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雑感5「夫不要社会」

悪魔の遊園地

 北米にはアーミッシュと呼ばれるキリスト教の宗派が存在する。この宗派の特徴の一つは、現代文明の徹底的な否定である。テレビやラジオなどの現代的なテクノロジーは、悪しき個人主義を助長し、競争心や虚栄心を駆り立てるものとして排除される。「Amish」で画像検索していただければ、簡素な服を着た馬車で生活する人々の姿がご確認いただけるだろう。つまり、

「テレビも無え、ラジオも無え、車もそれほど走って無え」

 というリアル吉幾三の世界で、俗世から切り離された質素な生活を送っているのが、アーミッシュと呼ばれる人々なのである。

 だが、16歳になるとこの生活は一変する。若者たちは16歳になると「ルムシュプリンガ」と呼ばれる期間に入り、車、酒、ドラッグ、セックスなど、あらゆる快楽が許されるようになる。これは、アーミッシュがスイスの再洗礼派に起源を持ち、洗礼を受けるかどうかは成人の意志で決定すべきだと考えているためである。つまり、洗礼を受けアーミッシュの戒律に従って生きるか、それともコミュニティーから離れて俗世で生きるか、この期間のうちに己の意志で決定せよということだ。

 以上の説明は、2002年に米国で公開された『Devil's Playground』というドキュメンタリー映画に依拠している。なので、情報が古くなっている可能性もあるが、少なくとも20年前にそのようなコミュニティーが存在していたことは確かである。この作品によれば、90%の若者が俗世の快楽を捨て、アーミッシュとして生きることを選択するらしい。

 なぜ、唐突にキリスト教のマイナーな宗派の話をしているかというと、最近このドキュメンタリー映画を思い出す機会があったからである。その機会を与えてくれたのは、日本における「性に奔放」とされる人々である。

遊び足りない・・・

 性に関する話題はスキャンダラスであり、「性に奔放」と言うと、それだけで様々な道徳的反応を引き起こすものである。「性に奔放」とは、つまり不特定多数の相手と頻繁に性交渉を持つ生活をしているということだが、しかしこれだけでは良いとも悪いとも評価できるものではない。

 例えば「酒飲み」について考えてみよう。「酒飲み」と一口に言っても、定期的に休肝日を挟みつつ、古今東西の酒を取り寄せては味わい尽くすようなマニアから、日常生活がままならぬほど酒に溺れ、専門的な治療を要するようなアルコール中毒者まで、その内実は千差万別である。重要なのは、どのような行為をしているかではなく、その行為によって己の人生が豊かなものになっているかどうかであることが、容易に理解されよう。もちろん、我々は別に健康のために生きているわけではないので、肝臓や精神に悪影響のある酒の飲み方をしていると自覚しつつも、これが己の人生であると引き受けることは可能である。ましてや、酒を一滴も飲まない人間がいたとして、それだけで酒を飲む人間よりも人格的に優れているといったことはあり得ない。ただし、「これがおれの生き方だ」という認識が、単なる自己欺瞞や不安の埋め合わせに過ぎず、むしろ人生を貧しいものにしている可能性があることは、常に頭の片隅に置いておく必要がある。

 同様のことは性生活についても言える。「性に奔放」というだけで「性に厳格」な連中よりも自由に生きているだとか、「性に厳格」というだけで「性に奔放」な連中よりも道徳的に優れているだとか、そのような自己規定はバカげている。自慰でもしていたほうがマシであるような、ただ排泄するだけのしょうもない性行為を繰り返しながら、経験人数が何百人であるとか、昨日は誰とヤッただの自慢されたところで、それがどうしたという話であるし、パートナーとの関係が完全に冷え切り、愛からもセックスからも見放された分際でありながら、不倫報道に触れては「許せん!」と噴き上がってルサンチマンを発散させるしか能のない人間に、「おれはふしだらな連中とは違って不倫などしないぞ」と道徳的な優位性を誇示されたところで、それがどうしたという話である。このような「性に奔放か/厳格か」という二項図式で自己を規定しようとする者がいれば、その者たちはことごとく阿呆であると言ってよい。

 真に問うべきは、

「それで、お前は生きていて幸せなのか?」

 という一言に尽きるだろう。もちろん、人間なんてものは阿呆な生き物であり、不幸や失敗を重ねながらジグザグに生きていく存在なのであるから、人生のあらゆる段階において常に幸福である必要はない。現時点では不幸であったとしても、不幸な経験があったからこそ、それが将来の幸福に繋がるという可能性もある。また、芸術家のように、満たされないまま生涯を終えたとしても、それがその人の生き様だったのだと、世界中の人々に感銘を与えるような特異な人生もあり得る。となると問うべきは、

