見出し画像

雑感4「家事という贈与」

実力も運のうち

 大谷翔平が天才であるためには、大前提として、大谷翔平が持つ技能が評価される社会が必要である。球体を速く正確に投げることができ、飛んできた球体を木の棒で上手に打ち返せるという技術は、野球が人々に愛されている社会だからこそ高く評価される。もし大谷翔平が百年に一度の腕相撲の天才であったり、そもそも野球の存在しない時代に生まれていれば、これほどまでに称賛されることはなかっただろう……。

 これはマイケル・サンデルの議論だが、家事についても同様のことが言える。おれは妻との二人暮らしで、最近まではおれのほうが暇だったので、おれが家事の多くを担っていた。そのことを言うと、「偉いなァ」と称賛されるわけだが、なぜ称賛されるのかおれには理解ができない。
 現代は家事をする男が称賛される時代である。当然、家事には向き不向きがある。その中でおれはたまたま、家事をあまり苦に思わない性格の男に生まれた。それだけの話である。おれが苦もなく家事を遂行できるのは偶然の産物であり、おれの手柄ではない。手柄ではないことを褒められても、困惑するだけだ。
 なので、様々なカップルから、家事を原因とする不和を聞くたびに、途方に暮れてしまう。多かれ少なかれ家事に苦痛を感じる者同士が、共同生活を営むうえで如何にして家事を分担するかという問題に、おれは一度も直面したことがないので、アドバイスできることがなにもない。それは大変だなァと、同情を示すことしかできない。
                   おわり
                  制作・著作
                   NHK
 ……いや、我が家にも家事における問題があったことを思い出した。そう、掃除の問題である。

掃除

 掃除というものは、実は家事の中では特殊な分野に属する。料理をしなくては餓死するし、洗濯しなくては着るものがなくなってしまうが、掃除をしなくても特に困ることはない。掃除などしなくとも生きてゆけるし、サボろうと思えば、いくらでサボることができるのである。
 ゆえにおれは、料理や洗濯に関しては、必要に駆られるたびにせっせとこなすわけだが、掃除はどうしてもサボりがちになってしまう。多少の乱雑さは許容して、掃除を必要最小限の回数に減らしたほうが、趣味に使える時間が増えるというコスパ思考が働くからだ。
 しかし、妻はそうではない。妻は共感覚的な感性を持っているため、部屋が散らかっていると、妻の脳内環境まで散らかってしまう。趣味に使える時間が増えたところで、部屋が乱雑なまま放置されているストレスフルな環境では、趣味を楽しむことなど到底できない。妻にとっては、掃除はサボってもよい雑事などではなく、料理や洗濯などと同様、生きるために必要な家事の一つに数えられる。
 こうして、

「掃除は必要最小限にして時間を節約したいおれ」
 VS
「こまめに掃除をして脳内環境を整えたい妻」

 という対立構造が生まれる。どうやら、おれにも家事における夫婦間の衝突について語る資格があったらしい。さて、どうするか。

解決策1:妥協

 まず、第一に考えられるのは「妥協」である。夫婦とはいっても、所詮は赤の他人である。赤の他人同士が、すべての物事において意見や感性が一致するなど、ありうるはずがない。であれば、夫婦関係を円滑なものとするためには、諦めこそが肝心であり、どこかで妥協することを学ばねばならない……というわけだ。
 夫に関して言えば、掃除など必要最低限だけすればよいではないかと主張したところで、妻と喧嘩になるだけなので、それよりは妻は赤の他人と諦め、我慢して掃除をこなしてしまったほうがよいだろうと妥協する。
 妻に関して言えば、掃除をしろと言ったところで夫は聞いてくれず、ストレスが溜まるばかりなので、それよりは夫は赤の他人と諦め、自分で掃除を済ませてしてしまったほうがよいだろうと妥協する。

 だが、これは得策ではない。このような妥協によって抑圧された感情は、その場限りで雲散霧消してしまうものではない。生じた不満は消え去ることなく、無意識下へと徐々に蓄積されていくだろう。また、人が妥協によってなにかを諦めるとき、その人は同時に他者を諦めているのであり、愛情をも諦めているのである。

 「ああ、掃除なんかやらなくても生きてゆけるのに、なんて時間のムダなんだ……この時間を使えばNetflixでドラマの一話でも見られるというのに……でも掃除をしないとキレられるからな……仕方がないか……というか、なんでこんなやつと暮らしているんだっけ?……」

