一ヶ月は大変、大変夢のようなものでした。たくさんのことを話しましたね、戯曲に映画に小説に絵面、ブニュエルにマン・レイ、ホークスにボガート、清水邦夫に太宰治、コミュニズムにデモクラシーにドイツ表現主義にシュルレアリズム、私の生い立ちにあなたの恋愛事情まで…オーソン・ウェルズについて夜通し喋り続けるあなたの顔は新しいおもちゃの飛行機を買い与えられて、翌朝一番に飛ばしたくてうずうずしている、そんな子供のようでした。今回お手紙を差し上げるのは、あなたの恋に起因するのです。何のことだろうとお思いでしょう。ええ、あなたは大変モテるひとでした。その容姿に憎たらしいほど女心を知り尽くした脳味噌、しかし心の方は女の私からしてみれば少々理屈が過ぎて一笑に伏すようなところもありましたがそれはさて置きーーそりゃあまあ、あなたのような人間を前にしては抗う方は難しいというものです。あなたに決まった恋人はありませんでした。過去の恋人たちの話を聞いてみてもそれは形こそ違えど私も経験してきたような、青臭くて愛の文字も擦りやしない戯れにしか過ぎないもので、私はこっそりと安堵を覚えたものです。

 初めてそれを目にしたのはあなたが風呂場へ行っている時、私が埃をかぶったテネシー・ウィリアムズの『ヴュ・カレ』を読もうと本棚に手を突っ込んでいると何だか別のものが手に当たるじゃありませんか。写真の女性は切れ長の二重の瞳に鷲鼻、健康的というよりは生命力を強く滲ませて染まる頬、隣に並ぶあなたを圧倒するように艶ある弾けた肌を惜しみなく露出して、それは大変美しいひとでした。私と出会った時より幾分か幼いあなたは気恥ずかしそうに微笑みながら、そのひとの心の影に隠れるようにして佇んでいます。女よりも美しい容貌を持つあなたが微かに狼狽の色を瞳に浮かべ、何かを逃がさまいとばかりに余裕を忘れて唇を結んでいる様を見るのは初めてだったものですからそのことが私を居心地悪くさせました。しばらくその写真に勾引されました私はあなた以上にその女性について知りたいと思うようになりました。あの全てを知っているかのような、しかし決して冷徹なものではない、熱を内側にたっぷりと孕んだ瞳。写真上のあなたと彼女の間に存在する空間の独特な濃密さは一日、また一日と経つごとに私をじりじりと惑乱させました。ですからあなたがシャワーを浴びているとき、後ろめたさを感じながらもどこかに彼女の正体を知る手がかりはないものかと探り始めたのです。それは決して敵うことはないあなたへ肩透かしを知らぬところで食わせたいという愚かな一種の反抗心からくるものでした。何をしているんだと呆れるあなたの顔はもう何百回も頭に浮かびましたがどうぞ許してください。メッキが剥がれつつあるカンカンにぎっしり入ったまだ劣化も進んでいない手紙は全てあなたが認めたものでしたね。おそらくあなたのことですからもうそれを書いたのは僕であっても完璧に現在の僕ではない、創作物も芯は変わらなくとも技法やら表現方法を変えて執筆を進めるのだからまるっきり違う人間のもののようだもの、とか何とか仰るでしょうから少しだけ抜粋致しましょうか。「君というひとは予測不可能、審美的で過激な女です。いきなり僕の手をとりハサミをもたせて、ねえ私の髪の毛切ってしまってよ」「次の週末までに『風変わりなナイチンゲール』どこかから探してきてくれないかしら」そう言った翌日には「戯曲やら小説やらはもう結構、あんたは誰の足元にも及ばないわ、だってその脳みそをこれっぽっちも生かせてないってこと、あんたが一番よく気付いてないんだもの」とまくし立てる。君を前にすると僕は自分が全く小さくて無知な人間に思える」この文面が確か一番最初に読んだあなたの手紙だったと記憶しています。その夜も止まることを知らず物事をあちらこちらから観察して私に話し聞かせるあなたを見つめながら、私は恋愛について思索に耽りました。あなたが持つ恋愛の概念のことを。恋愛、色恋、粋筋、性は凡庸なる者にとっても非凡なる者になっても迷い込んでしまえば方嚮という言葉も忘却される荒野のような場所、唯一自己も消失する抗いがたい場所であると固く信じていたのです。あなたの純粋な秘密の記憶を覗くことも、尨大な時間を有しても太刀打ちできない才気と器量に対する姑息な足掻きの手段でした。この女性と出会う前のあなたは別人であったのか?