「お前はどのような形式で生きているのか?」

 でも、

「お前は幸せに生きているのか?」

 でもなく、

「お前は本気で生きているのか?」

 ということなのかもしれない。

 だいぶ話が逸れてしまった気がするが、要するに「性に奔放」といえど、その内実は千差万別であるということだ。しかし「性に奔放」な者たちにも、一つの共通点がある。なぜそのような生活をしているのかと問うてみると、その多くは判で押したように次のような答えを返してくるのである。

「えー、だってまだ遊んでいたいじゃん」

 ……この回答の奇妙さが分かるだろうか。この回答が奇妙であるのは、「まだ」遊んでいたいという点にある。つまりこの回答には、現時点では「遊ぶ」ことが可能であるが、将来的には「遊ぶ」ことが不可能になってしまうことが含意されているのである。ならば当然、おれは次のような返答をする。

「いや、死ぬまで遊べばいいじゃん」

 すると、次のような答えが返ってくる。

「ずっと遊んでたいわけじゃなくって、いつかは結婚したいんだよね。結婚したらさ、ずっと遊んでるわけにもいかないでしょ。痛いし。そしたら浮気とかすんのも終わりかなあ」

 ……要するに、結婚すればもう「性に奔放」な生活はできなくなってしまうので、タイム・リミットが来るまでに「性に奔放」な生活を堪能してしまおうということらしい。

 さて、ここまで糞文に付き合っていただいた奇特な読者の方々であれば、彼ら/彼女らがなにかに類似していることに気づくだろう。そう、彼ら/彼女らはまるで、いずれは戒律に縛られた禁欲生活に入ることを視野に入れつつ、それまでは現在の快楽にまみれた生活を謳歌しようと奮闘する、アーミッシュの若者たちのようではないか。

結婚の決め手

 おれはもうすぐ結婚して3年になるが、結婚していると、未婚者から次のような意味不明な質問をされることが多い。

「結婚の決め手って、なんだったんですか?」

 ……まったくもって意味不明である。この質問がどのくらい意味不明かというと、

「失業手当の決め手って、なんだったんですか?」

 と問うくらい意味不明である。失業手当を受けるのは、失業して収入がなくて困っているからである。現在の日本には、再就職活動中の生活の安定を図るため、一定の条件をクリアした失業者を経済的に支援する制度がある。だから、それを利用しただけだ。このようなことはあまりに自明であり、わざわざ「失業手当の決め手」を問うような阿呆はまずいないだろう。

 結婚についても同じことが言える。おれには愛する女性がいる。その女性はおれのことを愛している。そして現在の日本には、恒常的な男女関係に特権を与え優遇する結婚なる制度が存在する。だから、それを利用しただけだ。

 もちろん、現行の婚姻制度が一対一の性愛関係にある異性愛者にのみ特権と正統性を与える差別的な制度であることは、重々承知している。この制度の下では、同性愛関係や複数愛関係、性交渉ない友人関係などは、正統ではない「二流」の関係として貶められることになる。だからこそ、米国の哲学者であるエリザベス・ブレイクなどは、道徳的な価値判断や国家による制約を可能な限り削ぎ落し、あらゆるケア関係を社会の基本財として承認する「最小結婚」という改革案を提唱しているわけであり、おれもこの意見に概ね同意している。しかし、今後のパートナーとの生活を考えると、やはり結婚しておいたほうが不便がないので、問題があるとは思いつつも、この制度を利用しているというわけである。まあ、おれはロマンティストなので、実際はそこに儀礼的な喜びを個人的に付加したうえで利用しているわけだが。

 要するに、おれにとって重要なのは、愛し合う人がいるということ、その人と過ごしていると幸せな気持ちになれるということ、この人を幸せにするために生きたいと思えるということ、ただそれだけであり、結婚という制度自体はどうでもよいのだ。もちろん、現時点で愛し合っているからといって、永続的な関係が保証されているわけではない。おれと妻が共に生活しているのは、「一緒にいたいから一緒にいる」というただそれだけの理由に過ぎないので、おれと過ごすことが彼女の人生の幸福にとって無価値なものとなれば、そのときには即座に婚姻関係は解消されるべきである。そのためには、互いに経済的な自立を絶対に手放してはならず、いつでも離婚可能な状態になければならない。結婚なる外部的な制約が、我々の自由な人生の足枷となってはならないからだ。

 しかし、どうやら多くの人々にとっては、結婚という制度の枠の中に入ること自体が目的となっているようなのである。だからこそ「結婚の決め手」なる世迷い言が出てくるわけだが、人間関係よりも制度それ自体を欲望するとは、随分と変態的な倒錯である。