「この人は本当に掃除をしないな……言っても分かってくれないから、もうそういう人だって諦めたけど……自分のためだけに掃除をしよう……うわ、わたしがこうして掃除をしているというのにNetflixなんか見てやがるよコイツ……というか、なんでこんな人と暮らしているんだっけ?……」

 このように相手を諦め続けた結果、いつの間にか相手への愛情がまったく枯れてしまっていることに気づく。愛情は一度でも枯れてしまえば、それを取り戻すことは難しい。彼ら彼女らの将来に待ち構えているのは、家庭内別居、不倫……そして離婚だろう。

解決策2:契約

 次に考えられるのは、「契約」による家事負担の分担である。サンデルの言う通り、人には向き不向きというものがあるのだから、そのことを責めても仕方がない。それよりは、向きも不向きもその人の特性であると積極的に認め、互いの特性に従って家事を分担することで、不平等ではないと互いに納得できる関係を模索するほうが建設的であろう。
 今回のケースで言えば、妻のほうが掃除に向いているので、掃除は妻の担当とする。そして、掃除によって妻が背負った負担の分だけ、料理や洗濯など他の家事の負担を夫に割り当てる。互いに不得手な家事があれば、日によって担当を交代する。このような「契約」によって、夫婦が対等に家事に対して負担を負っていると納得できる状態を作り出すことができれば、不満は生じないというわけだ。
 おそらく、これが一般的な家事分担の方法であり、悪くはない方法である。だが、実はこの方法には罠がある。「このような状態が平等である」と措定するということは、それ以外の状態は不平等であると措定するということでもある。つまり、このような平等な家事分担を実現するための取り決めこそが、新たな不平等を発生させる元凶となりうるのである。

 両人がよほど家事に向いており、互いに家事に割く時間が充分にあれば、契約をそつなく履行できるかもしれない。しかし、そのようなケースは稀であり、いつかは契約不履行が発生するだろう。契約不履行となる原因は様々であるが、例として、掃除担当者が仕事で忙しいとか、精神的に不調であるなどして、掃除をする余裕がない場合を取り上げよう。

(ああ、しんどくて掃除をする余裕がない……でも掃除はわたしの当番だからやらないと……うわ、あいつNetflixなんか見てやがるよ……いや、自分が担当してる家事はやってるから別にいいんだけどさ……でも暇なら少しは手伝ってくれてもいいのに……なんて思いやりがない人だろう……)
「ねえ、暇だったらちょっと一緒に掃除やってくれない?」
「なんで? おれが担当してる分の家事はもう終わってんだけど」
「いや、今日はちょっとしんどくてさ……悪いんだけど」
「はあ……まあいいよ」
(自分の担当くらいちゃんとやれよ……結局おれのほうが家事を多くこなしているじゃないか……不平等だ……)

 こうして、契約外のことであったとしても、妻が夫に示してもらいたかった思いやりは、「おれはちゃんと契約を履行している」という名のもとに斬って捨てられてしまう。仮に夫が掃除を引き受けてくれたとしても、それは契約不履行、すなわち「不平等」という結果になるので、夫は不満を募らせるだろう。
 契約不履行による不平等を解消するためには、債務者が契約の履行を約束するか、契約内容の見直しが必要となる。前者であれば、夫に不平等感を与えないために、妻が精神的苦痛を耐え忍んで掃除をすることになる。後者であれば、妻は夫に新たな負担を背負うことを納得させるだけの条件を提示しなければならない。仕事の忙しさや精神的苦痛を理由とした負担免除が認定され、円満に契約が改定されればよいが、それができなければ差し出せるものはなにも残されていない。不平等を解消できなければ、責務を果たしていないという弱みを握られ、「おれのほうが家事をやっているのだから文句をいうな」という優越的な立場を与えるしかなくなってしまうだろう。

「わたしはこれをしたのだからあなたはこれをしろ」
「おれはこれをしたのだからお前はこれをしろ」
 というのは、
「甲は金銭を渡したのだから乙は商品を引き渡せ」
 というのと同様、商的で交換的な関係である。ビジネスの世界であればこれで充分であり、当事者は契約に従って各々の債務を履行すればよく、もし債務不履行があれば堂々と糾弾すればよい。しかし、私的な人間関係はビジネスではない。
「契約が履行されていないではないか、ちゃんと自分の責務を果たせ」
 といったコミュニケーションが優位になれば、夫婦関係は思いやりを欠いた非人間的で機械的な関係に貶められる。このような関係が行き着く先は、互いの債務不履行に対する際限なき申し立てであり、決して実現されることのない「平等」へと向けた際限なき契約内容の見直しである。