私にとってあなたが洞窟からの解放者であったように、このひともあなたを鎖から解き放ったのか?このひとがあなたのどこを変えたのか?久美子さん、このひとは、あなたの手紙の中で女神のように神々しく、エリザベートのように烈火の如く存在しておりました。「君以上に真剣なひとを見たことがありません。良いも悪いも進むも立ち止まるも全てのことは等しいと教えてくれたのは君です。僕は日を重ねる毎君の全てに愛慕を寄せます。君は特別なひとだ」「君が蝋燭なりロープなり部屋にいきなり持ち込んでくるものだから驚きました…どうせ脱いでしまうのだからシャツもスラックスも破くのは構いませんが、そろそろ会いに行く服もなくなりそうですので勘弁してください」何もあなたを照れさせたいがために内容を繰り返しているわけではありません。なぜこうしてまた知らせる方が良いかはあなたもお分かりでしょう。とまあ、最初は好奇心に任せ背徳の歓びを堪能しながら夜な夜な目を忍んで読んでいたラブ・レターも一週間ほど経った頃から、自分の中に別の感情が鎌首をもたげるのを感じました…それが嫉妬であることは疑いようがございません、私はあなたから畏怖と羨望、同時に動物的な情欲愛欲を抱かれる久美子さんが狂おしいほど羨ましかったのです。二人の蜜月が長く続かなかったことも手紙でよく分かりました、こんな具合に…「君の考えていることがさっぱり分かりません、どうか連絡をください。奢りでしょうか、至らない僕なりに君に対して持つ限り全ての気持を注いできたつもりです…君は僕の無知さを愛していたのでしょうか、それとも僕は君から受けた光を期待に添えない形で屈折させたのでしょうか」私も心の片隅であなたに対して抱いたことのあるようなこんな気鬱、それをあなたも何時か過去に抱いたことがあるという事実は私に久美子さんへの嫉妬をますます募らせました。覚えていますでしょうか、私があなたに心の底から人を愛したことはあるかと尋ねたことを。あなたは恋愛関係などは自我が定まっていなければ真に生まれることなど無い、それに僕はものを書いてはそれが書き終わる度に内の殻が一つずつ剥がれてまるっきり違う人間になってしまうから一人の人間を長く愛することなどできないと言い、私にそのような通俗的なことを考える前に君も自分自身のことに気がつきたまえと軽く叱りましたね。それは最もだと頷きつつも既に手紙を読んでしまった後ですからこう思ったのです、あなたは久美子さんとの恋で深く傷ついたのだろう、あなたにもきっと認めるに憚かる敏感で繊細な心の区劃があるのだろう、だってあなたも私もまだ人に成るには短い時間しか過ごしていないのですから。そうしてあなたはひとつ戯曲を書き上げ、私は頼まれていた本やら戯曲やら多大な文献の分類を済ませ、二人っきりの時間が醒めようとしていたその最終夜、私は久美子さんへの厚顔な嫉妬と可笑しな慕情に区切りをつけるべく、最後と思われる手紙をこっそりと読みました。そこにあったのは何だか出来すぎのあなたと久美子さんの結末があり、彼女がどれほど唯一無二と言える魅力的な存在だったか、創作を行うあなたの両手にどれほどの影響を与えたか、そしてあなたを傷つけた方法までもどれくらい審美的なものであったか…

 その首尾一貫して小綺麗に収まった文面に私は拍子抜けしてしまうほどでした。久美子さんはあなたの中で死んだ。殺さずにはいられなかったのでしょう。その気持は私にも痛いほど分かります。ただそれは私にはこれからも訪れることがないというだけ。そうして、私とあなたの二ヶ月間はすぎてーー今でもありありと思い出すことができます、二人並んでベケットやミラー、カーマ・スートラやらニヤーヤ学派の本まで読み耽ったこと、寝転んだあなたが笑いながら延々とアイディアを私に語ること、自殺の話、自然の話、アニメーションの話、以前目にしたことのあるどんな事物もあなたのレンズを通せばそこに無限を秘めた世界があり、私はその眼識や素質に思慕しながら一心不乱に耳を傾けたものです。勉強と創作の合間に出かけた海、毎日のように見に行っても海も空も何もかもが違って、明媚な黄昏時の魅力、月の道が持つ全てがひれ伏せざるをえないその力に触れて、人が海を詩う理由を噛み締めたものです。部屋を出てあなたと別れてから、私はこれまでに知っていた世界よりも一人ぼっちになりました。