倒錯者たち、その1

 さて、話を戻すと、「性に奔放」な者たちにも結婚願望があることが分かった。となると、当然ながら次のような疑問が生じる。

「そもそも、なんで結婚なんかしたいの?」

 この質問に対する返答は、だいたい以下のようなものである。

「え、なんでかって言われてもなあ……やっぱり家族とかって欲しいし?」「孤独になりたくないから」
「子どもが欲しいから」

 ……なぜ自分が結婚したいと思っているのかも分からずに、なんとなく結婚したいなどとほざく阿呆どもはお話にならないので、そのような阿呆どもは放っておいて、まずは「孤独になりたくないから」という理由に焦点を当ててみよう。

 この者たちは、少なくとも結婚しさえすれば、「寂しい独身者の暮らし」を回避できると考えているのだろう。しかし、結婚によって回避できるのは、あくまで物理的な孤独だけである。結婚したはいいが、親密な関係を構築することに失敗すれば、むしろ精神的な孤独が増大するだけだ。孤独を逃れるための唯一の方法は、

「あなたのすべてを愛している。あなたが生まれてきてくれてよかった」

 と、互いに相手を全人格的に承認し合えるような関係を築くことだけであり、結婚は孤独ではない人生を保証するものではない。

 このような当たり前のことも解さぬ未婚者からは、

「結婚って、やっぱり墓場なんですか?」

 という、阿呆な質問をされることもある。あまつさえ、墓場で暮らすゾンビ先輩がその場に居合わせていると、

「いやあ、まったくその通り! 結婚なんてするもんじゃないぜ~」

 などという、これまた阿呆な問答が繰り広げられることになる。

 喜びたまえ! このような阿呆な質問をしている時点で、貴様が将来的に墓場の住人となることはほぼ確定である!

 言うまでもないが、配偶者と親密な関係を築くことができれば結婚は天国となるし、それに失敗すればゾンビ先輩の言う通り結婚は墓場となる。結婚そのものが本質的に墓場であるかの如く責任転嫁しているが、ゾンビ先輩よ、結婚を墓場にしているのは貴様自身である。

 このような阿呆な事態に陥ってしまうのは、ひとえに結婚それ自体を目的としているからであろう。結婚すること自体が目的となれば、人間はその目的を達成するための手段へと貶められる。身長・体重・年齢・職業・年収・学歴・性格・趣味・家事への貢献度など、人間は単なるスペックの集積と化す 。そして、

「条件的には及第点だし、これを逃したら結婚できずに孤独になってしまうかも……」

 というわけで、めでたく結婚と相成るわけだが、よくよく考えてみてほしい。結婚するということは、離婚しない限りはその者と死ぬまで生活を共にするということである。現在30歳で平均寿命まで生きるとすれば、実に50年もの時間を共に過ごすことになる。世間一般でいう結婚の条件に適合しているかという意味では、なるほど及第点であるかもしれない。だが、その者は50年もの時間を共に過ごすに値する人間なのだろうか。そしてなにより、50年という長きにわたって、たった一人の人間を愛し続ける能力があなたにはあるのだろうか。

倒錯者たち、その2

 次に「子どもが欲しいから結婚したい」という動機について考えてみよう。これこそが、性的な自由を求める人間たちをして禁欲生活へと至らしむる総本山である。

 「子どもが欲しいから結婚したい」という動機は、多くの日本人が共感するところであり、だからこそ日夜マッチング・アプリと睨めっこをして「婚活」に励んでいるわけだ。もちろん、

「そもそも、なんで血の繋がった子どもが欲しいの?」

 と問うことも可能だが、話が広がり過ぎて収拾がつかなくなってしまうので、これはまた別の機会に譲ろう。

 しかし、子どもが欲しいという動機を肯定したとしても、そのために結婚したいというのが、これまた非常に奇妙な動機であることが分かるだろうか。

 この奇妙さを理解するためには、そもそも結婚などというものは、歴史的に構築されてきた単なる制度に過ぎないことをきちんと認識しておく必要がある。歴史の詳細については割愛するが、社会学者の山田昌弘が指摘するように、日本人が「結婚困難社会」の中で婚活に勤しんでいる間に、欧米諸国はとっくに「結婚不要社会」へと移行していることくらいは、少なくとも知っておくべきだろう。結婚が不要な社会に生きる欧米人からすれば、「子どもが欲しいから結婚したい」などというのは、まったく意味不明の言説なのである。

 欧米諸国においては、まず親密な関係にあるパートナーが存在することが出発点となる。恋人と同棲することから始め、別れては同棲してを繰り返し、そのうち安定した関係を築けるパートナーに巡り合う。そうしてパートナーとの間に子どもが生まれるわけだが、だからといって必ずしも結婚するわけではない。例えばフランスにはPACSという民事連帯契約があるので、共同生活を営むにはそれで充分であり、わざわざ結婚なんてものをする必要はない。パートナー間の愛情がなによりも優先されるので、子どもを預けてデートに行くこともあるし、週に数回は愛のあるセックスをする。それで上手くいけばよいが、もちろん関係が破綻してしまうこともある。その場合は、もはや一緒に生活をしていても互いに幸せになれないので、さっさと別れるだけである。暴力の恐れがあるような関係でなければ、子どもは父母の家を往復しながら生活することもできるし、それが不可能であれば片親が引き取ることになるが、男女ともに経済的に自立しているのが当たり前であり、国によるが比較的福祉も充実しているので、問題なく子育てをすることができる。そうこうしているうちに、また新たなパートナーとの出会いがあり、再び親密な関係を築いていくのである。