 さて、ここまで書き進めていくうちに、
「家事に対する価値観の違いをどうすればよいか」
「家事分担という交換関係がもたらす不平等をどうすればよいか」
 という二つの問題が浮かび上がってきた。これらを解決するための方法として、「妥協」も「契約」による分担も万全ではないとすれば、他にどのような方法が残されているだろうか。

解決策3-1:融合

 まず、家事に対する価値観の違いについてだが、妥協という方法も、契約という方法も、人間は変化をする動物であることを見逃している。家事に対する価値観の違いによって対立が生じているのであれば、そもそも価値観の違いをなくしてしまえばよい。つまり、家事に価値を見出せないのであれば、家事に価値を見出す人間へと変化してしまえばよいのである。
 ……と、口で言うのは容易いが、これはそう簡単にできることではない。というのも、一般的にヒトという種は、自己自身が変化することを嫌い、現在の自己自身に執着する傾向のある動物だからである。それがまったく無意味であると分かっていたとしても、「これこそがおれという人間なんだ!」というくだらないプライドに執着してしまうのが、人間という動物なのである。

 その滑稽さを上手く表現しているのが、漫才コンビ「かまいたち」による「トトロ見たことない自慢」のネタだろう。映画『となりのトトロ』を見たことがないという、まったく意味のない、なんの自慢にならないことでさえ、人間はプライドにできてしまうのである。おれはこのネタを初めて見たとき、冷や汗をかいた。というのも、おれはかつて同様の理由で、ディズニーランドへ行ったことがないことをプライドにしていたことがあるからだ。
 このようなプライドを持ってしまった人間は、トトロを見ることや、ディズニーランドへ行くことを、極度に恐れるようになる。なぜなら、彼らの中では、「トトロを見たことがない」「ディズニーランドへ行ったことがない」ということが、すでに自分という人間を構成する重要な要素の一つとなってしまっているからである。彼らにとって、トトロを見たりディズニーランドへ行くことは、自我の崩壊を招いてしまう恐ろしい行為なのである。

 ……あまりアホな例ばかり挙げていると、他人事だと思われてしまうので、もう少し一般的な例を挙げよう。例えば「男らしさ」などは、くだらないプライドの代表格であろう。読者諸君は、
「それはおれの男としてのプライドが許さない!」
 というセリフを聞いたことがないだろうか。当人としては、
「おれは女の意見で自分の美学を曲げたりしない男らしい人間である!」
 と思っているのかもしれないが、実のところこれは、
「僕ちんは男らしいおれという虚像にしがみつかなければ自我を保てない弱い人間なのでしゅ」
 という告白にすぎない。そんなときは、トトロのことを思い出してもらいたい。
「ああ、この人はトトロ見てない自慢をしたいのだな」
 という気持ちで眺めてみれば、怒りの代わりに憐れみの情が湧いてくるだろう。

 逆に、ネガティヴなプライドというものもある。例えば、
「おれはコミュ障だから人と関われなくて当然なんだ」
 といったものだ。「コミュ障」であることによって、苦しみを感じているのは事実であろう。だが同時に、彼らは「コミュ障なおれ」という自己像に縋ることによって、それ以上の特典を得てもいるのである。まず、人と関わる努力を「コミュ障」を理由に免責することができる。仮に努力をして、努力が失敗に終わったとしても「コミュ障だから」と言い訳をすれば、挫折から自尊心を守ることもできる。また、「コミュ障」という立場から「コミュ力があって人生うまくいってる奴ら」を攻撃できるという特権もついてくる。「貴様らにおれの苦しみが分かってたまるか、貴様らにおれを批判する権利はない」というわけだ。なので、彼らは「コミュ障」であることを苦しいと感じつつも、その状態を本当に変えようとは望んでいないのである。

 多分に漏れず、おれもそのような動物の一匹であるにすぎない。

「おれは硬派な人間だからディズニーなんかへは行かないぞ」
「おれは音楽通だからそんな流行りの音楽なんか聴かないぞ」
「おれはコミュ障だから人と喋れないのは仕方がないぞ」
「おれはマスゴミを鵜吞みにするバカどもとは違ってネットで真実を知っているぞ」
「おれはそんな普通のことをするようなありきたりな人間なんかじゃないぞ」