友人に家族、周囲の人間がつかう言葉が点で理解できなくなり、四方八方を見渡しても流れるのはカルキ臭しか持たない酷い水ばかり。あの部屋にあふれていた徳や美意識、永遠たらしめる要素のみで構成された創作物、芸術でさえ今ここでは嘲笑の的、合理化に値するものとして軽んじられる事物であるかのように思われて、一人深い深い喪失と虚無に覆われた私はそれでも滑稽でした。なぜ私が深刻癖に苛まれているのか。自分はそんな所に立ってなどいないじゃないかと。時に予期しない事実が背中を押すこともあるものです。思い煩う私に幸か不幸か残っていた執筆への情熱に火を再びくべたもの、それはあなたに愛されていない、ということでした。抱きしめる高さがまるっきり違ったという事実、私はあなたのミューズになることはできないという事実、幾らあなたを求めあなたも私を求めてもそこに愛は介在しないという事実、それが私の背中を押して書き上げた小説がこれも幸か不幸か今の地位にある理由となったのです。あの時あなたからの電話を取らなかった理由は、ただ怖かったからなのです。私はあの時自分の作品が持つ至らない部分に気づくことを拒否した。私は全く何ももっていない人間なのです。真摯ではない人間なのです。だってメッキで塗り固めたままここへ来てしまったんですもの。性別や年齢に起因する物珍しさが稚拙な力をまるで最純な才能のように担ぎ上げるのを自覚しながら無抵抗だった。一人、また一人と私の本を買う人間が増えるたびあなたに責められているような思いがして、内心は冷え冷えと懐疑に満たされて、書き上げれば滑稽だ酷いものだと思いつつも、その不健康な円環の一部と完全になってしまったのです。私は純なる偉大な物事と一対一で向き合うことを選べないままここへ来てしまった、染み付いた虚栄心や大望は鏡の向こうでぐんぐんと肥大し不健康な居心地の悪さを作ってしまった。これがあなたへの最大の裏切りです。あなたにとって女という存在、恋慕の意味での愛を傾けられるに値しなかった私はせめてあなたと同じ対象の前へ孤独に立ち、犠牲的であることを敢行せねばと思いましたのに、こんな念を抱くのは振り切れなかった証拠に違いないのです。あなたの作品がこっぴどく叩かれた時、私は自分の作品がいかに悪書であるか突きつけられた思いだったわ。

 そうしてあなたのこと、なるたけ一緒にいたことを思い出さないように努めていた頃、あれは『蝶々の姉妹』映画化のお話を頂いた時期でした…私は新宿での打ち合わせを終え小伝馬町までタクシーを拾おうとしておりました。三丁目の道端で駅まで戻った方が良いかそれともここで捕まえてみるかと道路をきょろきょろしていたんです、もうお分かりでしょう、向かいの通りの道を何度も何度も写真で見た、久美子さんが歩いていたんです。間違いはございません、あの綺麗な鷲鼻に大きな瞳、写真では長く垂れていた豊かな黒髪は肩までばっさりと切って、リネンのシャツに鮮やかなブルーのデニムを履き、黒のハイヒールがよくお似合いで…想像よりもいくらか小柄で、何だかとても優しそうな方でした。画館の角を曲がってしまおうとする久美子さんを私追いかけました、きっともう二度とお会いすることはないと思いましたから。走って声をかけた私を少し不審そうに、それでも素性を明かしてあなたの友人ですと告げると何ともにこやかに「こんにちは」と返して下さって、その日本人女性らしいはにかんで嫋やかなこなしと、夏の花のように華やかな笑みにすっかり見惚れてしまいました。私たちは最初から待ち合わせをしていたように自然にルノアールに入ってテーブルを挟んで座り煙草をのんで、面白い偶然ですねと微笑み合っているのです、自分があんなに羨望のさざ波を立てたことなど忘れて私たちは本当に何てことのないお喋りをしました。私の職業、彼女の職業。彼女は今保育士をしているのだそうです。ずっと子供が好きで可愛くて仕方がない、いつかは自分で保育園を持ちたいと仰いました。私の話も熱心に聞いて下さって、文章を書くなどと言うことは自分にとっては想像もつかないことです、素人には分かりかねる事ばかりだと思いますが、一人ものを書くというのは孤独で労苦が絶えないでしょう、どうぞご自愛下さいませ。