 性にアクティヴで恋愛体質で、なおかつ自らの子が欲しいと思っている者であれば、どう考えたってこのような欧米型のライフ・スタイルのほうが合っている。死が二人を分かつまで人生を共にするかは分からないが、現時点においては親密な関係にあり、少なくとも数年間は別れるつもりがないパートナーがいるのであれば、とりあえず子どもを産めばよい。関係が破綻してしまった場合は、ふつうの恋愛と同じように別れて、また違うパートナーを探せばよい。子どもを産み育てるために結婚をする必要もなければ、性的な自由を放棄する必要もないのであり、死ぬまで恋愛を続ければよいのだ。

 また、子育てをするためのパートナーが性的な関係にある必要もないだろう。

 結婚して子を授かったはいいが、名状しがたい不満を抱えた女性4人の仲良しグループが、いつものように夫の愚痴に花を咲かせている。それぞれの結婚生活はもはや墓場であるが、みんなで集まるときだけは生きている実感を得られる。

「うちの夫がマジでクソでさ。家事も育児もやらないわ、週末は男友だちと遊び呆けてるわ、なんなん、アイツ」
「うちもそんなんだわ。キモすぎて、もう夫とはセックスする気にもなんないしさ。だから、こないだ久しぶりに会った同級生とヤッちゃったわ」
「マジで? あー、わたしも女性用風俗とか試しに行ってみよっかな」

 ここで突如、黙して思索に耽っていた一人に天啓がひらめき、この女子会に天才的な発想がもたらされる。

「いっそ、みんな離婚して、わたしらで子育てすればいいんじゃね?」「!?」
「!?」
「!?」

 彼女の言うとおりだ。子を産むためには精子と卵子の受精が必要だが、子を育てるためには必ずしも夫は必要ないのである。一度きりしかない人生を、破綻した関係に捧げて生涯を終えるのは、まったくバカげているし、険悪な家庭環境の中で育つよりは、仲のいい友だち同士の共同体の中で育ったほうが、よほど子のためではないだろうか。それが具体的にどのような生活になるかについては、ロール・モデルが少ないので未知の部分も多いが、試してみる価値はある。

 このように、子どもが欲しいからといって、必ずしも結婚をする必要はないのである。そう、あくまで理念上は。

夫不可欠社会

 「性に奔放」な人々が、あらゆる社会的な抑圧をはねのけ、まったく自由な意志によって、或る特定の人間と排他的で永続的な関係を結ぼうと思い至るとすれば、例えば以下のようなケースが考えられる。

 結婚とは、上野千鶴子に言わせれば、

「自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって、排他的に譲渡する契約のこと」

 である。人類が長年の月日をかけて獲得してきた自由を、そのようにあっさり放棄してしまうなど、あまりにバカげている。ゆえに、わたしは結婚などするつもりはさらさらない。周囲の人々が結婚して家庭を持ち始める中、わたしは人間の性の可能性を追求するため、あらゆる人々とセックスをし、あらゆるプレイを試してきた。

 しかし、なにかが足りない。なぜだか、満たされないのである。

「セックスの帰り道、突如やってくるあの虚しさ、あれなんだろうね? あれやばくね? 胸痛くね?」

 と、最近は性的MOROHA状態に陥っている。最初は刺激的だった様々なプレイも、今ではすっかり慣れきってしまい、セックスは単なる惰性へと成り下がり始めている。

 そんな或る日、新たなパートナーと交際することになった。今まで多くの人間と付き合ってきたが、いつも恋が燃え上がるのは最初の数か月だけで、恋が醒めると関係はすぐに破綻してしまった。今回の恋も同じ運命をたどるだろうが、まあ、恋の賞味期限が切れるまで今という時を楽しめればいい。

 こうして数か月、数年と月日は流れたが、なぜだろう、まったく恋の醒める気配がない。この人は、今まで付き合ってきたどんな人間とも違う。この人の吐く言葉の一つ一つが、わたしの蒙を啓き新たな世界へと誘ってくれる。わたしの吐く言葉の一つ一つを、この人は全身全霊で受け止めてくれる。この人とのセックスには、単に身体的な快楽があるだけではなく、心の底から満たされるような、存在そのものが肯定されるような、宇宙的な享楽がある。わたしが追求してきた究極のセックスとは、結局のところ、このような愛のあるセックスであったのかもしれない。だから、もう浮気をしようという気も起こらない。真のラーメンの味を知ってしまえば、フードコートの安いラーメンなどわざわざ食べる気もしないように。