 という自己像に縋ることで、くだらないプライドを守り続け、他者との間に一定の壁を築いてきた。自分のことが大好きで、自分のことしか眼中になかった。その当然の帰結として、おれは手痛い報いを受けることになる。ずっと傷つかないよう細心の注意を払って生きてきたが、おれは初めて心に傷を負うことで、くだらないプライドに縋り続け、他者を蔑ろにしてきた己の浅ましさに、ようやく気づき始めた。そして、おれという人間にほとほと呆れ果ててしまった。
 おれはプライドを捨てなければならなかった。そして、他者というものを知る必要があった。そう痛感していたところに現れたのが、現在の妻であった。もはや自分のことはどうでもいいので、相手のことを第一に考えようと、おれは妻のありのままの姿を見据えようと努めた。そして、妻という人間の新たな一面を発見するたびに、おれはその存在に圧倒されていった。

 人生は虚無である。この世界にはなんの意味もなく、なんの目的もない。そのような無意味・無目的な世界に、頼んでもいないのに我々は突然放り込まれる。「自由に生きていいよ」とだけ言われ、あとは放置される。自由にしろと言われても、なにをしてよいのか分からない。ただ、いつか死ぬことだけは分かっている。そのような状況に置かれれば、孤独と不安に苛まれるのは当然である。そこで人々は、世間や常識といったものに完全に埋没することで、死や人生の虚無による不安から目を逸らそうとする。キャラ化され様式化された無意味なコミュニケーションを反復することで、孤独を紛らわせようとする。資本の増殖に隷属した主体となることで、自分は意識が高く目標を持った人間であると錯覚しようとする。人類の99%は、基本的にこのような生き方をしている。
 だが、妻は違った。人生に意味がない? それがなんだというのか。私には人生でやりたいことがある。叶えたい夢がある。そのために、ひたすら努力をするだけだ。人生の時間は限られており、言い訳などしている暇はない。孤独や不安を紛らわせるためのくだらない馴れ合いに付き合っている暇はない。目標に向かって絶えず前進し、素敵な人々と毎日を楽しく生きるだけだ。
 妻には自己を正当化するための即席のプライドなどは欠片もなく、地道な努力によって築き上げてきた確かなプライドだけがあった。それでいて、思いやりに溢れ、他者を踏みつけにするようなことは決してないという、稀有な存在であった。おれはこのような生の在り方が可能なのかと驚愕した。

「妻の目には、この世界がどのように映っているのだろうか?」
 おれは、妻と同じように世界を眺めてみたいと思った。妻を前にしては、おれの即席のプライドなどはクソほどの価値もなく、邪魔なものでしかなかった。くだらないプライドの残滓など、すべて蕩尽してしまおうと決意した。
 こうして、妻の考え方や感じ方を一つ一つ習得してゆくにつれ、新しい世界が開けていった。今までおれが安住していたのは、なんと狭い世界であったのか。他者を前にして自己を明け渡し、自己が次々と変容していくということが、ここまで愉快で刺激的な営みであったとは。このような快楽に比べれば、「おれはこういう人間なんだ!」という張りぼてのプライドに縋り、他者を支配しようとしていたかつての欲望には、もはやなんの魅力も面白味もなかった。

 このような変容を遂げたのは、おれだけではなかった。おれのような人間にも、他者を感化できるような部分があったらしく、おれという人間と関わることで妻も変容していった。
 「妥協」に関する節で、夫婦といえども赤の他人であり、すべての物事において意見や感性が一致するなどありえないと書いたのは、まったく正しい。しかし、それは「出会った時点で」の話だ。人間関係は決して静的なものではなく、絶えざる相互干渉によって日々変容していくものである。互いに感化し合い、不和や障害をともに乗り越えてゆくことで、接触不良を起こしていた歯車は次第に噛み合うようになってくる。そして同じ世界を共有し、同じように世界を感じられるようになってゆく。そのような関係性の積み重ねだけが、二人の関係を唯一無二のものとする。

 前置きが長くなったが、このようにパートナーと世界を共有したいという思いさえあれば、掃除における価値観の違いなど大した問題にはならない。
「ほら、部屋がきれいだと気持ちいいでしょ?」
「うーん、確かに……」
 部屋が散らかっていても平気ということは、散らかっている部屋が好きということではないので、部屋がきれいになれば、おれも人並みに快適な気分になる。
「そうか、妻はこういった快適な気分で日々を送りたいのだな……」
 という感覚さえ分かれば、あとはその感覚を大切にするだけでいい。そうすれば、部屋が散らかっている状態が自然と気にかかるようになり、誰に頼まれたわけでもなく、自ずから掃除をするようになるだろう。