私はそんな久美子さんにすっかり親愛の情を抱きつつもあなたの手紙から昇り立つ彼女の像とかけ離れておりましたから不思議で不思議で、だって目の前の久美子さんはあまりにも“普通”の方なんですもの、だから恐る恐るあなたのことを尋ねたのです。彼女は少しおかしそうに笑ってこう回顧されました。「あの子と私は今から十年少し前でしょうか、同じピアノ教室に通っておりましたの。私は保育士になりたいと思う前からピアノが好きでして、小さな頃からその教室に通っておりまして、彼がやってきたのは中学生ぐらいだったかしら。ぴかいち上手というわけではなかったけれど狂いなくすらすらと弾くのに長けている子で、それにあのお顔立ちでしょう、小さな生徒さんのお母様達に同じくらいの女の子達から大変人気でしたわ」それから久美子さんはこう続けられました。「あの子とは一度だけデートしたことが…高校生ぐらいだったかしら、一度くらい一緒にお出かけしましょうなんてそんな可愛いお誘いを頂いて、レッスンが終わって根津あたりのカフェに寄ったんです。今私たちが座っているような、こんな雰囲気のカフェに。あのひと本当に頭の良い方ね、音楽の話からバレエや演劇まで、様々な芸術形態を融合させたら面白いんではないかだとか、サリエリのような人間はモーツァルトよりも魅力的だとか、そんな話を楽しそうに喋って、私正直たくさんの意見を持っていなかったものですから、ただ黙って聞いていたんですの。しばらくお喋りしてからあのひと、何だったかしら、私に質問をしたんです。もうずいぶん前のことだから忘れてしまったわ。でも私きっと、彼が望んでいたような返答をすることができなかったのね。私が答えてからすっかり大人しくなってしまって、それからはピアノ教室で会うことはあっても、どこかへ一緒にお出かけしたりだとかお付き合いするだとかそのようなことはありませんでした。懐かしいわ」私と久美子さんはそれからもうしばらくお喋りをして、不思議なご縁ですねと笑ってお別れしました。私は、全く、あなたが賛美し神格化した女性にーー完璧な幻想として創り上げた愛の劇場に焦がれ幾許か神経を削り、背中を追いかけてきたというわけです。あなたが全て創り上げた虚像の女性を、唇を噛み締めながら追ってきたというわけです。もう不思議だとか悔しいだとかはさて置きとして、可笑しくて可笑しくて。こっそり手紙を装った原稿を覗き見ていたことも、あなたの事もいつか小説にしてやろうだなんて意気込んでいたことも、恋愛という関係に神聖な繊細さが宿ると無邪気に信じていたことも全て惨めったらしく、可笑しくて仕方がなくて…ああ、憎たらしい、あなたのことがやっぱり憎たらしいです。百人が背いたとて過激で真のものしか存在しない均整のとれた世界を持っていること、そのもの、であること、受ける影響も手に取る知識も全てあなたが包括する複雑な舞台の一部にしてしまえること。そして私をいつの時も見捨てなかったこと。何度も願ったのです、ああこの女もたいそれた奴じゃあない、俺のお眼鏡に敵いやしないね、ならば生み出したことさえ忘れて封印してしまおうと思う作品のごとくどこかへしまってそのままへしてしまおう、私はそんなことを微かに期待していたのに、あなたはどこまでも追ってくるじゃあありませんか。始めて賞を頂いた時、新しい本が出来上がった時、刑務所に入る前だって電話をよこして、私が恐れる理由を疾うに知っていながら。私はあなたから生まれたに等しいのですもの。遠くない前あなたは言いましたね、真に凡庸なる者は自分が凡庸であることを自覚はしないと。凡庸も積み重なれば非凡であると、そう私の創作と人生に向ける意欲を駆り立てましたね。私があなたがそう言うならと啓示を受けたように頑なに信じ続けることを知って。そうして私は情熱を捨てることができず、醜くも美しい夢と芸術の世界に憑かれてものを書く、しかしどの人間に評価されようともあなたがこれは塵屑だ芸術への冒涜だと言うならば私はこの評価は気が狂っているのではないかと疑い生んだ作品も愛することなんてできやしない。あなたは今一人きりの世界でどんなお話を創っているのでしょうか。このお手紙にもきっと、私が面喰らうような反応をするのでしょ。私のこの話、こんな女もいるもんだと思って聞いて下されば十分だわ。近々お伺いしようと思います。塀の中にいる人に掛けるのも何ですけれど、お身体には気をつけて。では、また。