 この人となら、死ぬまで一緒に生きていけるかもしれない。というか、死ぬまで一緒に生きたい。そうだ、この人と一緒に子どもを育てられたら、それはきっと幸せな家庭になるだろうな……。

 かくして、めでたく結婚と相成るわけだが、もちろん、これは一部の者だけに許された夢物語に過ぎない。このようなロマンティックな愛を最後まで追求できるのは、自らの子を産むためのタイム・リミットを気にせずに生きられる者だけである。

 言うまでもないが、妊娠・出産にはタイム・リミットがある。子宮・卵巣のある者であれば、加齢とともに出産のリスクは上昇を続け、35歳以上の初産は「高齢出産」という扱いになり、平均50歳で閉経してしまう。精巣のある者については、子宮・卵巣のある者よりはシビアではないが、同様に加齢とともに精子数や精子運動率が低下することが知られ、自然妊娠が難しくなる場合も多い。

 このタイム・リミットについて敏感なのは特に女性である。自らの子を望む女性たちはみな、「少なくとも30代前半までには第一子を産みたい」と口をそろえて言う。死ぬまで一緒に生きたいと思えるような相手が現れるのを待っていては、みすみす出産の機会を逃してしまいかねない。

 であれば、欧米人のようにひとまず暫定的なパートナーとの間に子をもうければよいわけだが、残念ながら現在の日本でそれを実行することは難しいだろう。

 その理由の一つは、もちろん経済的な理由である。自由にパートナーとの関係を解消できるためには、各自が自立した経済基盤を持ち、子どもを中心に据えた福祉が充実している必要がある。しかし、日本の子育て支援の惨憺たる現状や、岸田政権の打ち出す「異次元の少子化対策」が如何に低次元のものであるかについては、みなさんご存じの通りだ。日本における一人親世帯の相対的貧困率は50%を超える。一人親世帯の85%は母子家庭であり、父子家庭と母子家庭では平均年収に倍近くの開きがあるので、母子家庭の相対的貧困率はもう少し高い数字になるだろう。

 よって、「いざとなれば一人で子どもを育てればいいや」という楽観的な姿勢で子を産むことはできない。いつでも離婚可能な状態に留まっておくためには、まずは子を産むまでに自身のキャリアをある程度まで築いておく必要がある。それも女性管理職の割合が10%にも満たず、ハラスメントが横行し、長時間労働による貢献が出世のための条件となるような日本企業においてだ。もし離婚した際には、元夫から養育費を確実に回収できる手立てを講じる必要があるし、一人でも子育てと仕事を両立できるような手腕も要求される。そのようなことが可能なのは、よほど優秀なエリート女性くらいのものだろう。余裕をもって子育てをするためには、それなりの収入のある夫という機能が必要なのだ。

 だが、日本の女性が「子どもを産むために結婚」という発想になるのは、なにも物質的な理由だけではない。これまた社会学者の山田昌弘によれば、欧米人がパートナー間の愛情を重視するのに対して、子への愛情を重視するのが日本人の特徴であり、これこそが日本の少子化の原因の一つであると彼は指摘する。

 子を産むからには、世間体に相応しい「立派な結婚」が必要であると日本人は考える。中流以下の暮らしをさせては、子につらい思いをさせてかわいそうであり、そんな思いをさせるくらいなら産まないほうがマシ……ということらしい。おれからすれば、金はあっても愛のない家庭で育つよりは、金はなくとも愛のある家庭で育つほうが、よほど子のためだと思うが……。

 なので、日本の女性が夫に期待するのは、愛よりも金である。

「そんなことはない、わたしは愛のために結婚したのだ!」

 と反論したいかもしれない。だが、あなたの夫がそれなりの収入のある正社員や自営業者であるなら、仮にその人が低収入の非正規労働者であったとしても、果たして結婚しただろうかと考えてみてほしい。もちろん結婚したと即答できた方は素晴らしいが、もし一瞬でも言葉に詰まったのであれば、答えは明白であろう。金は愛のための前提条件なのである。

 しかし、「金より愛」という建前を持っているだけ、まだマシなほうではある。この世には、そのような建前さえかなぐり捨て、恥も外聞もなく「愛より金」「愛より顔」の醜悪さを詰め込んだ、審査制の出会い系アプリが存在する。名は伏せるが、その名を東カレデートという。ここ数年、インターネットを利用していると、商売であることを隠す気もなく、露骨に消費者の劣等感を煽るような下品な広告が増えたと感じるが、あまりに露骨な出会い系アプリの出現は、この現象と無関連ではないだろう。