 さて、人間はこのような自己の変化を受け入れることが難しいと節の冒頭で述べたが、実はこれは男社会では普遍的に観察される現象である。例えば、おれが大学生のときに所属していた軽音楽サークルでも、同様の現象が観察された。
「おれもあの人のようにカッコいいライヴができるようになりたい!」
 新入生たちは先輩たちのライヴを見てこのような憧れを抱き、サークルに入る。そして、それまでの自己は打ち捨ててしまい、積極的に先輩たちの模倣を始める。こうして、入学当初は拙い演奏しかできなかった新入生たちは、先輩たちに同化したいという憧れに駆動されることによって、自分自身もカッコいいライヴができる魅力的な存在へと変容していったのであった。
 ただ、これには良い面ばかりでなく、残念ながら悪しき面も多々あった。入学当初は純朴そうだった新入生たちは、悪い先輩たちに感化されてゆくうちに、酒を飲んでは暴れ、ロックな生き方をしている我々は偉大であるという選民意識を抱き、女を劣等な生物と見なすことで男同士の絆を強化しようとする存在へと、次第に変容していったのであった。そして、同化が完了してしまえば、彼らは「男らしさ」という新たなプライドを獲得するに至り、最終的には、
「それはおれの男としてのプライドが許さない!」
 という、トトロ見てない人間へと逆戻りしてしまったのであった。

 このように、大きな副作用はあるものの、男社会の権力関係においては「憧れの先輩」と同化しようと自己を放棄する営みが、広く一般的に行われている。ところが、これが男女関係となると、途端に同じことができなくなってしまうのである。女は男と違って「憧れの対象」にはなりえぬ所有物とでも考えているのか、女と同じ世界を共有するよりも「女ができたっておれという人間は変わらないぜ」という矜持を男集団にアッピールすることを優先したいのか、とにかく、男は女に対しては自己を放棄し同化することができない傾向にある。
 しかし、結婚相手とは、離婚しない限り半世紀近くを共に過ごす生涯のパートナーとなりうる存在である。そのような生涯のパートナーこそが、この世で最も尊敬できる人物でなくてどうするのか。どんなことでも話すことができ、葛藤を乗り越えて関係性を深めることができる、この世で一番の親友でなくてどうするのか。逆もまた然りである。

解決策3-2:贈与

 次に、家事分担による不平等についてだが、これは「わたしはこれをしたのだからあなたはこれをしろ」という契約が履行されないことに起因するものであった。であれば、解決方法は簡単だ。最初から「わたしはこれをしたのだからあなたはこれをしろ」という見返りなど求めなければよい。つまり、見返りを期待しない贈与として家事を行えばよいのである。

 おれが家事をしているのは、家事という負担があり、負担は夫婦で平等に分かち合うものであり、分担された負担は責務として果たさなければならないと考えるからではない。単に、家事をすることによって妻が喜んでくれるのが嬉しいから、勝手にしているだけの話である。
 新しい料理を試してみると、
「なにこれ! おいしい!」
 と妻が喜んでくれる。洗濯や掃除をすると、
「うわ~、洗濯してくれたんだ! お部屋もきれい!」
 と妻が喜んでくれる。おれが家事をしている間に妻がNetflixを見ていると、
「妻は本当にリアクションのいい理想的な観客だなァ」
 と嬉しい気持ちになる。妻が喜んでくれるのであれば、おれにとってはそれだけで充分であり、妻の喜びこそが、おれの最大の喜びである。
 よって、おれの理想の家事分担は「夫10割:妻0割」ということになる。家事はすべておれに任せて、妻は仕事や趣味に打ち込んでくれるのが望ましい。

 しかし、実際はそのような分担比率にはならない。おれが家事ばかりしていると、
「あ! そうやって主夫の座をわたしから奪う気でしょ! ゆるさん!」
 ということで、おれに対抗して妻が家事をやり返してくる。分担された家事負担という債務を履行するためでもなく、夫婦の家事負担は平等でなければならないという理念のためでもなく、贈与として自発的に家事をやり返してくるのである。
 すると、家事の分担比率は「夫7割:妻3割」「夫5割:妻5割」というふうに変化してゆく。しかし、妻が家事をするほど、家事という贈与の喜びがおれから奪われていってしまう。そこで、妻には家事をする暇すら与えまいと、おれは家事の迅速化を図る。こうしてまた、家事の分担比率は「夫7割:妻3割」「夫10割:妻0割」と押し戻されてゆく。このように、我が家では家事の押し付け合いではなく、家事の奪い合いが起こり、家事の分担比率は日々変動してゆく。
 このような家事の在り方では、家事の分担比率がどのようなバランスになろうと、決して不平等になることはない。なぜなら、互いが互いのために好きで家事を行っているだけであり、負担の平等などは最初から求めていないからだ。