 また、「子どもが大事」という価値観は、抑圧的な道徳観念をも生み出す。それは、子を育てるためには「立派な母」でなければならないという強迫観念として、また、子を育てるためには「立派な母」であれという世間体の圧力として表れる。先日の某有名女優の不倫報道などは、そのことを象徴する出来事であった。ドイツ出身の著述家であるサンドラ・ヘフェリンは、女優へのバッシングの中に「子どもがかわいそう」というコメントが多く含まれていることの異様さを指摘する。不倫などという行為は母親らしからぬものであり、そのような汚らわしい人間に育てられる子どもはかわいそう、というわけだ。類似の事例として、元AV女優が結婚を発表した際に「子どもがかわいそう」というコメントが寄せられたこともあったし、「性風俗業は本質的に不健全」として、セックスワーカーがコロナ給付金の対象外であることは合理的な区別であるという判決を下されたこともあった。

 結局のところ「子どもが大事」と言いつつ、本当は子どものことなどどうでもよいのだろう。現に子を産み育てにくい社会となっていることがその証左である。「立派な夫」と「立派な妻」による「立派な家庭」だけが正統であり、我こそその正統な人間であると誇示する連中の自尊心を満たすために、「品行方正」ではない母や、シングルマザーや、セックスワーカーは、正統ではないものとして生贄にされるのである。

 まとめるとこういうことだ。子を産むためには、子を不幸にさせないための「立派な家庭」が必要である。そのためには経済力のある「立派な夫」との「立派な結婚」が必要であり、自分自身は世間体に恥じないような「立派な母」にならなければならない。「立派な母」とは、家庭の外で恋愛をしたり遊んだりせず、家庭のことを第一に考える「良妻賢母」のことを指す。それは必然的に禁欲的な生活となるので、あたかも修道院に入るかのような心構えが必要である。だからこそ、今はまだ遊んでいたいと考えるわけだが、女性は加齢とともに出産のリスクが高まるので、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。こうして、少なくとも30代前半までには「遊び」を封印し、「立派な母」という戒律に従った禁欲生活へと自ら参入していくのである。そう、アーミッシュのように。

 現在の日本は、自立した経済基盤を持ち、確固たる信念をもって生きる一部の女性を除けば、経済的にも世間体的にも、かくの如く夫不可欠社会なのである。

夫不要社会

 もちろん、結婚をして幸福な生活が送れているのであれば、なんの問題もない。あっぱれなことである。アーミッシュだって、禁欲的ではありながらも、穏やかで満ち足りた生活をしている者は多いだろう。問題となるのは、不幸な生活を送っている場合である。

 結婚したからといって、その相手が生涯を共にするような運命の相手であるとは限らない。ロマンティック・ラブ・イデオロギーの洗脳によって、実際は金や世間体のために結婚したにも関わらず、本人は愛によって「夢の結婚」をしたと思い込んでいるような場合には、「こんなはずではなかった」という落胆は格別であろう。こうして結婚は墓場となり、自らは生ける屍と化すのである。

 このようなゾンビ人間は阿呆であると先に述べたが、しかし人間とはそもそも阿呆な生き物である。この程度の失敗はありふれたものであるし、ことさら非難すべきことでもない。どうして失敗してしまったのだろうかと反省し、次の機会に生かせばいいだけの話だ。

 ドイツ出身の学者であるエーリッヒ・フロムは、愛は技術 (art)であると述べたことで有名である。技術という訳語は、小手先のテクニックのようなものを想像させるので、能力と言い換えたほうがいいかもしれない。大半の人間は、自分がどうすれば愛されるかばかりを考え、愛すべき対象が見つかりさえすれば、それを愛することは容易いと考えている。そして、まるで優良な商品を物色する消費者のように愛を求めるわけだが、これはフロムからすれば愛というものを舐め腐った態度である。最もよくある勘違いは、イプセンの戯曲で描かれるような、「ぼくのかわいいお人形さん」という所有物として人間を愛でる態度であろう。これは幼い我が子をペットのように溺愛する親にも見られる態度であり、人間を愛するということからは程遠い営みである。

 初恋というものは、

「この人こそが運命の人だ! わたしはこの人を幸せにするために生まれて来たんだ!」

 という強烈なコミットメントを引き起こすものだが、それでもたいていの初恋は失敗に終わってしまう。それは人を愛する能力が未熟だったからであり、初恋の失敗は、単に恋愛感情が存在するだけでは人を愛することはできないという教訓を与える。こうして人は、深い傷を負うことによって初めて、

「なぜわたしたちは愛し合えなかったのだろうか」
「なぜわたしは幸せにすべき人を不幸にしてしまったのだろうか」

 と自分自身を見つめ直すことが可能になる。そして新たなパートナーと巡り会った際には、

「二度と同じような不幸を味わわせてなるものか」

 という決意のもと、再び本気で相手にコミットすることによって、人は少しずつ愛するということを学んでいくのである。また、愛するということに習熟していけば、相手が愛に溢れた素晴らしい人間であるのか、それとも愛の枯渇したさもしい人間であるのか、自ずと判別できるようになってくるだろう。

 おれの中学時代の国語教師は、

「子曰く、過ちて改めざる、これを過ちと謂う」

 と口癖のように言っていた。人間は阿呆なのだから、過ちを犯すのは当然のことである。問題は、自らの過ちを悔い改めることなく、いつまでも同じような過ちを繰り返し続けることであり、これこそ真の阿呆であろう。

 よって、結婚で失敗してしまうこと自体は大した問題ではなく、その失敗を次にどう生かすかだけが問題となるはずである。だが結婚においては、犯した過ちを悔い改めようと思っても、社会はその機会を与えてくれないのだ。現行の結婚をめぐる制度は、一度失敗してしまえばやり直すことが困難な仕組みになっており、墓場から抜け出そうと思っても、ゾンビとして生活することを余儀なくされるのである。

 おれはこれまで墓場に生きるゾンビたちを幾人か見聞きしてきた。或る女性は金持ちの男と結婚して子を産み、初めのうちは自らの幸福に浮かれていたが、妻の所有が確定したことにあぐらをかいた夫は、あっと言う間にクズ男へと豹変してしまった。即座に離婚を考えるべきだが、時すでに遅し。自らの経済基盤を手放して専業主婦となり、年端も行かぬ子を養育せねばならない身では、離婚したくてもすることができず、精神状態は限界へと近づきつつある。現在はSNSに夫への恨みつらみを書き殴ることで、なんとか正気を保つ毎日を送っている。

 或る女性は結婚して十数年になるが、夫との愛情は完全に冷え切っており、いわゆる家庭内別居状態にある。人間としての夫にはもはや用はないが、高額の学費を要する年頃の子どもたちがいるため、一家の大黒柱という機能としての夫は未だ必要な状態にある。子どもたちが大学を卒業し就職した暁には、離婚届を突きつけてやろうと、現在は虎視眈々と牙を研ぐ毎日を送っている。

 しかし最も多いのは、上記2つの例ほど夫婦関係は破綻してはいないし、結婚して後悔しているわけでもないが、「結婚なんてこんなもんだよね」という、そこはかとない諦めが漂っているような夫婦であろう。浮気をしないにしても、それはパートナーが浮気をする必要がないほど心を満たしてくれるからではなく、単に世間体が悪いからである。過去の長続きしなかった関係に比べて、現在の関係が長続きしているのは、パートナーが今まで付き合った人間の中で最も人格的に優れているからではなく、結婚という外部的な制約に、もしくは子というかすがいに縛られているからに過ぎない。これが結婚など遠い先の未来の話で、まだ遊んでいたいという時分における恋愛関係であったならば、とっくに別れを切り出しているのではないだろうか。

 こうして、なによりも大切な存在であったはずの、そのためにこそ結婚したはずの我が子は、愛なき両親を見ながら、愛を知ることなく育っていくのである。

 国家における各種の制度は、本来は国民の福祉を増大させるためにあるはずだが、現行の婚姻制度は、生きるために夫が不可欠な状態へと国民を追いやり、むしろ国民の自由を奪っているのが現状である。だからこそ、我々は夫なる機能が不要な社会へと移行しなければならない。

 なによりもまず保障されなければならないのは、結婚からの退出の自由である。そのためには、男女間の賃金格差を是正し、保守派の言う「伝統的な家族」ではなく、子どもを中心とした育児支援制度を充実させることが肝要となる。そうすれば、クズ夫に支配されている女性は即座に離婚することが可能となり、家庭内別居している女性は子どもたちの就職を待つまでもなく離婚することが可能となるだろう。

 これまで触れてこなかったが、同時に男性間の賃金格差の是正も必要である。どのような男性と結婚しようとも金銭的な不安を抱く必要がない社会になれば、よほど金や地位が好きな俗物でもない限り、愛より金を優先する必要はなくなる。東カレデートに登録している男性たちは、結婚の条件の揃った魅力的な成功者ではなく、ただの小金持ちのイヤなやつでしかなくなるだろう。夫が不要な社会とは、男性たちが「夫たるもの一家の大黒柱でなければならない」という規範に抑圧されることなく生きられる社会でもある。

 また、婚姻制度の拡張による価値観の変容も必要であろう。先にも述べたが、性交渉のない友人関係なども、保護に値する関係として婚姻制度の枠組みに包摂され、夫婦関係と同等に承認されるようになれば、誰が愛の枯れた夫との共同生活をわざわざ続けるだろうか。『腐女子のつづ井さん』という漫画では、仲の良い腐女子たちでシェアハウスをし、互いの萌えについて心穏やかに語り合う「わたしのかんがえたさいきょうの老後」というものが構想されるが、これもまた幸福な人生の一つではないだろうか。