 このように書くと、
「その理屈だと、夫がまったく家事をしようとしなかったとしても、夫のために家事をすることは喜びとして耐え忍びなさい、ということにならないか?」
 という疑問が湧いてくるかもしれない。見返りを求めないことが贈与であるならば、確かにこの理屈は正しい。ここに、
「結局のところすべては交換関係であり、純粋な贈与などそもそもありえないのではないか?」
 という贈与の困難さがある。

 かつて、不治の怪我によってヴァイオリニストになる夢を絶たれた思い人を救うため、見返りを求めず、純粋な贈与として魔法少女になることを選択した者がいた。しかし、思い人と結ばれることなく魔女と戦い続けなければならない運命に打ちひしがれ、最終的に彼女は魔女へと変貌してしまった。今のところ贈与として家事を行っている妻といえども、「夫0割:妻10割」という状態が続けば、いずれは魔女になってしまうだろう。
 自己犠牲は美しいが、とはいえ一度きりしかない自分の人生である。人生を破滅させるような贈与を避けるためには、その者が本当に贈与に足る相手かどうか、贈与によって自分も幸せになれる相手かどうかを精査する必要がある。そしてきっと、その贈与に足る相手というのは、この世で最も尊敬でき、どんなことでも話すことができ、葛藤を乗り越えて関係性を深めることができるような、この世で一番の親友であろう。

運命の至る場所

 冒頭で、おれは家事をあまり苦に思わない性格の男に生まれたと書いたが、苦に思わない理由はそれだけではなく、贈与として家事を行っているからでもあった。
 しかし、おれにそれが可能なのは、妻がなにかを贈与したいと思えるような存在だからであり、そのような動機を抱くことができる人間におれを変容してくれたからである。ただ、そのような人間に変容するためには、くだらないプライドは捨てようと決意するに至るだけの経験が必要であったし、なにより妻という存在との出会いが必要であった。妻と出会うためには、複数ある軽音サークルの中から妻が入る予定のサークルを運よく選び取っておく必要があり、そもそも同じ大学に通っている必要があり、同じ大学に通うためには、高校三年生のときにその大学を薦めてくれた教師が担任するクラスに振り分けられる必要があり……。

 このように因果関係を辿っていくと、自己の変容の歴史とはすなわち、他者との邂逅の歴史であることが分かる。他者を広義に解釈するなら、人生の節目節目で出会った漫画やアニメや音楽たちを、自己の変容に重要な役割を果たした他者に含めることもできよう。そのような他者との出会いはすべて偶然なのだから、現在のおれが在るのはまったくの偶然の産物であるとしか言いようがない。蝶の羽ばたき一つの違いだけで、おれはまったく違った人生を歩んでいたことだろう。
 こうして考えてみると、サンデルの言う通り、獲得した成果をすべて己の努力と才能の結果であると見なすのは、驕り高ぶった自惚れであるというだけでなく、端的に事実誤認であるように思える。今のところ妻との関係が良好であるのは、偶然そうなっているというだけであり、おれの手柄であるとはとても感じられない。
 しかし、すべては運の結果であるという考えは、いわゆる「自己責任論」からの解放と、他者への寛容さをもたらしてくれるが、その代わりに未来は閉ざされてしまう。変わりたいと思っても変われないという場合、そのような人間に育ったのは運の結果であり、変われないのは仕方がないということになってしまう。ではやはり、未来を切り開くためには能動的な意志による努力が必要であるというような、精神論を復活させるしかないのだろうか。

 だが、ここまで見てきたように、おれを変容させてきたのは能動的な意志などではなく、様々な他者との出会いであった。必要なのは意志ではなく、そのように偶然的に現れる他者を前にして自己を明け渡し、訪れる変化を恐れないことではないか。当たり障りがなく発展する可能性のない人間関係を見直し、改めて他者と出会い直すこと、そしてまだ見ぬ他者に出会いに行くことではないか。そのような他者との出会いがもたらす変化は、意志によって事前に予測することは不可能なものであり、それによって人生がどう転がっていくかは、誰にも分からない。それは恐ろしいことかもしれないし、運命を呪う結果に終わってしまうかもしれない。
 それでも、おれは運命を信じている。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?