 ただ、これらの改革によって実現するのは、あくまで多様な選択肢に開かれた、失敗しても何度でもやり直せる社会であるに過ぎないことには留意されたい。リベラルな社会は、必ずしも個々人の幸福を保障するものではない。むしろこの改革は、「良い大学に入って、良い企業に就職して、良い家庭を築く」ことだけが「正規ルート」とされる現状を破壊するものであるので、好きなこともやりたいこともなく、なんとなく結婚をするのが正しい人生であると考えている思考の停止した者たちは、人生の指針を失いアノミー (無規範性による混沌状態)に陥る可能性のほうが高い。ここにきて初めて、この者たちは己が自由の刑に処せられていることを知るのだ。新自由主義者が声高に叫ぶようなインチキな自己責任論が払拭されて訪れるのは、己にとって幸福とはなんであるかを自らの頭で考え、自らの人生を自己決定しなければならない社会である。

 なので、結婚のためにロマンティックな愛を断念する必要がなくなったとしても、実際にロマンティックな愛を実現できることが保障されるわけではない。ロマンティックな愛が実現できるかどうかは、ひとえにその者の人を愛する能力にかかっている。逆に、なんとなく欲望させられていただけで、ロマンティックな結婚にはあまり興味がなかったことに気づき、ロマンティック・ラブ・イデオロギーから解放される者も出てくるだろう。この場合も、解放されてそれで終わりではなく、では代わりにどのような人生を歩むべきか、自らの頭で考えなければならない。

 従来の規範が崩壊した社会では、これさえやっておけば「勝ち組」であるといったような生き方は通用しない。生活の形式による優劣は消滅し、「お前は生きていて幸せなのか?」という問いをじかに突き付けられることになる。すると当然、人々は不安に陥る。そして、その不安を金に換えようとする者たちが、自己啓発セミナーや、オンラインサロンや、カルト宗教といった形で登場し、「これこそが幸福な人生だ!」と言って、まがい物の幸福を売りつけようとしてくるだろう。だが、安易に得られる幸福など存在しない。たとえ不幸であったとしても、その不幸を真正面から見つめるよりほかないのだ。

 しかし、現時点では不幸であったとしても、それが将来の幸福に繋がるという可能性もある。人生のあらゆる段階において常に幸福である必要はないのだ。また、歴史を眺めてみれば、満たされないまま野垂れ死んでしまったとしても、自らの生き様を貫き、今でも世界中の人々に影響を与え続けている偉人たちが数多く存在する。我々に可能なのは、阿呆な失敗を繰り返しながら、ただ本気で生きることだけだろう。

悪魔の遊園地 (Reprise)

 『Devil's Playgound』という映画を日本に紹介した町山智浩によれば、

「では、アーミッシュの若者たちを田舎で自由にさせるのではなく、大都会ロサンゼルスに連れて行ってみればどうなるだろうか?」

 というテレビ番組がその後に企画されたらしい。その番組では、若者たちはほとんどアーミッシュには戻らなかったそうだ。90%の若者がアーミッシュへと戻るのは、結局のところ、酒やドラッグやセックスなどの快楽にまみれた生活をしていても、数か月で飽きて虚しくなってしまい、また周囲の者たちも「そろそろアーミッシュに戻るわ」と言って次々といなくなってしまうので、それならばアーミッシュとして生きることを選んだほうがよいと判断するからであるらしい。だが、大都会ロサンゼルスに触れた若者たちは、コミュニティーの中で質素に暮らすのでも、ただ単に快楽に溺れるのでもない、様々な自己実現の手段がこの社会には存在することを知る。アーミッシュの暮らしには、現代からは失われたコミュニティーの絆があり、それはそれで素晴らしい部分もあるのだが、しかし穏やかではあるが決まりきった予測可能な人生を送るよりも、自らの可能性を試してみたいと思うのが、人間のサガというものである。たとえそれが悪魔の誘惑であるとしても。

 アーミッシュへと帰還する90%の若者たちのことを思えば、現在の日本において、まだ遊んでいたいと奔放にふるまう者たちが、結局のところ規範的な結婚へと自らを投じてしまうのも、無理からぬことであろう。快楽だけでは将来や死への不安は払拭できず、周囲の者たちが次々と結婚し始めると焦りも募り、それならば結婚生活を選んだほうがよいと判断するのも当然である。だが、「立派な妻」と「立派な夫」による「立派な家庭」だけではない、あらゆる多様な関係性が人生の選択肢として呈示されたならば、同じように規範的な結婚生活を望むだろうか。もしかすると、大都会ロサンゼルスを見たアーミッシュの若者たちのように、自らの人生の可能性を試そうと、未知の冒険に躍り出るのかもしれない。

おわり


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